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ただの日記

「同文同軌」ではなく「同文同種」ならどういうことになるか

2023年07月09日 | 心の持ち様
 本当は「同文同種」ではなく「同文同軌」というのだ、と陳舜臣の本で知った、ということを再掲したけど、ついでなのでこれも再掲。
    ↓
 
 2012.03/12 (Mon)

 先日、珍しく「ゲゲゲの鬼太郎」のアニメを見ました。
 初めに猫娘が、プールの招待券を手に入れたから鬼太郎に一緒に行こうと誘って断られ、「じゃ、妖怪女子部で行くからいいわよ!」、と怒って帰る。

 一転して、当日集まった「妖怪女子部」。砂かけ婆と猫娘とろくろ首の三人。
 ろくろ首はスタイルは良いのだけれど、水が怖いものだから首を伸ばして・・・・。

 このろくろ首、実は日本の妖怪ではないみたいです。
 私は田舎者でよくは知らないのですが、昔いろんな所で見世物小屋が建っていた頃は、必ずこのろくろ首の見世物があったとか。
 中に入ると口上が例によって、
 「親の因果が子に報い~、生れ落ちたがこの子でござい~。何の祟りか首から上がどんどん伸びる身の不幸~。さ~あ~、ろくろっ首の花ちゃんや~い」
 「あ~い~」
 と返事をするや、首がするすると・・・・。

 見世物小屋では首がするすると伸びるんですが、これ、段々変わっていったものらしく、元々は首が身体から離れるのだそうです。

 夜になって横になり、眠ってしまったと思ったら、いきなりかっと目を開き、横たわった身体はそのままに、首は宙に浮き上がって、獲物を探し始める。そして、寝ている人の首に噛み付き、血を吸うのだそうです。
 で、夜明けまでに戻って来て、ちゃんと胴体にくっつかないと死んでしまう。
 夜な夜な人の肉を喰らい、血を啜るために身体から離れてさまよう。それがろくろ首。
 何とも恐ろしい妖怪ですが、不思議なことに眠っている(かどうかは分からないけど)横たわっている身体を動かし、どこかに隠してしまえば、戻って来た首は辺りを探し回って、飛び回り、終には夜が明けてしまって、力尽きて死んでしまうのだ、といいます。

 ろくろ首かどうかを調べるのは簡単なのだそうで、みんな着物の襟や包帯で首を隠している。何かの拍子に首を見ると、細い、赤い線が、首をぐるりと取り巻いている。その赤い線のところから、首が離れるわけです。
 もっとも、昼間は赤い筋が見えるだけで「いつでも離れますよ~」というわけではない。
 このろくろ首、支那では「飛頭蛮」と言うのだそうで、大陸南部にある怪異譚では有名なものだそうです。

 「飛頭蛮」。首が夜な夜な飛び回る蛮族。
 あっと思われた方、ありませんか。そうです。赤い線、というのは、首を切り離された跡で、ろくろ首というのは首を刎ねられた、既に死んでいる(筈の)人間のことなんです。
 考えてみれば、東南アジア一帯から台湾、(当然日本も?)まで、首狩りの風習がありました。それがないのは支那だけです。

 「首を刎ねられたら、冥府へ行けない。永久に死ぬことができず、生まれ変わることもできず、彷徨い続けなければならない。だから、首を刎ねると祟られるから、どんな場合でも、首は刎ねない。」

 というわけで、大陸では、あの残酷な刑罰の代表格である、「車裂きの刑」にしても、首に縄はかけず、手足だけを引きちぎろうとしました。
 日本では「苦しまなくても良いように」と介錯をしたり、また「苦しみを少しでも早く取り除いてやろう」と、罰であるにもかかわらず斬首という死刑の方法が行われていました。
 また「首を取る」ということは手柄そのものだったし、取られた方も「首実検」などをされるわけで、決して首は粗略に扱われることはありませんでした。

 これを恐れるのは、支那と属国である朝鮮だけでしょう。
 日本刀の美しさと、その切れ味の抜群であることは「日本刀乃歌」が詠まれたくらいだから、支那人も朝鮮人も一目置いているだろうと我々は思いますが、昭和10年代の大陸にそんなことを知る教養人が一体どれだけ居たでしょうか。
 それよりも、「日本刀で首を刎ねる」という噂だけが千里を奔ったのではないでしょうか。
 彼らにとっては、
 「ただ殺せば済むところを、何故、わざわざ生まれ変わることもできないように、首を刎ねるのだ!鬼(悪霊)だ!東洋鬼だ、日本鬼!」
 としかとれない。
 中華思想です。「首を刎ねる」より「屠」とか「坑(生き埋め)」の方が百倍もマシだ、と絶対的な自信を持っている。
 周辺諸国の首狩りの風習にある「価値観」などは、一切認めない。
 それはそうです。「周辺に居るのは全て蛮族。オレ様は中華」、ですから。
そんな風習認める理由がない。

 ということはですよ、「同文同種」なんて、とんでもない。最初から「聞く耳持たぬ」というわけです。何しろ日本なんて東夷。野蛮な連中であって、同じ人間じゃない。

 「同文」というのは、「同じ文字を使っている」という意味ですが、「文字」は物事を記すためにあるのですから、「同文」というのは同じ文字を使って記される「物事全般」。つまり「文化」。従って「同文」とは「同じ文化」という意味があります。
 日本と支那。同じ文化?違いますね。
 そして、繰り返しますが支那は蛮族である日本の価値観、考え方など、一切「聞く耳持たぬ」。
 また「同種」は同じ種族。違いますね。

 「同文同種」というのは実は間違いなんだそうです。こんな言葉は存在しない。誤用だということです。「侃々諤諤(かんかんがくがく)」「喧々囂々(けんけんごうごう)」を一緒くたにして「喧々諤々(けんけんがくがく)」とやったのと同じ。一生懸命(初めは一所懸命)や誠心誠意(原典では正心誠意)と同じで。
本当は「同文同軌」、で、文字と度量衡(はかりの基準)を統一することで國をまとめた秦の故事に由来するんだと、陳舜臣が書いているそうです。
 これを聞き間違え「グローバル化の先陣(?)」を目指した(?)日本人学者が同文同軌を同文同種と間違って広めたらしい。
 「何となく世界市民って素敵だ!」萌えはこんなところにもあるんですね。


 ただ、余談ですが、笑い事ではない話をひとつ。
 「同文同種」だとしたら、恐ろしいことが起こるそうです。
 「同」を「同じ」、と読んでの、今回の日記ですが、「同」は「同じ」ではなく、「同じくする(同じぅする)」が本当の意味なのだそうです。形容詞的に用いるのではなく動詞的に用いる。「同じく(同じに)」+「する」、で「する」に重点がある。

 ということは、「同じ文化にし、同じ種族にする」、それが「同文同種」の本意。
 ・・・・・だったら、日本は属国となり、民族浄化が為されるということになる。
つまり、男はみんな殺され、女はみんな彼の国の男の妻となって子を産まねばならない。
 さもなくば、男と同じくみんなころ・・・

 ひえ~~~。 

コメント
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