MEMORANDUM 今日の視点(伊皿子坂社会経済研究所)

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#1988 ゼロリスクはハイリスク

2021年10月10日 | 社会・経済


 自民党総裁選挙への菅義偉総理総裁の突然の不出馬表明を受け、9月3日4日の両日に河北新聞がLINEなどを通じて行ったネットアンケート調査では、新しい総理大臣に期待する資質(複数回答可)は、「リーダーシップ(57%)」と「理念・政策(55%)」がほぼ同割合で上位に並び、「経験と実績(11%)」「人柄(20%)」を大きく上回ったということです。また、期待する政策としては、当然といえば当然ですが「コロナ対策」が83%で断トツのトップ、2位が「景気・雇用」の59%、3位「年金・医療・介護(43%)」、4位「外交・安全保障(38%)」と続たとされています。

 決して政治家としての派手さはなかったものの、総務大臣、官房長官などの実務に手堅い手腕を発揮し、自身も「雪国出身のたたき上げ」が売りだった菅首相。しかしこの1年は、①後手に回った新型コロナウイルス対応、②「強行」と受け止められたオリンピック開催、③国民へ発信力の乏しさ…など、リスク・コミュニケーションの稚拙さが露呈し、与野党双方からの批判の嵐に晒され続けてきたといえるでしょう。
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 一国のリーダーとして国民の批判を一身に受け、まさに「茨の道」を歩んできた菅首相に対しては、(調査結果からもわかるように)特に「リーダーシップ不足」を指摘する声が大きいようです。

 長引く緊急事態宣言、長期にわたる飲食店への営業自粛要請など自粛生活への国民のストレスが高まる中、PCR検査の拡大は進まず、認可の遅れなどによりワクチン接種の効果も簡単には現れてこない。一方では、トレードオフの関係にあるオリンピックの開催やGoTo事業、その他経済対策などとのジレンマに陥り、(それぞれの立場から)苛立つ国民と、その苛立ちを煽りに煽るメディアの攻勢が続きました。

 こうした中、行き場を失った国民の怒りが政府に向かい、混乱の原因は「首相が毅然とした判断を示さないから」「コロナのリスクに対し(オリンピックの中止や都市のロックダウンなどの)首相がリーダーシップを発揮していないから」と、受け止められてしまった観もあります。

 さて、私氏自身は、現在の日本に必要とされているリーダーシップが、国民の危機感を声高に煽り、国民の先頭に立って(リスクの多い)大胆な政策を次々に打ち出すことだとは思っていません。しかし、不安の中に置かれた人の中には、わかりやすい言葉でぐいぐいと引っ張っていってくれるような、強いリーダーが求められるようになるのかもしれません。

 何かと言えば「ゼロリスク」が求められる現在の日本。そうした環境で、リスクを承知で困難に立ち向かっていくのは、正直、容易なことではありません。一国の首相といった責任ある立場であればなおさらのこと。それでも、リスクをとってチャンスに変えてもらうには、国民の側にもそれなりの「覚悟」が必要になることでしょう。

 5月29日の現代ビジネス(Online)では、ゼロリスクの呪縛にリーダーたちががんじがらめにされている現在の日本の状況について、信州大学特任教授の山口真由氏が『「ゼロリスク」と言いながら、実は「ハイリスク社会」な日本の不思議』と題する興味深い論考を掲載しています。

 この国のリーダーにとって、状況を変えるという決断は極めてリスクが高い。しかし、それは逆に言うと「状況を変えない」という決断は(リーダーにとって)極端にリスクが低いということを意味している。私たちは今、こうした「不思議の国」に暮らしていると山口氏はこの論考に記しています。

 そうした環境に置かれたリーダーは、ゼロリスクであることを確認できるまで方向転換はできない。そこにわずかでも失敗の原因があり、方向転換した後にそれが顕在化した場合、決断をした人は全ての責任を負うが、状況を変えないことによる失敗は誰にも咎められないと氏は言います。

 例えて言うなら、大勢の乗客を乗せたバスがずるずると崖を滑り落ちていく場面で、目をつぶって流れに任せ、全員を道連れに転落していく分には運転手に責任は生じない。しかし、そこで急にブレーキをかけ、もし乗客の1人でも転んで怪我をしたら全ての責任を背負うことになるのが私たちが暮らす社会の仕組みだということです。

 コロナ禍に入ってからの1年間、ワイドショーは、毎日、政権を批判してきた。「オリンピックは中止の決断をすべきだ」、「早く緊急事態宣言を出すべきだ」、「とにかく対応が後手後手だ」と。しかし、その一方で私たちは分かっている。「状況を変える決断ができない」というのは政治家とか知事とか一部のリーダーにだけが負うべき批判ではなくて、社会全体が共有する構造的な問題だということを。

 もしも、彼らが何かを決断するとして、 それで失敗したらどうなるか? 「対応が後手後手」と決断しないことを批判してきたコメンテーターたちは、掌を返したように、肉の塊を放られたピラニアさながらの獰猛さを以て決断者に襲い掛かるだろうと山口氏は説明しています。

 さて、こうして状況を変える決断をする人が出るたびに、後出しじゃんけんで、その後の全ての結果責任をおっかぶせ続けてきた結果、誰もがそんなリスクを冒さないようになったと山口氏は言います。緊急事態宣言を出すのが遅くなるのは、状況を変えるのはハイリスクだから。しかしそれも、一旦出したてしまったら延長も再延長もほぼノーリスクになる。こうして状況を変えないことが「対応が後手後手」と批判されるわけだが、そんな社会にしたのは私たち自身だというのがこの論考における山口氏の見解です。

 日本は、ワクチンを接種した人の割合が先進国の中でもブービー賞の「ワクチン敗戦国」と言われるが、これも根っこは同じところにあると氏は説明しています。ワクチンを特例承認して、もしまかり間違って1人でも重篤な副反応で死に至ったりすれば、間違いなく厚生労働大臣が責任を負う。一方、ワクチンの承認が遅れたことで(例え)コロナに感染死する人が増えたとしても、政治家や官僚は誰も直接責任を負うことはない。こんなルールが判っていたら、誰がワクチンを超速で承認するだろうかということです。

 リスクをとる者がバカを見る社会。悪者探しをしたいメディアは「後出しじゃんけん」で少しのミスでも論い、それを国民が真に受ける。つまり、日本は「ベネフィット」と「リスク」を客観的に比べてみるという判断ができない国だというのが氏の(厳しく)指摘するところです。

 ワクチンにしろ、東京五輪にしろ、一律10万円の給付にしろ、マイナンバーの活用にしろ、政府の行うどのようなトライアルにも多少のリスクはつきものです。メリットによる加点ではなくて、(「ゼロリスク信奉」によって)わずかなデメリットが致命的な失点となる減点法の社会。こうした状況を私たち自身が見直さない限り、(おそらくは誰が選挙に勝っても)総理大臣が果敢なリーダーシップを発揮することは難しいだろうと考える氏の指摘を、私も興味深く読んだところです。


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