非ミステリ作品ながら、アメリカ探偵作家クラブ(MWA)が選ぶ最優秀作品(エドガー賞)の短編部門を受賞した「リガの森では、けものはひときわ荒々しい」が雑誌に掲載されたのが1970年のこと。
その3年後に非ミステリとして書き下ろしアンソロジーに掲載され、同賞を受賞したのがハーラン・エリスン「鞭打たれた犬たちのうめき」である。
初出はトマス・M・ディッシュ編のBad Moon Rising、副題はAn Anthology of Political Forebodings(政治的予兆についてのアンソロジー)。
収録作にスラデック「メキシコの万里の長城」ウィルヘルム「掃討の村」そしてディッシュの「後期ローマ帝国の日々」が入っていることでもわかるとおり、れっきとしたSFアンソロジーである。
これに収録された作品がMWA短編賞を受賞するというのが驚きだが、『短編ミステリの二百年』の編者である小森収氏はエリスンがお気に召さないらしく、第5巻の評論部分でわざわざエリスンに1章を割きつつもそのほとんどをエリスン作品の批判にあてるという、まるでいやがらせのような仕儀に及んでいる。
これまた小森氏が低く見ている「おれには口がない、それでもおれは叫ぶ」の描写に倣うなら、その言葉のひとつひとつから憎悪が滴ってくるようだ。
ここで小森氏による「鞭打たれた犬たちのうめき」評について、その一部を引用してみよう。
「十代の私が、なぜ、こういう結末になるのだろうと、訝しく思ったことは確かで、今回読み返しても、結末は釈然としません。」
「共同幻想としても、それなら、なぜ、それがメンバーの安心と安全を保障するのかが分からない。本当に超越的な何かがあるのなら、ずいぶん安易で都合のいい超越者ではないでしょうか?」
「それに、冒頭の殺人を見守る人々の心の中が一様だと言われて、はいそうですかと納得するほど、もう子どもでは、私もありませんからね。」
最後の一文などはそれこそ子どもじみた言いがかりでしかないし、それなら小森氏は子どもよりもエリスンが読めていない。
今回この感想を書くにあたって読み直してみたが、特に引っかかるところもなくするする読めた。エリスンの作品ではむしろわかりやすいほうだろう。
もし釈然としないのであれば、それは小森氏が自分の視点に固執するあまり作品を理解する気がないからだ。
さて、まず基本に立ち返って考えてもらいたい。「鞭打たれた犬たちのうめき」の初出はミステリの媒体ではなく、SFアンソロジーである。だからミステリの約束事において非現実的な結末や超越的な存在が否定されたとしても、もともとSFあるいはファンタジーとして書かれた本作においては何の瑕疵にもならない。
少なくとも本作がミステリの賞を獲得したのはエリスンのせいではないし、受賞について難癖をつけるなら選考したMWAに言うべきだ。エドガー賞はファン投票ではなく、ミステリに通じた選考委員によって選ばれるのだから。
むしろ本作をミステリの俎上に載せて論じるなら、なぜこの一編がミステリとして評価され、エドガー賞を受賞したのかという視点で分析するべきだろう。それができないならミステリとしての優劣を語る見識がないわけで、薄っぺらくて偏った文章を連ねるよりはむしろ黙して語るべきではない。
筋の悪い評論がどうであれ、「鞭打たれた犬たちのうめき」はエリスンの数ある傑作を読んできた読者にとって十分に納得のいくものである。
むしろ邦訳がミステリマガジンに載ったこと、最初の書籍化がMWA賞アンソロジーへの収録だったためSFファンの多くが見逃したまま幻の作品になったことのほうがよほど問題視すべきだろう。
それだけにハヤカワSF文庫『死の鳥』への収録によって容易に読めるようになったことは喜ぶべきことだ。
本編冒頭でヒロインが目にする婦女暴行殺人は実際に衆人環視の中で女性デザイナーが暴行・殺害されたキティ・ジェノヴィーズ事件を思わせるが、この事件が起きたのは1964年3月のことなので、時事的な話題として取り上げたとは思えない。むしろ事件に関して1968年に心理学的実験が行われ、その結果から「傍観者効果」という言葉が広まったことを踏まえれば、エリスンの念頭にあったのはこの「傍観者効果」であったとも考えられる。
だが怒れる男エリスンはこの「目撃者に罪はない」という生ぬるい結論に納得できなかったのだろう。ゆえに都会を舞台にしたダーク・ファンタジーとして事件を再構成し、その中で目撃者の罪を暴いてみせたとも読める。
作中に肛門性交が出てくるが、これはアメリカにおけるソドミー法とその語源である『創世記』の堕落した都市の名を連想させるものだ。舞台となるニューヨークは現代のソドムであり、そこに暮らす住民もまた堕落していることを示す象徴である。
しかし現代のソドムは神によって滅びるどころかますます繫栄していることを考えれば、その民が崇める神もまたかつてとは真逆の存在であるはずだ。
つまり「鞭打たれた犬たちのうめき」は堕落した街とそれを支配する神、そして信徒としての都市住民についての物語であり、都市神の姿を見た(と信じる)ヒロインは街の規範に触れ、それを受け入れることでようやく「安心して眠れるようになる」のである。これは一種の都市小説であり、荒んだ都市社会における現代的な信仰の物語でもあるのだ。
エリスンは都市全体を巨大なカルトに見立て、そこに新たな神を据えることによって都市生活者の心理をあぶりだすと共に、その魂に根ざす悪のかたちを具現化させてみせた。
MWAの選考委員が本作に賞を与えたのも、それこそアメリカの直面している現実的な問題であると認識していたからではないのか。また都市あるいはその住民たちこそ殺人の真犯人であると見なせば、本作は確かにミステリとしても読むことができる。そこまで作品を読み込んで賞を与えたのなら、MWAの慧眼恐るべしである。
ではヒロインが見た神は本物か、それとも幻想なのだろうか?それは作中の力学においてはどちらであれ問題とはならない。
ヒロインは確かに神の奇跡を目の当たりにし、その姿を見たことにより安心して眠れるようになったのだ。そこに真偽を語る余地はない。繰り返すが、これは信仰の問題なのである。
またエリスンには偽りの神、狂った神についての物語も多い。彼は神を正しいとも慈悲深いとも思っていないこと、そして信仰とは一種の狂気でもあることを忘れてはならない。
ここで本作の核心を成す重要な一文を示しておく。
「崇拝者を欲し、生贄としての死か、さもなくば選ばれた他の生贄の死に立ちあう永遠の証人としての生か、その二者択一をせまる神。この時代にふさわしい神、都会とそこに生きる人びとの神。」
そこに在るのは「安易で都合のいい超越者」ではなく、都市に生きる者すべてを信者であり生贄として求める残酷な神である。そして新たな神を信じれば自らが生贄に選ばれるときまで心安らかであり、生贄に選ばれることもまた喜びとなるだろう。それが狂信における救済のかたちである。
エリスンが繰り返し神と信仰について書いてきたことを思えば、実際の事件と社会の動向を元にこの問題を取り上げることもまた極めて自然なことだ。彼の作品からそうした要素を読み取れないのであれば、それは彼の書いた作品と真っ向から向き合っているとは言えない。少なくともエリスンを語るには見えていないもの、足りないものが多すぎるということだろう。
最後に小森氏の偏った見方を示すものとして、エリスンについて書かれた章の末尾に置かれた文章から引用する。
エリスンの「おれには口がない、それでもおれは叫ぶ」や「プリティー・マギー・マネーアイズ」、そしてベスターに見られるタイポグラフィック的な表現について小森氏は「いかに腐りやすいことか」と一蹴した挙句、「アルジャーノンに花束を」の日本語訳との比較についてこう述べる。
「漢字かな交じりという特徴の持つタイポグラフィックな効果―字面そのものからチャーリイの変化が見て取れる―の前には、ベスターやエリスンの工夫は、単に本質をはずれた技巧の末路を示しているだけにしか見えません。」
言語表現の形式自体が異なる英語作品に対し、「漢字かな交じり」が使える日本語への優越感さえ臭わせるこの文章のいやらしさ。
そもそも日本語はひらがなだけで48文字、漢字に至っては小学校で学ぶだけでも1000字を超えるうえに促音 · 撥音 · 拗音 · 長音なども存在するので、文字による表現については基本的にアルファベット24文字しかない英文よりも格段に表現の幅が広くて当然だ。
そうした事情も一顧だにせず、アルファベットの持つ制限から抜け出すために様々な工夫を試みた作家の試みを嘲笑するような態度はさすがに見過ごせない。
言語の性質の違いを優位性とはき違えた上、それに寄りかかって他言語の書き手を貶めるような物言いは批評家を名乗る立場として恥ずべき行為だろう。
その3年後に非ミステリとして書き下ろしアンソロジーに掲載され、同賞を受賞したのがハーラン・エリスン「鞭打たれた犬たちのうめき」である。
初出はトマス・M・ディッシュ編のBad Moon Rising、副題はAn Anthology of Political Forebodings(政治的予兆についてのアンソロジー)。
収録作にスラデック「メキシコの万里の長城」ウィルヘルム「掃討の村」そしてディッシュの「後期ローマ帝国の日々」が入っていることでもわかるとおり、れっきとしたSFアンソロジーである。
これに収録された作品がMWA短編賞を受賞するというのが驚きだが、『短編ミステリの二百年』の編者である小森収氏はエリスンがお気に召さないらしく、第5巻の評論部分でわざわざエリスンに1章を割きつつもそのほとんどをエリスン作品の批判にあてるという、まるでいやがらせのような仕儀に及んでいる。
これまた小森氏が低く見ている「おれには口がない、それでもおれは叫ぶ」の描写に倣うなら、その言葉のひとつひとつから憎悪が滴ってくるようだ。
ここで小森氏による「鞭打たれた犬たちのうめき」評について、その一部を引用してみよう。
「十代の私が、なぜ、こういう結末になるのだろうと、訝しく思ったことは確かで、今回読み返しても、結末は釈然としません。」
「共同幻想としても、それなら、なぜ、それがメンバーの安心と安全を保障するのかが分からない。本当に超越的な何かがあるのなら、ずいぶん安易で都合のいい超越者ではないでしょうか?」
「それに、冒頭の殺人を見守る人々の心の中が一様だと言われて、はいそうですかと納得するほど、もう子どもでは、私もありませんからね。」
最後の一文などはそれこそ子どもじみた言いがかりでしかないし、それなら小森氏は子どもよりもエリスンが読めていない。
今回この感想を書くにあたって読み直してみたが、特に引っかかるところもなくするする読めた。エリスンの作品ではむしろわかりやすいほうだろう。
もし釈然としないのであれば、それは小森氏が自分の視点に固執するあまり作品を理解する気がないからだ。
さて、まず基本に立ち返って考えてもらいたい。「鞭打たれた犬たちのうめき」の初出はミステリの媒体ではなく、SFアンソロジーである。だからミステリの約束事において非現実的な結末や超越的な存在が否定されたとしても、もともとSFあるいはファンタジーとして書かれた本作においては何の瑕疵にもならない。
少なくとも本作がミステリの賞を獲得したのはエリスンのせいではないし、受賞について難癖をつけるなら選考したMWAに言うべきだ。エドガー賞はファン投票ではなく、ミステリに通じた選考委員によって選ばれるのだから。
むしろ本作をミステリの俎上に載せて論じるなら、なぜこの一編がミステリとして評価され、エドガー賞を受賞したのかという視点で分析するべきだろう。それができないならミステリとしての優劣を語る見識がないわけで、薄っぺらくて偏った文章を連ねるよりはむしろ黙して語るべきではない。
筋の悪い評論がどうであれ、「鞭打たれた犬たちのうめき」はエリスンの数ある傑作を読んできた読者にとって十分に納得のいくものである。
むしろ邦訳がミステリマガジンに載ったこと、最初の書籍化がMWA賞アンソロジーへの収録だったためSFファンの多くが見逃したまま幻の作品になったことのほうがよほど問題視すべきだろう。
それだけにハヤカワSF文庫『死の鳥』への収録によって容易に読めるようになったことは喜ぶべきことだ。
本編冒頭でヒロインが目にする婦女暴行殺人は実際に衆人環視の中で女性デザイナーが暴行・殺害されたキティ・ジェノヴィーズ事件を思わせるが、この事件が起きたのは1964年3月のことなので、時事的な話題として取り上げたとは思えない。むしろ事件に関して1968年に心理学的実験が行われ、その結果から「傍観者効果」という言葉が広まったことを踏まえれば、エリスンの念頭にあったのはこの「傍観者効果」であったとも考えられる。
だが怒れる男エリスンはこの「目撃者に罪はない」という生ぬるい結論に納得できなかったのだろう。ゆえに都会を舞台にしたダーク・ファンタジーとして事件を再構成し、その中で目撃者の罪を暴いてみせたとも読める。
作中に肛門性交が出てくるが、これはアメリカにおけるソドミー法とその語源である『創世記』の堕落した都市の名を連想させるものだ。舞台となるニューヨークは現代のソドムであり、そこに暮らす住民もまた堕落していることを示す象徴である。
しかし現代のソドムは神によって滅びるどころかますます繫栄していることを考えれば、その民が崇める神もまたかつてとは真逆の存在であるはずだ。
つまり「鞭打たれた犬たちのうめき」は堕落した街とそれを支配する神、そして信徒としての都市住民についての物語であり、都市神の姿を見た(と信じる)ヒロインは街の規範に触れ、それを受け入れることでようやく「安心して眠れるようになる」のである。これは一種の都市小説であり、荒んだ都市社会における現代的な信仰の物語でもあるのだ。
エリスンは都市全体を巨大なカルトに見立て、そこに新たな神を据えることによって都市生活者の心理をあぶりだすと共に、その魂に根ざす悪のかたちを具現化させてみせた。
MWAの選考委員が本作に賞を与えたのも、それこそアメリカの直面している現実的な問題であると認識していたからではないのか。また都市あるいはその住民たちこそ殺人の真犯人であると見なせば、本作は確かにミステリとしても読むことができる。そこまで作品を読み込んで賞を与えたのなら、MWAの慧眼恐るべしである。
ではヒロインが見た神は本物か、それとも幻想なのだろうか?それは作中の力学においてはどちらであれ問題とはならない。
ヒロインは確かに神の奇跡を目の当たりにし、その姿を見たことにより安心して眠れるようになったのだ。そこに真偽を語る余地はない。繰り返すが、これは信仰の問題なのである。
またエリスンには偽りの神、狂った神についての物語も多い。彼は神を正しいとも慈悲深いとも思っていないこと、そして信仰とは一種の狂気でもあることを忘れてはならない。
ここで本作の核心を成す重要な一文を示しておく。
「崇拝者を欲し、生贄としての死か、さもなくば選ばれた他の生贄の死に立ちあう永遠の証人としての生か、その二者択一をせまる神。この時代にふさわしい神、都会とそこに生きる人びとの神。」
そこに在るのは「安易で都合のいい超越者」ではなく、都市に生きる者すべてを信者であり生贄として求める残酷な神である。そして新たな神を信じれば自らが生贄に選ばれるときまで心安らかであり、生贄に選ばれることもまた喜びとなるだろう。それが狂信における救済のかたちである。
エリスンが繰り返し神と信仰について書いてきたことを思えば、実際の事件と社会の動向を元にこの問題を取り上げることもまた極めて自然なことだ。彼の作品からそうした要素を読み取れないのであれば、それは彼の書いた作品と真っ向から向き合っているとは言えない。少なくともエリスンを語るには見えていないもの、足りないものが多すぎるということだろう。
最後に小森氏の偏った見方を示すものとして、エリスンについて書かれた章の末尾に置かれた文章から引用する。
エリスンの「おれには口がない、それでもおれは叫ぶ」や「プリティー・マギー・マネーアイズ」、そしてベスターに見られるタイポグラフィック的な表現について小森氏は「いかに腐りやすいことか」と一蹴した挙句、「アルジャーノンに花束を」の日本語訳との比較についてこう述べる。
「漢字かな交じりという特徴の持つタイポグラフィックな効果―字面そのものからチャーリイの変化が見て取れる―の前には、ベスターやエリスンの工夫は、単に本質をはずれた技巧の末路を示しているだけにしか見えません。」
言語表現の形式自体が異なる英語作品に対し、「漢字かな交じり」が使える日本語への優越感さえ臭わせるこの文章のいやらしさ。
そもそも日本語はひらがなだけで48文字、漢字に至っては小学校で学ぶだけでも1000字を超えるうえに促音 · 撥音 · 拗音 · 長音なども存在するので、文字による表現については基本的にアルファベット24文字しかない英文よりも格段に表現の幅が広くて当然だ。
そうした事情も一顧だにせず、アルファベットの持つ制限から抜け出すために様々な工夫を試みた作家の試みを嘲笑するような態度はさすがに見過ごせない。
言語の性質の違いを優位性とはき違えた上、それに寄りかかって他言語の書き手を貶めるような物言いは批評家を名乗る立場として恥ずべき行為だろう。
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