なかったことにされようとしているが、かつてこの国には、「不良」という言葉が間違いなく存在したし、従って当然のことながら、不良チルドレンたちが存在した。
死語化の一途をたどる「不良」を、なぜ今さら持ち出したかというと、不良の在り方には、まだまだ発展・開拓の余地があるように筆者は思うからである。
不良や「不良」という言葉が絶滅の危機に瀕するに至った背景としては、
「あえて悪くなろうとする・悪いことをしようとする、ってことは、本当はいい奴なんじゃん!」っていうことにみんなが気付いちゃった、ことが挙げられる。
そもそもが、不良という在り方には、最初から限界があったのである。
そして人々はいつしか、甘酸っぱくて恥ずかしい感情と共に、ときめき不良メモリアルを、心の奥底に封印し始めた。
しかし!
行き詰まったかのように思える不良の在り方を打破し、新しい、進化した不良像、言ってみれば、ニュータイプ、ネクストジェネレーションの不良像を、私は発見してしまったのである。
従来の、ともすれば戯画化されもする不良像は、ひとりの人間を全体として考えたとき、「マクロなレベルでの不良」と言える。
つまり、A君という全体が、不良なのである。
ただ、この場合だと、先ほども触れたように、どうしても行き詰まらざるをえない。
A君が「不良」という立場を維持するためには、常に「悪いことをしようとし続けねばならない」からである。
誤解している人も多いと思うが、不良とは、読んで字のごとく、「良くない」のであって、決して「悪」ではない。
究極的に悪いことをしてしまった時点で、不良はもはや不良失格であり、彼らは極悪人・犯罪者というネクストステージに行ってしまう。
私が、「悪いことをしなくてはならない」ではなく、「悪いことをしようとし続けねばならない」と書いたのは、そういう意味である。
しかし、悪いことをしようとし続ける限り、「本当はいい奴なんじゃん!」というジレンマから逃れることはできない。
そう。この微妙な立ち位置、悩ましくもナイーブなポジショニングが求められるが故に、不良という在り方は破綻をきたし、フィクション化の憂き目に遭っているのだ。
そこで!
今回私が提案するのは、『「ミクロレベルでの不良」の集合体』としての不良、という在り方。
これによって、従来型の不良の問題点は、ほぼ解決されると思われる。
『「ミクロレベルでの不良」の集合体』としての不良、とは、一体どういうものか?
例えばその条件としては、
・視力が0.1未満であること。ビン底メガネを着用すること。
・衣類は、最悪の品質、最悪のセンスのものを着用すること。
・全ての歯が虫歯であること。治療厳禁。
・腐ったものしか食べてはならない。合言葉は、「消費期限が切れてから!」
といったようなことが挙げられる。
そして、そういった条件を一つでも多く身につけ満たしたヤツこそが、究極の不良、ナンバーワンの不良たりうるのである。
上に挙げた条件を満たすことは、一見「悪いこと」のようではあるが、その実、それらの条件を満たした人間が「悪人」であるかと問われれば、あきらかに答えはNOである。
あくまで、「良くない:不良」の範疇に、マキシマムでとどまることができる。
答えは出た。かに思われる。
がしかし!話はまだ終わらない。
考えてみてほしい。『「ミクロなレベルでの不良」の集合体』としての不良が、「マクロなレベルでの不良」を両立するケースを。
その場合には、本当に良くない人間が、社会的にも良くないことをする。
ビン底眼鏡で末期的な衣服を着た、納豆くさぁい虫歯少年が、社会や大人たちに反抗し、ケンカに明け暮れ、ちょっとした出来心から、17歳の地図を片手に盗んだバイクで走り出す15の夜。
無敵。
これこそが究極の、完全無欠の不良の在り方であると、私は今、猛烈に確信している。
死語化の一途をたどる「不良」を、なぜ今さら持ち出したかというと、不良の在り方には、まだまだ発展・開拓の余地があるように筆者は思うからである。
不良や「不良」という言葉が絶滅の危機に瀕するに至った背景としては、
「あえて悪くなろうとする・悪いことをしようとする、ってことは、本当はいい奴なんじゃん!」っていうことにみんなが気付いちゃった、ことが挙げられる。
そもそもが、不良という在り方には、最初から限界があったのである。
そして人々はいつしか、甘酸っぱくて恥ずかしい感情と共に、ときめき不良メモリアルを、心の奥底に封印し始めた。
しかし!
行き詰まったかのように思える不良の在り方を打破し、新しい、進化した不良像、言ってみれば、ニュータイプ、ネクストジェネレーションの不良像を、私は発見してしまったのである。
従来の、ともすれば戯画化されもする不良像は、ひとりの人間を全体として考えたとき、「マクロなレベルでの不良」と言える。
つまり、A君という全体が、不良なのである。
ただ、この場合だと、先ほども触れたように、どうしても行き詰まらざるをえない。
A君が「不良」という立場を維持するためには、常に「悪いことをしようとし続けねばならない」からである。
誤解している人も多いと思うが、不良とは、読んで字のごとく、「良くない」のであって、決して「悪」ではない。
究極的に悪いことをしてしまった時点で、不良はもはや不良失格であり、彼らは極悪人・犯罪者というネクストステージに行ってしまう。
私が、「悪いことをしなくてはならない」ではなく、「悪いことをしようとし続けねばならない」と書いたのは、そういう意味である。
しかし、悪いことをしようとし続ける限り、「本当はいい奴なんじゃん!」というジレンマから逃れることはできない。
そう。この微妙な立ち位置、悩ましくもナイーブなポジショニングが求められるが故に、不良という在り方は破綻をきたし、フィクション化の憂き目に遭っているのだ。
そこで!
今回私が提案するのは、『「ミクロレベルでの不良」の集合体』としての不良、という在り方。
これによって、従来型の不良の問題点は、ほぼ解決されると思われる。
『「ミクロレベルでの不良」の集合体』としての不良、とは、一体どういうものか?
例えばその条件としては、
・視力が0.1未満であること。ビン底メガネを着用すること。
・衣類は、最悪の品質、最悪のセンスのものを着用すること。
・全ての歯が虫歯であること。治療厳禁。
・腐ったものしか食べてはならない。合言葉は、「消費期限が切れてから!」
といったようなことが挙げられる。
そして、そういった条件を一つでも多く身につけ満たしたヤツこそが、究極の不良、ナンバーワンの不良たりうるのである。
上に挙げた条件を満たすことは、一見「悪いこと」のようではあるが、その実、それらの条件を満たした人間が「悪人」であるかと問われれば、あきらかに答えはNOである。
あくまで、「良くない:不良」の範疇に、マキシマムでとどまることができる。
答えは出た。かに思われる。
がしかし!話はまだ終わらない。
考えてみてほしい。『「ミクロなレベルでの不良」の集合体』としての不良が、「マクロなレベルでの不良」を両立するケースを。
その場合には、本当に良くない人間が、社会的にも良くないことをする。
ビン底眼鏡で末期的な衣服を着た、納豆くさぁい虫歯少年が、社会や大人たちに反抗し、ケンカに明け暮れ、ちょっとした出来心から、17歳の地図を片手に盗んだバイクで走り出す15の夜。
無敵。
これこそが究極の、完全無欠の不良の在り方であると、私は今、猛烈に確信している。