goo blog サービス終了のお知らせ 

MEMORANDUM 今日の視点(伊皿子坂社会経済研究所)

 伊皿子坂社会経済研究所のスクラップファイルサイトにようこそ。

#2120 日本人の身長が低くなっているという話

2022年03月28日 | うんちく・小ネタ

 昨今、多様性の再認識や人権意識の高まりとともに、「ルッキズム」(外見至上主義)への批判の声が強まり、企業広告などにおいても過度に外見に言及する表現は抑えられるようになっています。東京オリンピックの開会式の企画・演出責任者をしていた佐々木宏氏が、タレントの渡辺直美さんの容姿をブタに見立てる提案をしていたことが批判され辞任に至ったのも記憶に新しいところです。

 一方、こうした外見にとらわれず「自分らしさ」を尊重(そして表現)しようという気運は、逆に、個人個人の外見に対する意識を高める方向に作用しているように感じるのは私だけではないでしょう。「二重手術」「シミ取り」「ボトックス」などの美容医療は既に普通のことで、電車の中には「エステ」や「脱毛医療」の広告が並んでいます。近頃では「メンズメイク」「メンズ脱毛」も普及しているとされ、女性だけでなく男性も今まで以上に外見を気にする傾向が強まっているようです。

 『東京イセアクリニック』が高校生の男女200名を対象に行った意識調査では、現役高校生の半数以上が「整形に興味がある(54.5%)」と回答し、女子高生の約7割(69.0%)、男子高生の4割(40.0%)が興味を示したということです。また、「整形に興味がある理由」として、最も多かったのが「悩みやコンプレックスを解消できるから」の45.0%)で、次に「自己肯定感を高めたいから」が37.6%)で続いたとされています。

 我々の若い時分は、モテる男と言えば「高身長」「高学歴」、そして「高収入」の「三高」と相場が決まっていました。しかし最近では、「女の子にもてるため」ではなく、自分に自信を持つために、流行りの「自己肯定感」を上げるために見た目に磨きをかけるということなのでしょうか。

 さて、まさに還暦を迎えようという我々の世代にとって、(「見た目」という意味では)身長は極めて重要な要素の一つでした。デブやハゲはダイエットやかつらで何とかなるとしても、シークレットシューズで誤魔化せる身長差はたかが知れています。そういえば、昭和の時代の若者向けの雑誌には、飲むだけで身長が伸びるサプリや、ぶら下るだけで背が伸びる健康器具などの広告様々に並んでいたのを思い出します。

 しかし、そうしたアイテムなどを使わなくても、栄養状態がよくなった近年の日本では、若者たちの平均身長はどんどん伸びているのではないか。そう考えていたところ、2月17日のYahoo newsにマーケティングディレクターの荒川和久氏が「若者の給料と同様に、30年間伸びていない若者男子の低身長問題」と題する一文を寄せているのが目に留まりました。

 荒川氏によれば、日本人男性の平均身長は、明治時代から100年間で約15cmも伸びてきたが、近年その伸びが止まってしまい、さらには逆に(若干ではあるが)低身長化の傾向に転じつつあるということです。記録のある1900年(明治33年)以降、16歳の男性の身長は終戦直後に食料不足で一時的に低くなった時期を除いて順調に伸びてきた。しかし、その伸びも、平成に入りちょうど170cmに達するあたりで止まってしまい、以降30年間、ほぼ伸びていないと氏はしています。

 最近、ツイッターで「身長170xmに満たない男には人権がない」といった発言が炎上し話題になりましたが、2019年時点において、20歳以上の男性の平均身長は、167.7cm(2019年厚労省「国民健康・栄養調査」)。これでは、日本男児の半数以上に「人権がない」ということになってしまいます。因みに、氏によれば、対象を若い人たちだけにしても結果はあまり変わらないようです。同調査によれば、20歳男性の平均は170.2cm、21歳の平均にいたっては168.7cmしかなく、身長にしろ、年収にしろ、女性たちが思っているほど高くはないということです。

 思えば、しょぼくれた中年のおじさんたちよりも、若者たちの方が身長が低いというのはこれまでの常識に反します。こうした若者男子の低身長化の原因とはいったいなんなのでしょうか? 栄養の偏りなのか、運動不足なのか、はたまた、スマホなどの影響による睡眠不足なのか。要因はいろいろ考えられるが、(荒川氏によれば)国立成育医療研究センターの専門家たちは、子どもたちの低身長化の理由を「低出生体重児」の増加にあると考えているようです。

 「低出生体重児」とは、出生時2500g以下で生まれた新生児のこと。1980年代と比べ、2005年以降の低出生体重児比率は倍近い8~9%台に増えていて、直近までほぼ不動で推移している。低体重児比率が高まれば高まるほど、出生時の平均体重は低くなるという負の相関があることが分かっており、現在の身長差マイナス1.2cmは、この出生時の体重の差によるものではないかということです。

 また、前述の国立成育医療研究センターによれば、身長が低いほうが高血圧、冠動脈疾患、脳血管障害を起こすリスクが上がり平均寿命も短くなりやすいということなので、これからの日本人の健康や寿命の長さに対しても、十分な注意が必要かもしれません。厚生労働省によれば、周産期医療の高度化により、40年前に比べ「低出生体重児」は倍近くに、「超低出生体重児」は3倍に増えているとのこと。その分、生まれつきの障害や虚弱に苦しむ人も増加傾向にあるようです。

 高身長が自己肯定感を育むかどうかはわかりませんが、見た目や身長云々などと言うまえに、私たちはまず「健康であることの有難さ」を改めて噛みしめる必要があるのかもしれないと、このコラムを読んで感じたところです。


#1888 「上善如水」老子の語るリーダーシップ

2021年06月27日 | うんちく・小ネタ


 古代中国において紀元前221年に(漫画「キングダム」で有名となった)秦が中国を統一するまで500年近く続いた乱世が「春秋戦国時代」です。

 「諸子百家」と呼ばれる多くの思想家が排出され分立した各国に重用される中、紀元前6世紀に現れた異色の存在が老子です。
 彼は中元に広くその名が知られるようになっても仕官や高名を望まず、宇宙大自然の摂理に謙虚に従い、悠然・淡々として生き抜きました。人間としての処世の道(真理)を説いて諸国を歴訪し、儒教の祖とされる孔子までが教えを乞いに老子のもとを訪れたとされています。

 老子の残した有名な言葉に、「上善如水(上善は水の若(ごと)し )」というものがあります。今では日本酒の銘柄の方が知られているかもしれませんが、その後に「水は善(よ)く万物を利して争わず、衆人の悪(にく)む所に処(お)る、故に道に幾(ちか)し。」と続きます。

 その意味するところは、「最上の善なるあり方は水のようなものだ。水は、あらゆる物に恵みを与えながら、争うことがなく、誰もがみな厭(いや)だと思う低いところに落ち着く。だから道に近いのだ。」というものだそうです。

 水は川となって様々な利益を人々に与えながらしなやかに流れ下り、最終的には、人の嫌がるような低い場所に謙虚に落ちていくということでしょうか。俺が俺がと常に目立とうとするトランプ前大統領のような指導者がもてはやされる昨今では、老子の指摘に耳の痛い人も多いかもしれません。

 3000前年近い気の遠くなうような歳月を経ても、未だに古びるところのないこうした老子の教えに関し、5月11日の東洋経済ONLINEでは、東洋思想研究科の田口佳史(たぐち・よしふみ)氏が、「できるリーダーは存在感が薄い納得の理由」と題する論考を寄稿しています。

 田口氏はこの論考において、老子のリーダーシップへの考え方として「太上は、下のこれ有るを知るのみ」という言葉を紹介しています。 「太上」とはすなわち「最高のリーダー」のこと。最高のリーダーは、その下の人たちにとって、「知るのみ」と老子は表現しているのだということです。

 下の人たちにしてみれば「そういう人がいる」ということくらいは知っているけれど、それ以上のことは何も知らない。その人の存在をさほど感知してない。それが最高のリーダーだと老子は言っていると氏はしています。

 そして、老子は「猶として、それ言を尊ぶ。 功成り事遂げて、百姓みな、われ自ら然りと思えり。」と続けているそうです。
 リーダーたるもの余計なことをごちゃごちゃ言うのではなく、言葉少なくあれ。すると、人々は何かの仕事を成し遂げたとき「自分でやり遂げた」と感じることができる…そんなリーダー像を老子は説いているということです。

 最高のリーダーとは、実は「そんな人もいるよね…」と思われているくらいの存在に見える。自分の体験や実績をアピールするようなリーダーは、しょせん一流ではないということでしょう。

 さらに何より老子の卓見を感じさせるのは、最後の部分「功成り事遂げて、百姓みな、われ自ら然りと思えり」 にあると氏は言います。
 そうした一流のリーダーのもとで仕事をする人たちは、何かを成し遂げたとき「自分の力でやり遂げた」と感じることができる。そのような意識や体験が自信となり、部下たちの実力が身についていくというこということでしょう。

 最近は若い人を中心に、「会社に求めること」として「やりがい」や「成長」を挙げる人が増えている。その会社で仕事をすることで、働くことの喜びを感じられたり、自らが成長していると実感できること。そうした「やりがい」や「成長実感」にとって欠かすことができないのはやはり達成感だというのが氏の認識です。

 部下たちが活躍できる環境をさりげなく整え、なおかつ自らの存在感を薄めて、現場の人たちが達成感を得られるようなマネジメントをする。こうした優れたリーダーは、今の時世では極めて稀有な存在ではないかということです。

 さて、どこの組織や職場にも(男女を問わず)存在するだけで周囲を華やかにする人はいるものです。いつも議論の中心にいて、部下の仕事を「仕切って」いる。弁舌もさわやかだし、なにせ見た目も悪くない。
 そういう人は、あえて「俺が」「私が」などと言わなくても、周囲の人には「ああ〇〇部の何とか君ね…」などと自然と名前が売れていくのが普通です。そうした人が、「花形」と呼ばれるようなポストに就けば、まあそうだろうなとみんな安心することでしょう。

 一方、自分はそんなパッとしない人間なのに、年齢を重ねているうちに気が付いたらリーダーの役回りが回ってきたという人も、(このニッポンの社会では)もしかしたらかなりいるのではないかと思います。リーダーシップと言われても、「自信ないなぁ」という感じだし、女房にも「あなた、大丈夫なの?」なんて心配される始末です。

 でも、心配する必要はありません。老子曰く、「上善は水の若し」「太上は、下のこれ有るを知るのみ」。この言葉を思い出せば、「まあ何とかなるか」とも思えることでしょう。
 先頭に立って引っ張らなくても組織の動かし方は他にもありそうですし、結果さえ何とかなればいいのだから。

 実際、会議やプレゼンなどではほとんど目立たないのに、「あいつに任せておくと何となくうまくいく」「トラブルが起こらない」という人は結構いるものです。
 それを、「あいつは運がいいだけ」と言う人もいるかもしれませんが、(例えそうだとしても)それはそれで大きな才能です。

 もしかしたら貴方も、そういう能力があると評価されそのポストに抜擢されたのかもしれません。老子様も言うように、何事にも謙虚に自然体で臨むことは、簡単そうに見えて実はなかなかできないことなのですから。


♯1712 「寝る子は育つ」というけれど

2020年08月29日 | うんちく・小ネタ


 欧米諸国では、新型コロナ感染拡大による生活行動の変容により人々の睡眠時間増えていると、6月14日のCNNニュースが報じています。

 アメリカの学術誌「カレントバイオロジー」は、新型コロナウイルスの世界的な大流行が始まって以降、欧米諸国の国民の睡眠時間が長くなったとする研究論文を掲載。感染の開始前や進行中における睡眠時間などのデータを対比し、平均して平日で30分、週末には約24分、以前より長く眠るようになっていることがわかったということです。

 一方、株式会社ビデオリサーチが東京50km圏内に住む12歳から69歳の男女を対象に5月に実施した調査でも、調査対象の54.6%が新型コロナウイルスの影響で「睡眠時間が増えた」と回答しています。

 感染拡大防止のための自粛生活でテレワークや在宅勤務が一般化したことにより、多くの人が早朝の出勤や夜間の外出を控え、その結果として、睡眠時間を確保できる生活を送っていたということでしょう。

 経済協力開発機構(OECD)が行った平均睡眠時間の調査(Gender Data Portal 2019)によると、国民の1日の平均睡眠時間はアメリカ528分、イギリス508分、フランス513分、スペイン516分、中国542分と、1日の平均睡眠時間が500分を超える国が多い一方で、日本は442分と、主要先進国の中では最も短いことが判ります。

 その原因は、(海外と比較して)長い時間外労働も含めた労働時間や、都市部を中心とした通勤時間の長さ、さらに昨今の24時間営業店の増加などによる生活環境の変化などが挙げられることが多いようです。

 そうした中、今回のコロナ対策による行動変容がもしも日本人の(足りない)睡眠時間を補う方向に作用したのであれば、(それはそれで)思いがけない拾い物と言えるかもしれません。

 さて、それでは人は一体、1日何時間眠れば最も健康でいられるのか。自分の経験から言っても、長く眠れば眠るほど良いというものでもないような気がします。

 大塚製薬のホームページが併設する睡眠に関するサイト「睡眠リズムラボ」に、睡眠に関する様々なトリビアが記載されていましたので、そこから拾ってみたいと思います。

 早速、結論になってしまいますが、人の睡眠時間に「絶対的な基準」というものはないというのがこのサイトの回答です。

 睡眠は体質や性、年齢など個人的な要因に影響されるため、睡眠時間は人それぞれで日中の眠気で困らなければそれで十分。したがって、その目安は「日中しっかり覚醒して過ごせるかどうか」というものだということです。

 そうは言って、具体的に何時間くらいが適当かはやはり気になるところです。

 医学的には、睡眠不足の蓄積ががんや糖尿病、高血圧などの生活習慣病に加え、うつ病などの精神疾患、認知症などの様々な疾病の発症リスクを高めるとされています。

 同サイトによれば、米国で110万人超の男女を対象に約6年間かけて行った追跡調査の結果では、睡眠時間が7時間の人が最も死亡率が低く長寿で、睡眠時間が8時間を超えると死亡リスクがU字カーブを描いて再び上昇することが判ったということです。

 また、年齢ごとに実際の睡眠時間を調べたデータによると、夜間の睡眠時間は10歳までは8~9時間、15歳で約8時間、25歳で約7時間、45歳で約6.5時間、65歳で約6時間と、加齢とともに必要な睡眠時間が少なくなるという結果も示されています。

 こうしたことから分かるのは、成人の場合(個人差はあるものの)6~7時間前後の睡眠時間がひとつの目安となるということ。

 一方、しばしば高齢者が「昔ほど長時間、気持ちよく眠れなくなった」として、主治医に睡眠薬の処方を要請したりしていますが、実は加齢に伴い「必要とする睡眠時間」自体が少なくなっているというのが事実のようです。

 また、高齢者では若い頃にくらべて早寝早起きになるとも言います。これは体内時計の加齢変化によるもので、睡眠だけではなく、血圧・体温・ホルモン分泌など睡眠を支える多くの生体機能リズムが前倒しになるのだということです。

 さらに、加齢とともに睡眠も浅くなる傾向があるとこのサイトには記されています。 高齢者の睡眠脳波を調べてみると、深いノンレム睡眠が減って浅いノンレム睡眠が増えるようになるということです。

 「若いころに比べてぐっすり眠れない」という(よくある)訴えの裏には、(それ自体が病気ではなく)加齢に伴い体に必要な睡眠の在り方が変化してきているという現実があるようです。

 さて、6月29日の主要新聞各紙は、近年、若者の睡眠時間が増加傾向に転じ、平均で約8時間に達していることがわかったと報じています。

 「寝る子は育つ」と言いますが、いくらぐっすり眠れるからと言って毎日だらだらと寝ているのは決して健康に良くないということを、彼らにはこの際十分に知っておいてもらう必要もあるかもしれません。


♯1604 家庭学習と子供の将来

2020年04月29日 | うんちく・小ネタ


 新型コロナウイルスの感染拡大により学校の休校が長期化していることから、子どもたちの学習の遅れが懸念されています。

 現在のところ多くの学校でゴールデンウィーク明けの5月6にまでとされている臨時休校措置ですが、いまだ感染の終息は見通せないことから、国や自治体は影響を最小限に抑えるための手立てを迫られている状況です。

 そこで、にわかに注目されているのがパソコンやタブレットを使うオンライン学習です。政府はインターネット環境を整えていない家庭向けに通信機器を貸し出す費用を緊急経済対策に盛り込みましたが、肝心の学校自体にインターネットを活用した学習環境が整備されていないケースも多く見られます。

 実際、ネット環境ばかりでなく、パソコンやカメラといった必要な機器も教員のスキルも十分でなく、感染拡大の混乱の中ですぐに導入できる学校は限られているのが現状でしょう。

 このまま感染拡大が収束しなければ、教員の対面による指導を受けられる機会が(例えば夏休みまでとか)しばらく失われるのは必至と考えられます。

 こうした中、ネット環境の有無や教育に対する親の熱意、日中に親がいるかいないかなどの家庭環境によって、学力格差が広がるのではないかと心配する声も聴かれるところです。

 一方、今回のように子供隊の学習環境が一時的に失われてもあまり心配することはない。長期的に見れば、人の発達や能力に対する家庭や学習行動の影響は期待されるほど大きくなく、重要なのは(最終的には)持って生まれた「遺伝的な要素」だとする科学的知見もあるようです。

 作家の橘玲(たちばな・あきら)氏は4月23日の自身のブログ(「橘玲の日々刻々」)に掲載した「個人差あるところ、遺伝あり」と題する論考において、「子供が勉強しないこと」への親や教師たちの不安をどこかへ吹き飛ばしてしまうような(ある意味ラジカルな)学説を紹介しています。

 この論考で橘氏は、現在の標準的な発達心理学のモデルは、「年齢とともに環境要因が大きくなる」という発達観を基礎にしていると説明しています。

 それは、生まれたばかりのときは遺伝の影響が大きくても、その後は家庭(子育て)や学校(教育や友だち関係)などの環境要因が大きくなるというもの。学ぶことによって、人は遺伝の影響を超えていくことができるというものです。

 しかし、行動遺伝学の研究が進み、いまやこの「常識」は覆りつつある。少なくとも知能の発達においては、発達全体を通じて遺伝の影響が上昇する傾向にあることが明確に支持されていると氏はこの論考に記しています。

 1万組を超す双生児研究の結果、知能の遺伝率は児童期で41%、青年期では55%、成人期初期になると66%まで上昇することが示された。さらに、成人期後期には知能の遺伝率は80%にも上り、50歳を過ぎた人間の知能は、概ね遺伝に支配されていることが明らかにされているということです。

 より詳細に調べると、知能の遺伝率は青年期のはじめまで急激に上がり、その後は安定すると氏は説明しています。

 その一方で、子育てなどの家庭生活における「共有環境」の影響は子ども期にはある程度あるがその後は漸次減少し、家庭以外の社会生活における「非共有環境」は生涯を通じて安定して少ないということです。

 共有環境を「子育て」だとすると、(そう考えれば)世の親がなぜ「お受験」や「幼児教育」に夢中になるのかがわかると氏は言います。

 子どもが幼いときは遺伝率が低く共有環境の影響が相対的に大きい。すなわち、子どもが小さければ子育ての成果が見えやすく、親の努力によって、子どもを名門幼稚園や一流私立小学校に入れることは(ある程度は)可能だからだということです。

 一方、子どもが思春期になるにつれて遺伝の影響が大きくなっていくため、親がどれほど子どもの学校の環境に影響を与えようとしてもどんどん効果が上がらなくなっていくのはよくあることだと氏は言います。多くの場合、ほとんどの努力は無駄に終わることを、実感として理解できる親も多いのではないかというのが氏の見解です。

 そうした中、実は、多くの研究の成果が、人間は生まれてから青年期が終わるまでの期間、学習すればするほど環境によって遺伝的素質が薄められるのではなく、むしろ環境を介して自らの遺伝的素質を形にしていくとの仮説を補強していると橘氏は指摘しています。

 つまり、学校教育は「知能の格差」を縮小させるのではなく、(学校教育の中で)それぞれの子どもが自らの遺伝的適性を発見することで、むしろ「知能の格差」を拡大させているということです。

 さらに、そこで興味深いのは、青年期から成人期にかけての非行や不登校のような問題行動には、(知能と同様)遺伝率の発達的上昇傾向が見られるものの、パーソナリティ(性格)への遺伝の影響は児童期から青年期にかけて減少し、非共有環境がやや上昇気味になることだと氏はしています。

 実際、教育格差の大きなアメリカでは、マイノリティや貧困層の子どもの学習を支援するよりも、堅実性(自己コントロール力)のような将来の社会的・経済的成功につながるパーソナリティを訓練する方向に変わってきている。

 これも遺伝と発達の関係から説明でき、児童期を過ぎれば知能の遺伝率は急速に高まるが、性格は環境による外部からの関与がまだ可能だからだというのが橘氏の認識です。

 しかし、いずれにしても、知能も性格(パーソナリティ)も青年期を過ぎると安定する。これは要するに、「大人になると人は(ほとんど)変わらない」ということで、パーソナリティ障害やひきこもり、不安やうつなどが「生まれてから成人までの間に徐々に発現し、その後おおむね安定する」のはそのためだということです。

 このように、近年の行動遺伝学のさまざまな実験から、人間の「成長=発達」の一般的なパターンが明らかになってきた。それは、知能やパーソナリティなどの安定には遺伝が関与し、変化にはそのときどきの非共有環境が(若干)関与することだとこの論考です橘氏は説明しています。

 そして、そこで再確認されたのは、「共有環境」(つまり子育て)の影響はきわめて小さいということ。こうしてみると、従来の心理学がなぜ行動遺伝学を忌避するのかがわかると橘氏は言います。

 ひとたびその知見を受け入れたなら、発達心理学や教育心理学の教科書は最初のページから書き直さなくてはならない。(もしかしたら)多くの教育者や心理学者は失職してしまうのではないだろうかとこの論考を結ぶ橘氏の指摘を、私も興味深く受け止めたところです。

♯1580 コロナウイルスと生存戦略

2020年03月31日 | うんちく・小ネタ


 気が付けば、朝夕の通勤電車でマスクをしていない人を見かけることは稀になり、車両の中に少しでも咳をする人がいれば周囲の人が(眉をひそめて)次々と離れていく状況も珍しくなりました。

 お母さんたちはマスクやトイレットペーパー、消毒薬などを買いだめするために近所のドラッグストア回りに余念がなく、学校が休校になって(仕方なく)午前中から公園で遊ぶ子供の声がうるさいと、お年寄りたちのイライラも募るばかりのようです。

 テレビのリモコンを手繰っても、昼間のワイドショーは新型コロナウイルスの話ばかりで、今日は何人感染したとかどこそこの国では何人亡くなったとか、オリンピックが延期になったとか経済がダメになりそうだとか、そんな暗い話ばかりが聞こえてきます。

 視聴者の不安の煽るメディアの姿勢にも問題はあるのかもしれませんが、何より世間の話題がコロナ一色に染まってしまったとで、この問題から目をそらす、意識を外すことができない人が増えてしまっているような気がします。

 冷静に考えれば、(少なくともこの日本では)例年この時期に流行しているインフルエンザや食中毒などで亡くなる人の方がよほど多いことがわかります。

 しかし、新型コロナは何しろ「新参者」で目に見えない間に次々感染が広がったり、お年寄では重症化の可能性が高かったりという特徴があることから、あたかも「死のウイルス」のように忌み嫌われるようになっています。

 しかし、そんな中でも鷹揚に構えている人が(少なくとも一定数)いるのは事実のようです。

 先日の週末には、近所の公園では大勢集まってお花見をしている若い人たちのグループをいくつも見かけました。3月22日にさいたまスーパーアリーナで開かれた格闘技K1の試合には、6500人もの観客が集まり熱い応援を繰り広げたと報じられています。

 なにも「こんな時期に出かけなくても…」と思っても、(お年寄りから若者まで)海外に向け観光旅行に出国する日本人は現在でもたくさんいるようで、彼らの感染が帰国後に発見される例が後を絶たないのも事実です。

 先の見えない状況に直面してパニックになる人、「たかが風邪だろう」と大して気にならない人と様々な反応が見られる日本ですが、3月30日の「週刊プレイボーイ」誌のコラム「真実(ほんとう)のニッポン」に、作家の橘玲(たちばな・あきら)氏が「神経症傾向が高いと買い占めに走る」と題する興味深い一文を寄せています。

 新型肺炎騒ぎのなか電車に乗ると、マスク姿の乗客に交じってマスクをせずに吊革につかまりスマホをいじっているような人をしばしば見かける。こういうときにパーソナリティの多様性を改めて実感すると、氏はこのコラムに記しています。

 近年の心理学では「性格」は大きく5つの独立した要素に分かれ、それぞれが「正規分布」すると考えられているというのが氏の指摘するところです。

 代表的なパーソナリティのひとつである「神経症傾向」(いわゆる「不安感」)についても例外でなく、世の中には極端に不安を感じやすい人と同じくらい極端に不安を感じない人がいると氏は言います。

 こういうタイプは(極端に不安な人ほど)目立たないので普段はあまり気づかれないけれど、最近の感染症騒ぎのような非日常の状態では(こうして)可視化されるということです。

 ここで気になるのは、なぜ「不安感」には人によって(かなりの)ばらつきがあるのかということ。橘氏はその理由を「進化論的には、2つの異なるサバイバル戦略があるから」だと説明しています。

 こうした(相反する)ふたつの生存戦略が並立するのは、環境によってどちらが有利かが異なるからだというのが氏の認識です。

 捕食動物が少なく食料の多い地域なら、「不安感の低いひと」は圧倒的に有利であるのは言うまでもありません。多少の不安があってもどんどん冒険をして、新しい食べ物を見つけたり、新天地に勢力を広げたりすることができるでしょう。

 一方、トラやライオンがうようよしている地域で生き残るのは、「不安感の強いひと」だというのものよく分かります。すぐに危険を察知できるようアンテナを高くして、先手先手で安全を確保することで生き延びていく(守りの)戦略だということです。

 そして、長い進化の過程で、人類はいずれの環境にも適応できるよう神経症傾向のパーソナリティが正規分布するようになったというのが橘氏の見解です。

 現在ではヒトを襲う捕食動物は(少なくともそこらには)いないし、先進国では戦争や内乱もなく、殺人件数も減って世の中はとにかく安全になった。ところがヒトの遺伝子はそう簡単には変わらないので、いまでもサバンナの猛獣におびえていた頃と同じように強い不安を感じる人が一定数生まれているということです。

 こうしたことから、神経症傾向が高い人は現代社会ではとても生きづらい状態に置かれていると橘氏はこのコラムに綴っています。

 「不安感の強いひと」は、些細なことでも「このままでは死んでしまう」という生存の脅威に突き動かされ、不安を鎮めるためにどんなことでもしようとする。症状も出ていないのに「検査してくれ」と保健所に怒鳴り込んだり、感染症予防とはなんの関係もないトイレットペーパーやティッシュペーパーを買おうと長い行列をつくったりするのは、概してこのタイプの人たちだということです。

 さて、それでは、こうした「不安がちな」人たちは、この安全な現代社会の中このままただ淘汰されていく(無用な)存在なのかという疑問もわいてきます。

 もしも、万が一この先、新型コロナウイルスが社会に蔓延し人類の人口の半分ほどが失われるような状況になったとすればどうでしょう。そこで生き残ることができるのは、いつもマスクをし、手洗いをしてきた「不安感の強い人たち」ばかりとなっているかもしれません。

 そうなれば、(人類全体でみれば)人間という種は現在よりもずっと不安がちな、心配性でパニックを起こしやすい性質に変化しているかもしれないけれど、生き物として生存戦略とは概してそういうものかもしれないと、私も橘氏のコラムから感じたところです。

♯1550 高輪ゲートウェイ駅と品川開発プロジェクト

2020年02月17日 | うんちく・小ネタ


 山手線の新駅としては(西日暮里駅に次いで)実に46年ぶり、京浜東北線では(さいたま新都心駅以来の)19年ぶりとなるJR東日本の新駅「高輪ゲートウェイ駅」が3月14日に開業します。

 新駅には、構内ロボットの導入や駅ナカに無人店舗を設けるなど未来の駅を予想させるような試験的な仕組みが導入されると伝えられており、建築物としての斬新なデザインとも相まってメディアも注目しているようです。

 もともと「品川新駅」などと呼ばれていたこの駅は、そのネーミングをどうするかという経過を巡って一躍全国に知られるようになりました。

 駅名の「ゲートウェイ」は、かつて江戸の玄関口「高輪大木戸」があったなどに因んだものとされています。しかし、2018年6月にJR東日本が駅名を公募した際には、1位は高輪、2位が芝浦、3位が芝浜とゲートウェイの「ゲ」の字もなく、駅名を撤回するよう求める署名活動が行われたのも記憶に新しいところです。

 こうして知名度ばかりが先行した高輪ゲートウェイ駅ですが、実際の沿線の状況や位置関係をよく知る人は案外少ないかもしれません。

 高輪ゲートウェイが設けられるのは品川駅と田町駅の中間よりも少し品川寄りの場所。もともとここには広大な車両基地「東京総合車両センター田町センター」がありましたが、上野東京ラインの開通とともに車両留置箇所を見直すことで、港区の一等地に面積で約13ヘクタール、延床面積100万平方メートルの大きな開発余地が生まれることとなりました。

 駅をデザインしたのは、新国立競技場などで知られる建築家の隈研吾氏で、(現場では既に大きく建ちあがっていますが)折り紙をモチーフとした「和」を感じさせる大屋根が特徴となっています。

 その構造は、ホームから2階コンコース、3階デッキにかけて解放感のある吹き抜けになっており、開業後には山手線と京浜東北線が停車し京浜東北線の快速電車の停車も予定されているということです。

 実際に工事が進む現場に立って眺めると、まずは今後の開発を待つ(ガランとした)周辺用地の広がりに驚かされます。

 駅自体は2020東京オリンピック・パラリンピックに合わせて暫定的に供用されますが、これはまだまだ仮の姿。今後、数年をかけ、三田駅から品川駅にまたがる一大開発エリアとして、東京都やJR、京急、西武などが中心となって高層ビルが立ち並ぶ姿に変貌していく予定とされています。

 都心に残された最後の(手つかずの)空間とされるこの地域で、一体どのくらいの規模の開発が行われるのか。1月29日の日本経済新聞(電子版)に、「JR東日本、高輪ゲートウェイ駅が生む8000億円」と題する経済記事が掲載されていました。

 昨年10月の台風19号の被害に加え新型コロナウイルスによる肺炎の感染拡大でインバウンドの減少が見込まれる中、今期業績の下振れ懸念が高まるJR東日本。しかし、今春開業する新駅「高輪ゲートウェイ駅」に端を発する「品川開発プロジェクト」は、同社にとって2020年代の幕開けを飾る期待の星となる可能性があると記事はしています。

 プロジェクトへの投資額は(JRグループだけで)5000億円に達するとされる新駅の利用人数ですが、開業当初こそ鶯谷駅の1日平均2万6000人と同程度とされているものの、2024年頃に予定される「まちびらき」後は(恵比寿駅と同程度の)13万人ほどにまで膨らむと見込まれているようです。

 2020年夏の東京五輪以降に本格化する周辺工事では、駅周辺を北側から4エリアに分けて高層マンションやオフィスビル、商業施設、文化施設などが建てられる計画だということです。さらに、その後は品川駅にかけて第5、第6のエリアの開発も続き、(詳細は未定ですが)2030年以降には様々な施設が開業する見込みとされています。

 記事の試算では、第1~第4エリアの賃貸用不動産の含み益は8000億円程度となり、これを加えたJR東日本全体の含み益は、首都圏の大手私鉄8社の合計(1兆962億円)のほぼ倍の2兆2000億円程度までに増加する可能性があるということです。

 三菱地所など大手不動産3社以外でこうした含み益が2兆円を超える企業は、国内では現在見当たらないと記事はしています。そうした中、このプロジェクトはJR東日本に(不動産賃貸収入などにより)年間約250億円(第5、第6のエリアも含めれば年間400億円)の増益効果をもたらすということです。

 さらに、現在この周辺地域では、リニア中央新幹線の品川新駅建設に合わせたJR品川駅西口(現・高輪口)を中心とする大規模な再開発プロジェクトも進められており、次世代型交通ターミナルとして(この10年程度で)大きく変貌する周辺地域の姿がかなり具体的に描き出されています。

 江戸時代初期から続く多くの寺社や住宅に囲まれ、港区内でも特筆される静かな街の一つだった高輪がここ数年で大きく変わっていくのは、既に時代の流れとして方向づけられているようです。

 今でこそ、何やら名前負けしている観のある「ゲートウェイ」周辺ですが、5年後、10年後にはこの地域一帯がまさに首都東京の玄関口として、世界の国際都市に負けない賑わいの姿を見せているかもしれません。

♯1521 「魚は案外長生き」という話

2019年12月31日 | うんちく・小ネタ


 20年ほど前に亡くなった私の父親は釣りが趣味で、若い頃から船からの海釣りやサーフの投げ釣り、渓流釣りからウナギ釣りまでこなし(私が知る限り)あらゆる釣りに精通していました。

 そんな父でしたが、60歳を過ぎたころからは何故か(ある意味地味な)鯉釣りにはまり、それこそ毎週末というくらい近くの川や池に出かけては、日がな一日水辺で釣り糸を垂れていました。

 何がそんなに面白かったのかは今となっては定かではありませんが、竿と糸とウキとハリだけの極めてシンプルな仕掛けにサツマイモをキューブに切った餌を付けて、それこそ地元の愛好家の間では「名人」と呼ばれる存在になっていたようです。

 釣った鯉のうち気に入ったものは自宅の庭に(わざわざそのためだけに自分で掘って作った)池に放ち、時折、満足そうに眺めていたのを今でも思い出します。

 さて、私も成人して家を離れていたある日、すでにそれなりに年老いてきた父が近所の川で(これまで出会ったことのないような)「目の下三尺」というほどの大きな鯉を釣り上げたそうです。

 意気揚々とこの鯉を抱きかかえ何とか家まで持ち帰った父は、自慢の池に放したそうです。しかし、それから一週間もたたないうちに大雨でその川の堤防が決壊。家中が床上浸水で水浸しになり、池の魚たちも皆流されていったということです。

 父によれば、あの鯉は多分この川の主(ヌシ)で、川に戻りたいがために大水を呼んだに違いないとのこと。自分が釣り上げた魚のせいで近所の人に迷惑をかけて申し訳なかったと、笑いながら話していた父の姿を今では懐かしく思い出します。

 なぜ、急にそんな昔の話を持ち出したのかというと、先日、ふと見かけた新聞の紙面で「魚は意外に長生きだ」という記事を読んだからです。

 11月21日の埼玉新聞に掲載されていた「魚の不思議」という連載記事において、広島大学教授の海野哲也氏が、様々な魚たちの年齢について興味深い解説を行っています。

 魚の生態を研究テーマとしている氏によれば、魚の年齢というものは、頭の内耳にある耳石という骨の組織に刻まれた(木の)年輪のような筋の状態を調べれば概ね正確にわかるのだそうです。

 そこで、氏が全国の釣り人に提供してもらったクロダイの年齢を調査したところ、だいたい(一般に「大物」とされる)50センチ級のクロダイでは、年齢が17年前後の個体が多かったということです。

 中にはさらに年齢を重ねているツワモノもいて、宇和島で釣り上げられた57センチの個体は、30歳を超えていたと氏は話しています。

 氏の話でさらに驚かされるのは、身近な魚の中にも長生きの種類があるということ。鯉で100年、ナマズは60年、金魚でも実に40年、小さなドジョウですら30年も生きる個体があるということです。

 ただし、長寿を記録した魚の多くは飼育下にあるもので、捕獲されなければもっと長生きしたかもしれないし、逆に早死にしていたかもしれないと氏は指摘しています。飼育歴はあくまで人工的な環境の下でのものなので、自然の状態での魚の本当の寿命を知ることは難しいということです。

 一方、氏はこの記事で、「年魚」と呼ばれるアユやトミヨなどの魚たちの存在についても触れています。例えば、初夏の味覚として知られるアユは、産卵を終えるとほぼすべての個体が1年以内に死んでしまうということです。

 子孫繁栄のためなら何年も生きてたくさんの卵を産んだ方がよさそうなものなのに、なぜこうした魚たちは短命なのか。

 氏によれば、考えられるメリットは、世代交代が早ければ環境の変化に臨機応変に適応した遺伝子を次世代に繋げられること。海と川という異なる環境を行き来するアユは、長い気よりも世代交代による環境適応を選択したのではないかというのが氏の見解です。

 翻って、生活環境の変化が激しくなるばかりの社会に人類が適応していくためには、いつまでも昔のやりかたにこだわっている老兵はできるだけ早く引退し、若い世代に世の中の主導権をバトンタッチしていく必要があるのかもしれません。

 「人生100年時代」と言われて久しい昨今ですが、いつも若々しいアユのように生き残りをかけて変化を受けとめ、自分を変えていくことこそが賢明な選択ということでしょうか。

 100年生きた川のヌシであれば、もう一度現役に帰って頑張りたいという気持ちはわからないではありませんが、それで迷惑するのは周りの者たちばかりといった現実もありそうです。

 「諸行無常」という言葉がありますが、環境に合わせて生きていくためには私たちはいつまでも変わらぬ姿ではいられない。そうした現実を常に肝に銘じておく必要があると、年の瀬に当たって改めて感じたところです


♯1505 じゃんけんでは何を出すべきか

2019年12月07日 | うんちく・小ネタ


 ナンバーズ (NUMBERS) という宝くじがあるそうです。

 私は買ったことがないのですが、何でも「ナンバーズ3」と「ナンバーズ4」の2種類があって、例えば「ナンバーズ4」では0000から9999まで10,000通りある4桁の数字から自由に数字を選んで申し込み、(週5回実施される)抽選会で選ばれた番号との間でいくつかの条件を満たせば、晴れて「当選」となるということです。

 申込み数字が、抽せん数字、並び順ともに一致するのが「ストレート」。当選確率はナンバーズ4で10,000分の1となります。また、申込数字が抽選数字に一致すれば並びの順序は異なってもよい「ボックス」、ストレートとボックスに半分ずつ申し込む「セット」という申し込み方もあるようです。

 ナンバーズは1口200円。全国の発売総額の45%が当せん金に回り、この賞金を当選番号で申し込んだ人たちで口数に応じて平等に分配するというシステムとされています。

 これはどういうことかというと、番号を当てた人の間で分配するのだから、当てた者の人数が多ければ賞金額は少なくなり、当てた者の人数が少なければ賞金額は多くなるということ。つまり、皆が賭けないような番号を選べば選ぶほど、当たった時の賞金額が高くなるということです。

 さて、それではどのような番号を選べば、この「ナンバーズ4宝くじ」の賞金の期待値は最も高くなるのか。

 桜美林大学リベラルアーツ学群教授の芳沢光雄氏は8月7日の「東洋経済オンライン」に掲載された『数学的に考える「じゃんけん」で有利な手は何か』と題する論考において、興味深い回答を導いています。

 芳沢氏によれば、ナンバーズ4の当せん番号の4桁の数字と賞金額を調べた結果、0から9までの4つの数字を順番まで含めて当てる「ストレート」では、例えば2月19日を4桁にして表す「0219」のような日にちに関係する4桁の数字が当せん番号になると、賞金額は一般に低い傾向があるということです。

 反対に9697や8775のように、重複のある数字を含んで5以上の数字だけで構成する4桁の数字が当せん番号になった場合には賞金額は一般に高い傾向がある。

 その理由について分析したところ、宝くじを買う際に自分の誕生日などの記念日を表す4桁の数字を選ぶ人が多く、そのことが0、1、2、3、4に多く偏っていることにもつながっていたとこの論考で氏は説明しています。

 また、一般に重複のある数字はあまり出ないと思う人たちが多いようだが、実はそれは間違いだというのが芳沢氏の見解です。

 実際、4桁の数字が全部異なる確率を求めてみると、1番目の数字aは0~9まで何でもよく、2番目の数字bはa以外の数字ならば何でもよく、3番目の数字cはa、b以外ならば何でもよく、4番目の数字dはa、b、c以外ならば何でもよい。つまり、それら全部の4桁の数字abcdは、10×9×8×7=5040(個)となるということです。

 4桁の数字は全部で10000個あるので、4桁の数字が全部異なる確率は5040/10000で50.4%。一方、重複のある4桁の数字が当せん番号になる確率は残りの49.6%となるので全部異なる場合とほとんど変わらないということになります。

 勿論、0000も7777も当たる確率は同じ1/10000なので、(結論としては)後は皆が選ばない数字を選べば効率がよいということになるわけです。

 講演会場などで、「なんでも構わないので4桁の数字を想像してください。先頭が0でも構いません」と伝えて答えてもらうと、4桁の数字が全部異なる回答のほうが、重複のある4桁の数字の回答と比べてかなり多くあるのが普通だと氏は指摘しています。

 丁半博打ではありませんが、回数が続けば続くほど何回も続けて同じ目が出る確率は少なくなると思うのが人情だということでしょう。

 さて、このように私たちの身の回りには、実際に統計データをとって数学的に考えてみると面白いことに気づくことはたくさんあると、この論考で芳沢氏は説明しています。

 例えば、「じゃんけん」をするときに、何を出せば勝つ確率が高くなるかについて。

 多くの人が「じゃんけん」のグー、チョキ、パーを出す確率はどれも3分の1と考えているが、725人の協力を得てのべ11567回のじゃんけんを行ってもらった氏の実験の結果では、グーが4054回、チョキが3664回、パーが3849回と、有意な差が確認できたということです。

 従って、答えは「パー」を出すこと。最も相手が出しやすい「グー」には勝てるし、2番目の「パー」なら「あいこ」に持ち込めることになります。

 なぜ「グー」を出す人が多いかについては、心理学的には、「人間は警戒心をもつと拳を握る傾向がある」という説明や、「チョキはグーやパーと比べて(手の形として)出しにくい」という説明があると氏は言います。

 それでは、もしも「あいこ」になってしまったらどうするか。

 結論から言ってしまえば、(先ほどの丁半博打のはなしではありませんが)「じゃんけん」が2回続くと人は「違う手」を出したがるというのが、この問題に対する芳沢氏の認識です。

 実験では2回続けたじゃんけんは延べ1万833回あったが、そのうち同じ手を続けて出した回数は(本来なら3分の1の3611回あってもいいはずなのに)2465回に過ぎなかったと氏は説明しています。

 同じ手を続けて出す割合は3分の1よりも低く4分の1近くしかないわけなので、2人でじゃんけんをして「あいこ」になったら、次に自分はその手に負ける手を出すと有利というのが、確率論から導かれる回答だということです。

 このように考えていくと、普段の何気ない選択や行動の中にも、合理的なものと非合理的なものがあるのだなと気づかされます。

 人というのはなかなか興味深いものだと、芳沢氏の論考から私も改めて感じたところです。


♯1363 人間の体にはなぜ毛が生えていないのか

2019年05月20日 | うんちく・小ネタ


 作家の橘玲(たちばな・あきら)氏の近著「もっと言ってはいけない」(新潮社新書)を読んでいたところ、(本論とはあまり関係ない部分なのですが)人間は何故進化の過程で「体毛」を失ったのかについて、初めて聞く仮説が掲載されていました。

 大変興味深い内容だったので、(多少「ネタバレ」にはなりますが)備忘の意味でここに記しておきたいと思います。

 教科書にも書かれているように、チンパンジーとの共通祖先から分かれた人類(ホモ属)は、その後、二足歩行や大きな脳、体毛の消失など、他の霊長類とは明らかに異なる身体的特徴を備える形で進化していきました。

 これは、森林での樹上生活からサバンナに生活圏が変わり、狩猟採集しながら長距離を歩くのに適していたからというのが定説で、特に蒸し暑いサバンナを動き回るには体毛を無くし発汗によって体温調節する方が有利だったからだと多くの研究者が考えているということです。

 しかし、だったらなぜ、サバンナの動物にはみな体毛があるのか。昼は太陽が照り付け夜は厳しい寒さに晒される乾燥したサバンナでは、動物たちにとって暑い毛皮は必須の装備ではないかと橘氏はこの論考で疑問を呈しています。

 太陽熱を遮り、残りの熱を皮膚から離れた場所に閉じ込めて放散させる、熱が皮膚まで伝わらないように遮断するためにも毛皮は大変に役に立つ。だからこそ、砂漠に生きるラクダも立派な毛皮を纏っているというのが氏の指摘するところです。

 それにもかかわらず、人間の祖先はどこかで体毛を失い、大量の水を飲んで大量の汗をかかなければ体温調節ができなくなった。

 それは、一体何故なのか? 氏によれば、この謎に対する一つの答えに、1942年にドイツの人類学者マックス・ヴェシュテンへーファーが唱えた「アクア説」というものがあるそうです。

 アシカやクジラ、カバなどの水生型の哺乳類はみな皮下脂肪を持っている。しかし、陸生の大型哺乳類で皮下脂肪を備えているのは人間だけだということです。

 1960年、当時は学術的に無視されていたヴェシュテンへーファーの学説を読んだ海洋学者のアリスター・ハーディーは、だとしたら人間も過去に水生(もしくはそれに近い)生活をしていたのではないかと考えた。

 さらに、在野の人類学者エレン・モーガンが精力的な執筆活動でこれを支持し、人類は樹上生活の後、水上生活に移行したと主張たことで(半世紀以上の歳月を経て)アクア説は改めて注目されるようになったということです。

 アクア説によれば、人類が二足歩行に移行したのは4つ足で水の中に入っていくよりも(外敵の少ない)深いところに入っていけるから。水の中なら浮力によって(弱い足腰でも)身体や頭が支えられるし、皮下脂肪があれば冷たい水にも耐えられ水に浮きやすく動きもスムーズになる。

 (クジラやカバのように)体毛がないのはその方が動きやすいからで、人間の鼻が高く鼻の穴が下を向いているのも水に潜るときに都合がよいからだと説明されているということです。

 この水辺での暮らしの中でホモ属は脳の容量を飛躍的に大きくすることができ、知能を大幅に発達させた。大きな頭蓋骨を持つ子供の出産は困難になり、哺乳類の中では異様なほどの早産を余儀なくされたが、水中出産がそれを助けたという指摘もあるようです。

 橘氏によれば、現在でも(海外などでも奨励されている)水中出産は子供に与えるストレスが少なく、溺れてしまう赤ちゃんはまずいないということです。出産直後の赤ちゃんは泳ぐこともできて、水中では息をせず呼吸も問題ないとされています。

 私たち人間はごく普通に呼吸をコントロールすることができますが、近縁種であるチンパンジーは意識的に息を止めたり吐いたりすることができず、これが彼らが「しゃべれない」大きなハードルになっている。一方、水生の哺乳類は、(どれも)それぞれ水中で呼吸をコントロールできるよう進化してきたと橘氏はこの論考氏に記しています。

 さて、改めてそう言われれば、確かに陸上では(あちこちに負担がかかる)頭でっかちでバランスの悪い人間の肉体も、水の中なら無理はかかりません。

 首だけ水上に出して声を掛け合えば、(安全な場所から遠くを見渡して)危険も察知できるし協力することもできたでしょう。また、頭だけに毛が残っているのもなんとなくわかる気がしてきます。

 そう言えば、よく行くジムのプールでは、毎日(足腰の弱った)大勢のお年寄りたちが、カラフルな水着を着てプールの中を連れだって歩いています。

 太古の人類もこうして何人かで群れを成し、水辺で楽しく暮らしていたのかもしれないと、橘氏の論考を読んで私も(思わず)思いを馳せたところです。


♯1325 音楽とリベラルアーツ

2019年03月16日 | うんちく・小ネタ


 経団連は、昨年12月4日発表した若手人材育成や大学改革に対する提言(「今後の採用と大学教育に関する提案」)において、大学教育に対し「経済のデジタル化」「グローバル化への対応」と同時に、リベラルアーツ(教養)を高めることを求めています。

 多様な価値観が融合するSociety 5.0時代の人材には、リベラルアーツといわれる、倫理・哲学や文学、歴史などの幅広い教養が求められる。そのためにも大学では、数学、歴史、哲学などの基礎科目を全学生の必修科目とするなど、文系・理系の枠を越えて、すべての学生がこれらをリテラシーとして身につけられる教育を行うべきだということです。

 ここで言う「リベラルアーツ(liberal arts)」とは古代ギリシャに理念的な源流を持つ言葉で、(当時は)人間を呪縛から解放するための知識や生きる力を身につけるための手法を指していたとされています。

 そして、この概念は古代ローマ社会へと受け継がれ、「言語系3学」(文法・論理・修辞)と「数学系4学」(算術・幾何・天文・音楽) の「自由7科目」で構成される、「奴隷ではなく自由人として生きるための学問」として学ばれたことが知られています。

 さらに、中世から近世に至るまで、ヨーロッパの大学制度において、リベラルアーツは「人が持つ必要がある技芸(実践的な知識・学問)の基本」と見なされ、上流階級として生きるために欠くことのできない必須の教養と見なされてきたということです。

 さて、ここで素直な疑問なのですが、リベラルアーツの源流とされる7科目の中に文法や論理、数学や天文などがあるのはなんとなく理解できるのですが、数学系科目にちゃっかり混じっている「音楽」にはどうにも「異質感」が否めません。

 なぜヨーロッパでは2000年近くの間、自由に生きていくために「音楽」が必要と考えられてきたのか? さらに言えば、なぜ音楽が数学や天文学と肩を並べているのか?

 そんな疑問に答えるかのように、経済誌「週刊PRESIDENT」の2018年9月3日号では、永野数学塾塾長の永野裕之氏が「音階を発明したのは誰か?」と題する興味深い論考を寄せています。

 この論考によれば、世界中の小学生が知っている「ドレミファソラシド」の音階は、実は「ピタゴラスの定理」で有名な古代ギリシャのピタゴラスによって発明(発見?)されたものだということです。

 ある日、街を散歩していたピタゴラスの耳に、鍛冶屋がハンマーで金属を叩く「カーン、カーン」という音が入ってきた。ピタゴラスはそこに、美しく響き合う音とそうでない音があることに気づいたと(まるで見てきたことのように)氏は記しています。

 不思議に思っていろいろな種類のハンマーを叩いてみたところ、美しく響き合うハンマーどうしは、それぞれの重さの間に単純な整数の比が成立することを発見した。特に2つのハンマーの重さの比が2:1の場合と、3:2の場合に美しい響きになったということです。

 そこで、彼らは「モノコード」と呼ばれる共鳴箱の上に弦を1本張った楽器を考案し、2台のモノコードを同時に弾いて、弦の長さを変えながら美しく響き合う位置を探した。その結果、やはり弦の長さが2:1になったときに2つの音が完全に溶け合い、3:2や4:3のときにも音が調和することがわかったというのが、永野氏が語る2000年前の古代ギリシャの物語です。

 一般に「ドレミファソラシド」の低いドから高いドまでの音程の幅は「1オクターブ」と呼ばれます。1オクターブ離れた2つの音は同時に響くと高さの違う「同じ音」に感じられ、濁りなく美しく調和する音に聞こえます。

 (「学校で習った」という方も多いかもしれませんが)音楽では、音程(2つの音の高さの差)を「度」で表すのが普通です。同じ高さの音同士は「1度」で、ドとレのように隣り合う音は「2度」になります。そして、特に美しく響き合う「完全音程」は1オクターブのなかに「完全4度」(ドとファ)、「完全5度」(ドとソ)、「完全8度」の3つがあるとされています。

 こうして、美しく響き合うときの2つの弦の長さの比が簡単な整数の比になることを発見したピタゴラスは、数字とはかけ離れたものだと思われていた音楽の美しさがリンクしていたという事実から大きな感銘を受けたと、永野氏は(これまた見てきたように)記しています。

 彼らはそこに何らかの神の意思をくみとり、数字はすべてのものとつながりがあるのではないかと考えた。そしてその後は「万物は数である」というスローガンを掲げて活動するようになったということです。

 ピタゴラスと弟子たちの熱心な啓蒙により、その後、古代ギリシャの人々は、宇宙は数の調和でつくられていると考えるようになったと永野氏はこの論考で説明しています。

 宇宙の調和の根本原理は「ムジカ(ミュージック)」であり、その調和は「ハルモニア(ハーモニー)」である。こうして古代ギリシャ以降、中世に至るまで、音楽は哲学や科学に近く、秩序や調和の象徴としてとらえられていたということです。

 氏によれば、数学(mathematics)の語源はギリシャ語の「マテーマタ=学ぶべきもの」であり、古代ギリシャにおけるマテーマタ(学ぶべきもの=学科)は、こうして「算術(静なる数)」「音楽(動なる数)」「幾何学(静なる図形)」「天文学(動なる図形)」の4分野となったということです。

 音楽は人を自由にする。美しいものには人の心を解き放つ力がある。

 自由に目覚めた古代ギリシャ人にとって、「美しい音」や「美しい形」と「天空」はともに「数」に支配された存在であり、それがいかに「学ぶべきもの」として受け止められていたがよくわかるエピソードと言えるでしょう。


♯1267 飛び出す初夢

2019年01月08日 | うんちく・小ネタ


 本邦では、新年に入って初めて見る夢を「初夢(はつゆめ)」と呼び、その夢の内容で1年の吉凶を占う風習があることは広く知られています。

 もっとも、字義どおりに新年最初(つまり大晦日や元日の夜に)に見る夢ばかりでなく、地方によっては2日から3日の夜に見る夢とされることも多いそうです。

 Wikipediaなどを見ると、江戸時代は大晦日から元日にかけての夜(除夜)は眠らない風習があったことや、正月2日がその年の「事始め」とされていたことなどがその理由として挙げられていますが、その由来はどうもはっきりしない感じです。

 そう言えば子供のころ、明治生まれの祖父が「宝船」(七福神の乗っかったあれですね)の絵を墨でさらさらと描いてくれて、2日の夜にはそれを孫たちの枕の下にそれぞれ入れておいてくれたのをうっすらと覚えています。

 一般に、初夢に見ると縁起が良いものとして「一富士二鷹三茄子」というものがあるようですが、実際に「富士山」や「鷹」はもとより「ナス」の夢を見たことのある人などいるのでしょうか。

 私自身はと言えば、(50年以上も生きてきているのに)「初夢」として印象に残るような夢を未だ見た記憶がありません。

 見たいと思っても見ることはできないし、見たくないのに見てしまう。そして思いがけずにすっかり忘れていたことを鮮明に思い出したり、会いたかった人に会えたりするのも「夢」ならではというところでしょう。

 「夢占い」という言葉があるように、こうした「夢」を超自然的存在からのお告げでとして受け止める考え方は世界中に見られるようです。

 いわゆる「予知夢」と呼ばれるもののように、夢は(あまりに唐突な、思いがけない内容だったりするだけに)これから起き得る危機を知らせるために神様が送ってくれたメッセージだと考えたくなるのも(何となく)わかる気がします。

 20世紀初頭、心理学の祖と言われる精神医学者のジークムント・フロイトは、人が体験する夢を manifest dream(顕在夢)と呼び、無意識的に抑圧された幼児期由来の願望と昼間の体験の残滓が(人間の脳内で)加工され歪曲されて現れたものだと捉え、「夢判断」という精神分析手法を提唱しました。

 夢は人間の隠された「願望」を映しだす(ひとつの)鏡だというフロイトの考え方も、確かに人々の経験にフィットするようで、今でもこの考え方は多くの人々に広く受け入れられています。

 誰でも(時に)、あまりに鮮明でリアリティーにあふれる(そして時に奇妙な)夢を見ることがあるのではないでしょうか。そうした夢は大概フルカラーで、空気感に富み、出てくる人たちも一人一人が誰だかはっきりしていたりします。

 そうしたリアルな夢の世界から汗びっしょりで飛び起きたりすると(そしてその夢の光景を何日たっても忘れられないでいたりすると)、どうしてもその夢の持つ「意味」というものを考えたくなってしまいます。

 さて、(因みに…ですがそう言えば)生まれが1949年以前の人と1963年以降の人とでは、見る夢の色に明確な差があるということがAPA(アメリカ心理学会)の調査結果により明らかになったという記事をWeb上で見かけました。

 『週刊現代』(2017年2月11日号)によると、APAが1993年と2009年の2度にわたって米国の10代から80代までの被験者を対象にこの調査を行ったところ、どちらの結果も「カラーの夢を見る」と答えた人の割合は30歳未満が約80%に対し、60代ではわずか20%程度であったということです。

 そして、その理由を分析したAPAが出した結論は、「世代間における夢の違いは、カラーテレビの普及によるもの」という驚くべき内容だったと記事は記しています。

 人がなぜ夢を見るのかと言えば、睡眠時、脳を構成する神経細胞同士をつなげるシナプスが記憶の取捨選択を行う際に生じた記憶の「断片」が夢を形作っているというのが現在の定説です。

 実は、この記憶の断片には特に(情報量の多い)テレビからの視覚情報が多く含まれており、テレビ視聴によってもたらされた画像の記憶がそのまま日々の夢に反映されるというのがAPAの見解だということです。

 世界初のカラーテレビの本放送は1954年にアメリカ・NBCで開始されており、米国における実験結果の変化のタイミングと合致しているということです。

 一方、日本でカラーテレビが一般家庭に普及したのは東京オリンピックが開催された1964年頃のことですから、子供の頃のテレビと言えば白黒だった「団塊の世代」は白黒の夢を、それ以降の世代はカラーの夢を(も)見る世代と言えるかもしれません。

 記事は、いずれ生まれてくる世代は4Kや5Kのハイビジョンの夢を見るかもしれないし、3Dの飛び出す夢を見るかもしれないと綴っています。

 確かにこれから先、洪水のような情報が様々な形のメディアを通じて世界中からストレートに人々の脳に飛び組んでくる時代を迎えるでしょう。

 VR(バーチャル・リアリティ)に馴染んだ子供たちが大きくなる頃には、皆が(七福神が乗り込んだ木造船が大海原を行くような)スーパーリアルな初夢を見るようになるのかもしれません。



♯1262 父親は元気で留守がいい

2019年01月03日 | うんちく・小ネタ


 この夏、話題となった『日本の分断 切り離される非大卒若者(レッグス)たち』(光文社)において、著者で大阪大学大学院教授の吉川徹(きっかわ・とおる)氏は、「全ての人をなんとなく包含してきた日本の社会も、いよいよ「学歴」によって分断されつつある」と論じています。

 同程度の学歴を持つ男女が結婚し、同様の学歴が親から子へと世代を超えて引き継がれていくならば、「学歴」はもはや立派な階級と言える。成長を基調とした拡大経済の中で培われてきた「中流」で「平等」な日本社会という幻想は、気が付けば「学歴」をひとつの起点に大きな分断を生みつつあると氏はこの著書で説明しています。

 一方、(この残酷な事実を直視したうえで)孤立しつつある「非大学卒男性」の実像を踏まえ現実的なアプローチを模索する著者の問いかけのリアリティも、(もしかしたら)読む人の立場や学歴によって微妙に異なるのかもしれません。

 思えば、子供の教育に親たちがどれだけのリソースを投入するかは、教育(=学歴)というものに彼ら(=親たち)がどれだけの価値を感じているかの裏返しに過ぎません。自らの生育環境の中で学歴の価値を知った者は子供の学歴に投資し、学歴に意味を感じなかった者は投資を無駄なものと感じるということでしょう。

 いずれにしても、子供の学力や学歴が、その生育環境や親の教育に対する考え方に大きな影響を受けているのは(どうやら)紛れもない事実のようです。

 8月29日の経済情報サイト「現代ビジネス」では、「教育格差大国ニッポンの知られざる真実」との特集において、「子どもの学力は「母親の学歴」で決まる」と題する(やや)ショッキングなタイトルのレポート記事を掲載しています。

 毎年4月に全国の小学6年生と中学3年生の全員を対象に実施され(その順位などが)何かと話題となる「全国学力・学習状況調査」(全国学力テスト)ですが、付随して実施される保護者対象の「アンケート調査」こそ、教育専門家の間ではむしろ注目されていると記事は説明しています。

 調査結果については、保護者の年収や学歴、生活環境などをいくつかの類型に分けられ、テストの平均正答率との相関関係が分析されているということです。

 直近の2017年度の調査結果では、学歴や収入が最も高い世帯は最も低い世帯と比べ、例えば基礎的な数学A問題では24・2ポイントもの差が付いており、(予想通り)親の収入と学力の相関が明確に表れたものとなっています。

 その一方で、学歴や年収が高くない世帯でも「日常生活で本や新聞に親しむことや、規則正しい生活を促している家庭では好成績の傾向がある」といったことが明らかになったということです。

 また、興味深いのは「年収1200~1500万円」世帯の生徒の平均正答率は、「年収1500万円以上」世帯に比べて、国語A・B、数学A・Bのすべてで上回っているということ。必ずしも世帯年収が高いほど正答率が高くなるとは限らないというのが記事の指摘するところです。

 さて、ここでさらに興味深いのは、保護者の学歴と児童生徒の学力との関係だということです。保護者の学歴が高いほど児童生徒の学力が高い傾向がみられるが、より詳しく見ると、児童生徒の学力は父親の学歴より母親の学歴との関係性がより強く出ていると記事は言います。

 中3の数学Bでは、父親の最終学歴が「高等学校・高等専修学校」のケースだと正答率は44・1%、「大学」になると56・55%に上り、その差は12・4ポイント。一方、母親の最終学歴が「高等学校・高等専修学校」だと43・4%、「大学」になると60・0%になり差は16・6ポイントと、父親の学歴による差より拡大しているというものです。

 また、(細かい調査結果は省きますが)小6と中3の全科目で、「父親単身赴任」の児童生徒の正答率がそうではないケースを上回り、結果「父親が単身赴任している子供の学力は、そうでない子供より高い」という分析が導き出されたという指摘もあります。

 一方、母親が単身赴任しているケースでは、逆の結果がでており、母親と同居しているケースに比べて児童生徒の正答率は10ポイント程度低くなっている。つまり、母親の最終学歴の学力への影響と考え合わせれば、子供の学力に対する母親の存在の影響は(少なくとも父親よりも)極めて大きいというのがこの調査が導き出した結論だということです。

 因みに、今回の調査では「保護者の帰宅時間と学力との相関」についても調べており、父親については22時以降の帰宅(早朝帰宅を含む)という家庭の子供の学力が最も高いことが明らかになったということです。

 (あえて)踏み込んだ分析は示されていませんが、こうしたデータだけみれば、父親の不在により子供が自宅で勉強に集中できる環境が整うと読ぬこともできる。父親が不在のほうが子供の成績が上がるとすれば、世のお父さんたちの立場はかなり微妙なものと言えるでしょう。

 (いずれにしても)一般的に言われる「金持ちの子供は学力が高い」という言説は、全国学力テストに付随する保護者対象のアンケート調査でも裏付けられているというのが、記事が指摘するところです。

 つまり、高収入と高学歴の親の子供が同じように高収入と高学歴という同じコースをたどり、教育格差が経済格差を固定化させ再生産するという見方には一定の説得力があるということです。

 勿論、ここに示されているのは家庭環境と学力の相関関係に過ぎず、必ずしも因果関係ではないというのが記事の見解です。

 しかしながら、公教育が経済格差の拡大を招きかねない教育格差の是正・平準化をめざすのであれば 、全国の学校現場で奮闘する先生たちには是非この報告書を読み込んでほしいと綴られた記事の指摘を、私も興味深く受け止めたところです。

♯1152 「平均寿命」の考え方

2018年08月29日 | うんちく・小ネタ


 厚生労働省が公表している最新の簡易生命表(2017)によると、現在、日本の男性の平均寿命は80.98年で女性は87.14年と、男性が5年連続、女性は4年連続で過去最高を更新中です。

 平均寿命は、年齢ごとの死亡率が今後も変わらないと仮定し、その年に生まれた0歳児があと何年生きられるかを表す推計値として計算されます。

 諸外国との比較では、現在は男女とも香港(男性 81.32 年、女性 87.34 年)に次ぐ2位の位置を占めており、日本が有数の長寿国であることに変わりはありません。

 厚労省の試算では、2016年生まれの男女が後期高齢者となる75歳まで生きる割合は、女性では9割近い87.8%、男性でも約4分の3に当たる75.1%とされ、大きな戦争や未知の感染症のパンデミックなどが発生しない限り、日本の長寿化はさらに進んでいくものと考えられます。

 一方、同じ日本の国内でも、住んでいる地域よって意外なほど違いがあるのもこの平均寿命の特徴の一つです。

 男女それぞれについてみると、男性の平均寿命が長いのは、滋賀県(81.78年)、長野県(81.75年)、京都府(81.40年)、女性は長野県と岡山県(いずれも87.67年)、島根県(87.64年)で、いずれも(世界一とされる)香港の平均寿命を超えています。

 一方、短いのは、男性は青森県(78.67年)、秋田県(79.51年)、岩手県(79.86年)、女性は青森県(85.93年)、栃木県(86.24年)、茨城県(86.33年)で、男性の平均寿命が最も長い滋賀県と最も短い青森県では3.11年、女性の平均寿命が最も長い長野県と最も短い青森県では1.74年もの格差が見られます。

 地域間での医療の水準や所得、生活習慣にそれほど大きな差はない日本ですが、それでも、喫煙や飲酒、塩分の摂取量などの生活習慣の影響は意外に大きいということでしょう。

 さて、先日読んだ経済誌「週刊PRESIDENT」の7月2日号に、(あまり知られていない)平均寿命の計算方法や考え方に関する興味深い記事(「平均寿命よりも長生きする人が多いわけ」)が掲載されていましたので、参考までに紹介しておきたいと思います。

 おさらいになりますが、「平均寿命」は(前述のとおり)その年の死亡率がこのまま変わらないと仮定した上で「その年に生まれた子ども」がその後何年生きるか推計したものです。その年に亡くなった人の平均年齢ではありませんし、自分の年齢と平均寿命の差で「あと何年生きられる」と言のも正しい使い方ではありません。

 そこで、まず平均寿命の具体的な計算方法ですが、平均寿命はその年の簡易生命表に示された、その年の年齢(1歳)ごとの死亡率から算出するということです。

 その年に、男女それぞれ10万人が生まれたとすれば、この数に(その年の)0歳の死亡率(男0.00194%、女0.00198%)を掛ければ、1歳の誕生日を迎える前に男194人・女198人が亡くなって、残りの男99806人・女99802人が1歳を迎えていることが判ります。

 生き残った彼らの人数にさらに今度は1歳の死亡率を掛けて、男31人・女29人が亡くなって、男99775人・女99773人が2歳になると計算し、この計算を繰り返しながら年齢を重ねさせていきます。そして、出来上がった年齢ごとの死亡者数を足し上げていくと、105歳でほぼ全員が亡くなる計算になるということです。

 一方、見方を変えれば、ここに示された年齢ごとの死亡者数は、(今年の各年齢の死亡率・生存率が今後も続くと仮定した)「今年生まれた男女各10万人の各人が生きた年数」を意味しています。従って、その平均値は「死ぬ年齢の平均」、つまり「平均寿命」になるというワケです。

 具体的な計算方法として、「年齢×死亡者数」で各年齢の小計を計算し、その和(生存年齢の合計値)を人数(その年の出生数)で割った数字が「平均寿命」を指すことになります。

 そして、この年齢ごとの予想死亡数からは、「平均値」以上のいろいろな事実も見えてくると記事はしています。

 例えば、「最頻値」は、年齢ごとの死亡者数が最大となる年齢のこと。つまり、男性では87歳、女性では93歳で亡くなる人が最も多いということですから、これが男女とも平均寿命より6歳ほども高いのには少し驚かされます。

 また、「中央値」は「累積死亡者数」が出生数の半分になる(つまり同じ年に生まれた人の過半が亡くなる)年齢で、こちらは男性83歳、女性89歳と平均寿命よりもそれぞれ2歳ほど高いだけです。

 両者を見ても判るように、若くして亡くなる人が一定数いるので、平均値はその分低めに出てくるため、統計上の「平均寿命」は一般的な感覚での「平均的な寿命」とは少し異なる概念と言えるでしょう。

 このように、統計は代表値に何を採るかによって見え方が大きく変わると記事は指摘しています。

 シニアを迎える方々も、毎年発表される「平均寿命」に一喜一憂することなく、また将来に大きな不安を抱くこともなく長寿社会を楽しんでいければそれが一番良いことなのかもしれません。


♯1120 眉毛がある理由

2018年07月15日 | うんちく・小ネタ


 4月9日にアメリカの科学雑誌「Nature Ecology & Evolution」に掲載された、人間の眉毛に関する論文が話題になっているようです。

 これは、英国のヨーク大学などの研究者による仮説で、進化の過程で脳容量の増大により頭蓋骨の眉上弓の突起を失った人間は、一方で、社会性が強まる中で友好的な人間関係を維持するためのコミュニケーションを補完させる必要から(眉上弓の代わりに)眉毛を残したというものです。

 ヒトは進化の過程で「おでこ」が張り出したことで「のっぺり」した顔になり、表情が乏しくなったと考えられます。そこで、眉毛による感情表現の重要度が増したということでしょう。

 確かに、眉毛はヒトという生物の特徴の一つで、他の多くの哺乳類では額や顔の毛と紛れてしまうため眉毛を区別することはできません。顔に毛がないゴリラやチンパンジーですら、(頭骨の眉状の突起は目立ちますが)額まで毛に覆われているため特に眉毛を特定するのは難しそうです。

 そう言えば、ディズニーランドで愛嬌をふりまいているミッキーマウスのキャラクターにはくっきりとした眉毛がありますし、アニメ「サザエさん」に出てくる磯野家のタマにも、PEANUTSのスヌーピーにも眉毛がしっかり描かれています。

 これらは、洋の東西を問わず人が親しみを感じて感情移入するためには、(アイコンとしての)眉毛はどうしても欠かせない存在となっていることの証左と言えるかもしれません。

 この論文に関連して、4月20日のYahoo newsではライターの石田雅彦氏が「なぜ人類は眉毛を残したのか」と題する興味深いレポートを掲載しています。

 氏によれば、英国の動物行動学者デズモンド・モリスはその著書『裸のサル(The Naked Ape)』(1967)の中で、眉毛の役割について汗や頭髪が目に入ったりするのを防ぐためという俗説を否定し、女性より男性のほうが眉毛が濃いという性差から男性の感情表現に使われたのではないかと指摘しているということです。

 日本にも「柳眉を逆立てる」「眉をひそめる」「眉唾」など眉毛に関する表現は多く、英語でも怒りの表現に「bristling eyebrow」があり「意味ありげに片眉を上げる」「cock(angle、raise) an eyebrow」などが用いられるように、眉毛に関する表現は人類の様々な文化の下できわめてポピュラ-だということです。

 また、4歳児を対象にした認知発達の研究により、大人の眉毛の上下動に対し、幼児の脳は敏感に反応することが知られていると氏はこのレポートで説明しています。彼らは、視線との連動や眉毛の動き方で笑顔かどうかなどの表情を判断しているらしいということです。

 無論、眉を上げるのは驚きの表現だし、眉尻を下げるのは喜びや笑いを、眉を寄せるのは不快を示すものだということは、幼児にもすぐにわかるようです。

 「目は口ほどにものを言う」という言葉がありますが、実際、ヒトという動物の特徴である眉毛は、思っている以上に我々の役に立ってきたのかもしれません。何かの拍子で眉を剃った人の顔を見たときに思わず「ギョッ」としてしまうもの、私たちがそれだけ眉毛からの情報に依存していることの表れだと言ってもよいでしょう。

 さて、石田氏によれば、江戸期の既婚女性は、引き眉をして眉毛を抜いたり剃ったりしたまま、白粉を塗って真っ白な顔をしていたということです。

 眉毛は表情と感情表現にとって重要な役割を担っていることを思えば、そうした慣習は当の女性たちが社会の中で生きていくのに不利に働いていたことは想像に難くありません。

 つまり、それは男性社会の要請に基づくものだったと考えるべきと氏はしています。既婚女性で眉を描かないということは、儒教と封建制に支配されていた当時の既婚女性にとって、眉毛による友好的なコミュニケーション機能はむしろ不要と考えられていたからではないかということです。

 さて、確かに言われてみればバブル経済華やかなりし時代、ボディコンシャスに包まれて(六本木辺りでブイブイ言わせて)いた女性の眉は、これまでないほど「はっきり」「くっきり」と描かれていたことを思い出します。

 女性の感情が押し殺されていた時代と、女性が自信を持って自己の個性や存在を強く主張していた時代。女性の眉の細い時代と太い時代ではどちらが幸せかは、改めて指摘する必要もないでしょう。



♯1108 PETボトルのリスク

2018年07月01日 | うんちく・小ネタ


 コンビニの棚を覗くと、いろいろな種類の清涼飲料水を入れたたくさんのPETボトルが当たり前のように並んでいます。その多くが300~500ml入りの手ごろなサイズで、それぞれが美しく包装され「どうぞ私を選んで」と言わんばかりの魅力を放っています。

 こうした光景はずっと以前から変わらないと思われがちですが、そろそろ初老に達する我々の世代の感覚では、コーラやジュース、サイダーなどの飲み物は、ほんのすぐ最近まで多くが180~200ml入りで、しかもその容器はガラス瓶かスチール缶だったというのがリアルな記憶です。

 以前は500ml入りのコカ・コーラは「ホームサイズ」などと呼ばれ、グラスに3杯以上注げることなどが「売り」の家庭向きの商品でした。なので、その時代にアメリカなどを訪れた日本人の目には、現地の人が普通に飲んでいるコーラを「まるでバケツみたいな大きさ」だと驚いたりしたものでした。

 しかし、規制緩和が進み生活がアメリカナイズされるにつれ、日本人の感覚も次第に「グローバル化」するようになります。飲み物は500mlでも違和感なく受け入れられるようになり、重いガラス瓶や缶から軽くて持ち運びのしやすいペットボトルへと様変わりしていくのにほとんど時間はかかりませんでした。

 ここで、現在主流となっている500mlのPETボトルの歴史を振り返ってみましょう。

 この大きさのPETボトルは、口をつけて直接飲めるのが強みです。「午後の紅茶」から「強炭酸クラブソーダ」「本格焼酎 純」まで、中身を選ぶことなく使われているのが現状でしょう。

 思えば昭和の時代、PETボトルと言えば1~2l入りの大きなものが主流であった中、こうした小型のものが使われ始めたのは(わずか20年前の)1996年のこと。それまでは、かさばるごみの問題や、リサイクルのシステムが確立していなかったこともあり、原則、使い捨てとなるこの容器は業界で自主規制されていてどこのメーカーも使っていませんでした。

 そもそも、日本でPETボトルが販売されたのは、1977年に500mlの醤油容器として使われ始めたのが最初だということです。衝撃に強く酸素の遮断力も高いため、ソースやみりん、サラダオイルなど、食品メーカーにとっては強い味方となっていたようです。

 しかし、当初はまだ飲料用としては一般的ではなく、ようやく(それから)5年後の1982年から、1l超えのものが(ミネラルウォーターなどを中心に)飲料用として使われ始めるようになりました。

 そして(前述のように)1996年の500ml解禁とともにPETボトルの製造量は急激に増え、1997年には容器包装リサイクル法がPETボトルにも適用されるようになりました。

 つまり、平成生まれの20代は、既に小学校入学くらいから500mlPETボトルになじんでおり、子どものころから軽いPETボトルを持ち歩いて日常的に直接口をつけて飲んできた世代と言えるでしょう。

 実際、大学の教師をしている友人などに聞いた話では、授業の際に机の上にPETボトルの清涼飲料水をドンと置いている学生は男女にかかわらず半数以上おり、特に断りもなく当たり前のように口をつけながら講義を聴いているということです。

 それ以前の世代にとっては、授業中に飲み物を飲むというのは(ある意味)考えられないことでしたし、日常的に水筒を持ち歩くという習慣もあまりなかったような気がします。

 そう考えれば、500mlPETボトルの普及は、(人々に飲み物はいつ飲んでもよいものだという新しい感覚をもたらし)日本人の生活習慣を大きく変容させたと言えるかもしれません。

 軽くて割れにくく透明で中身も確認しやすい。加工がしやすく値段も安いと、(あたかも)万能で良いところばかりが目につくPETボトルですが、その一方で意外なところにウィークポイントもあるようです。

 食品ロス問題に詳しいジャーナリストで栄養士でもある井出留美(でい・るみ)氏は、5月18日のYshoo newsに「なぜぺットボトル入り牛乳は一般的でないの?」と題するレポートを寄せています。

 出井氏はこのレポートにおいて、PETボトルに入った500mlの麦茶(保存料無添加)と糖分の入ったスポーツ飲料を、それぞれコップに移し替えて飲んだ場合と直接ペットボトルに口をつけて飲んだ場合とで細菌数の変化を比較した実験結果を示しています。

 これによると、冷蔵しない場合、直接口をつけて飲んだ場合の細菌数は急激に増加し、さらに保存料無添加の麦茶の方が(糖分が入ったスポーツ飲料よりも)数値が格段に大きかったということです。

 細菌の多くは(特に)気温が30℃くらいの夏季に活発に増殖するようになり、猛暑日にはペットボトル飲料に含まれる細菌の増殖が激しくなる。つまり、(口をつけて飲むことが一般的な)ペットボトル飲料は4~5時間で飲み切ることが原則だと氏は指摘しています。

 ペットボトル飲料は常温下で持ち歩かれることも多い。そのような環境を考えれば、細菌の繁殖しやすい無添加の飲料や乳飲料などがPETボトルに適さないのは明らかだと出井氏はしています。

 とりわけ牛乳は細菌によって傷みやすいと氏は説明します。こうした実験結果を見れば、なぜ牛乳が入っている容器の多くがPETボトルではなく、紙パックかガラス瓶である理由が察せられるだろうということです。

 因みに、現在でもPET容器で販売されている乳飲料は何種類かありますが、そのいずれもが容量が200mlの小さいサイズだということです。これは、一回で飲み切ることを想定しているもので、そうでない場合はストローを使って飲むことが求められると氏は言います。

 これも因みに、(あまり知られていませんが)牛乳の紙パックを開けるときも内側に指を入れて開けるのは御法度で、細菌による汚染を防ぐためには(注ぎ口にも絵で描いてあるように)左右から押さえて注ぎ口を開けるようする必要があるのだそうです。

 さて、というわけで、(まとめれば)500mlサイズなどのペットボトル飲料は4~5時間で飲み切ること。特に、直接、口をつけて飲んだペットボトルは十分に注意すること。朝、出勤の際にコンビニで買ったペットボトル飲料は、マグカップやグラスなどに移して飲むようにすることなどを、出井氏はこの論評で提案しています。

 透明なこともあり、安全面などあまり気にならないPETボトル飲料ですが、これから暑さが厳しくなる中、(以前はあまりなかった)持ち歩きの飲み物による食中毒には十分気を付けたいものです。