ようこそ「LENTO」小路へ

旅にお出かけ、おいしいもの、そして日常。「LENTO」(ゆっくり、のんびり)に、いきましょう♪

三崎城へ~北条水軍のこと

2020-06-08 | おでかけ
三浦半島、マグロの漁港で知られる三崎には、
小田原・北条氏の水軍基地だった三崎城址があります。

『日本の城』(学研)で香川元太郎氏が描く、三崎城の復元イラストに、
すっかり魅せられ、
外出自粛解除後、一番に登城してきました。

(感染防止対策は万全に、車で往復、早朝空いている時間に出かけました。
もちろん県内の移動です!)

(書影は版元ドットコムよりお借りしました)


産直センター「うらり」の面している入り江は、「北条湾」と呼ばれ、
その前に城ヶ島が見えるのは、北条氏の時代と同じ・・・

↓こんな風に島が横たわっていることが、
防御の上で、どんなに心強かったことか・・・・。


(今は橋で結ばれている、城ヶ島。冒頭画像は海側から三崎城址を撮影。どちらも、写真がボケボケなのは、デジイチの設定を間違えていたからです。お見苦しくて、ごめんなさい。)


主な城址は、三浦市役所と旧・三崎中学校のある、
小高い丘の一帯です。
かつては、ぐるりと土塁が囲んでいたとかで、一部が残っていました。

中学校を下っていくと住宅地になっていますが、
空堀や虎口の名残があり、今も城趾だったことを偲ばせられます・・・
感動、感涙w

なんだかんだで興奮しまくり、一時間近く、暑い中、
夫と二人で、歩き回ってきました♫


(市役所駐車場の上は旧・三崎中学校、現・図書館。主郭部分とされている)


三崎城は歴史的に申しますと・・・

三崎城のある三浦半島は、永正13(1516)年、北条早雲(当時は伊勢盛時)が
三浦道寸こと義同(よしあつ)を滅ぼし、手にした土地です。
(早雲・道寸ゆかりの城→「相模の岡崎城」)

三浦家滅亡後しばらくは、道寸の家臣が城ヶ島にこもり、
北条氏にゲリラ戦を続けていたとか。
それでも、北条家は、彼らを三崎十人衆として、やがて召し抱えます。

というのも、早雲が、対岸の房総半島、里見水軍との戦いを予想しており、
急ぎ、水軍戦力を整える必要があったからでした。


(左は旧・中学校、かつては主郭とされている部分。土塁の名残もあり、当時、
道路は空堀だったのかも)


案の定、里見水軍は、大永6(1526)年以降、半世紀にわたり、相模に侵入、
北条水軍と争います。

この頃、北条家は、三代目・氏康の代になっていました。

里見水軍は、毎晩のように、北条領内へ、海から侵入しては
女子どもをさらい、身代金を要求するなど、乱暴狼藉。

たまりかねた、海辺の村では、「半手」つまり、北条家の領民でありながら、
里見家にも年貢を納めざるをえないほど、苦しめられていたのです。


(その前の写真のあたりから逆方向に撮影。右が搦め手側の虎口の名残?クランクになっています。正面は慰霊堂の茂み。土塁が残っているように見えました)


氏康は、この状況を打開すべく、領内の伊豆・三崎の水軍衆に加え、
紀伊半島から熊野水軍を雇い入れ、三浦半島に配置・・・

弘化2(1556)年、拡大を続ける北条家に対し、
なんと里見軍は上杉謙信と結び、陸と海、双方から北条領内を攻めたてます。

このとき、北条家が雇い入れた、熊野水軍の安宅船は当時最強・・・
苦戦はしたものの、これ以後、里見軍との間に大がかりな水軍戦は起きず、
天正5(1577)年、両者は和睦をしています。

この三ヶ月前、三崎城は、田嶌貴久美氏の言う
「一気に抜本的な『新築』をした印象」の改築が行われていました。

さすがの里見水軍も、先進的な三崎城の縄張りを目のあたりにし、
妥協せざるをえなかったのかもしれません。


(慰霊堂は当時、櫓があったのか・・・今も見事な土塁が残ります!)


この三崎城の最後の城主が、北条氏規(うじのり)でした。
北条氏康の四男、つまり北条家第四代・氏政の同母の弟です。
少年時代に、今川家の人質に出され、外祖母・寿桂尼に育てられています。

(寿桂尼は、大河「真田丸」の浅丘ルリ子さんが印象的♥)

これが氏規の運命を変えたとも言えましょう。

このとき、同じように、今川の人質になっていたのが、後の徳川家康。
二人に生まれた交流から、長じて、氏規は、家康との外交を担当し、
さらに羽柴秀吉との交渉役を務めます。


(かつての曲輪跡とされる、体育館跡地の裏から本瑞寺方面を眺めると
土塁が残っているのが分ります)


天正18(1590)年、小田原合戦が始まると、
城主・氏規は、やはり城主を務めていた、伊豆・韮山城に籠城・・・
戦後は、当主・氏直に従い、高野山に入り、翌年、氏直と共に赦免されました。

十数年後、氏規は亡くなりますが、子孫は続き・・・

氏規の孫・氏盛は、河内狭山・藩祖となり、
1万石を領し、大名として家名を守り、明治維新を迎えています。


(本瑞寺から、海は見えないけれど、北条湾方面を眺める。高低差がすごい)


「禄寿応穏(民の命と財を守る)」を五代にわたって貫いた、
小田原の北条氏が、関西の地とは言え、続いていた・・・
嬉しいことです♫

それが、城址に感動した三崎城、
城主・北条氏規の子孫だと思うと、感無量でした。



(本瑞寺側から主郭部分を眺める)

このあと、港の産直センター「うらり」へ寄って買い物、
近くで早めのランチ、お寿司をいただいて帰りました。
(朝10時に食事できた、お寿司屋さん→「漁港のお寿司」)

満足、満足でございます♥

◆本日の記事は、以下を参考にまとめています。
なお、記事に間違い、勘違いなど多々あることと存じます。
素人のこと故、どうぞ、お許し下さいませ。

○黒田基樹『戦国北条一族辞典』戎光祥出版
○左文字右京(V1パブリッシング)編「戦国海賊伝」笠倉出版社
○西股総生 松岡進 田嶌貴久美『神奈川中世城郭図鑑』戎光祥出版

コメント    この記事についてブログを書く
« 「北条早雲」に夢中♫ | トップ | 次の記事へ »