生かして生かされて生きる

日々感じる事 気になる言葉
宗教問わず信仰について考える
ほとんど私用メモ帳化してます

鬼と仏と私と姉歯さん

2006年03月31日 | 信仰関連
鬼子母神は、自分の愛するわ我が子の為、人間の子供をさらっては食べ、自分の子を育てていた。ある日、子供をさらわれた人間の親に相談されたお釈迦さまは、鬼子母神の500人の子供の中の、もっともかわいがっていた一番下の子を、神通力によって隠した。
鬼子母神は、狂ったように嘆き悲しみ世界中を探し回ったが見つからず、ついにお釈迦さまに助けを求めた。お釈迦さまは言った。

「命の大切さと、大事な人をなくし嘆き悲しむつらさは、
人間も鬼神も変わりはない。
今のおまえなら、それがわかるだろう。」
お釈迦さまの教えを受け、改心した鬼子母神は、仏教と子供の守り神となった。



凡夫の私の心には、鬼も仏も住んでいる。
きっかけがあれば鬼が暴れだすし、
きっかけがあれば仏も育つ。

鬼が暴れれば人も傷つける。
はては人の住処も自然も破壊する。
自分も傷つける。


『条件次第では何をするかわからない、あらゆる可能性をいだいている私です。
いい条件をそろえられたら、仏さまも顔負けするほどのこともやってのけますが、
悪い条件をそろえられたら、とても人のやることと思われないようなことさえやりかねない可能性を持っているのです。
しかし、天地いっぱいのハタラキ※の只中に一息一息生かしてもらっている命の尊さに気づいたら、仏の方向に向かずにはおれなくなります。これが大事なことなのです。
命の尊さに目覚めたら、どう生きたらいいのか、生きねばならぬのか、という命の方向づけがおのずからできるということなのでございましょう。』


『おかれている場所はどこでもよい、そこでどう生きるか』
『人生の目的は長生きすることではない、よく生きることだ』
『よく生きるとは、今がよくないと気づかせていただくことだ』

                    (青山俊董著 『仏のいのちを生死する』)

※天地いっぱいのハタラキ→悉有仏性のこと。
                    

ひとつ私がわかったことがある。
自分の中の鬼は追い出そうとしないこと。
よく観察し、仲良くする。
すると、鬼も一緒に道を歩みだす。

すべては仏性のなかにあり、すべては成仏することが出来る。

そういうことと思う。

まだまだ私の鬼は、時々大暴れにつき、注意。・・・反省。


三蔵法師

2006年03月28日 | その他
あまりテレビドラマを観ないのだけれど、一話完結で進む西遊記はだいたい観た。
やはり堺正章さんの西遊記を観た世代は今回も子供と一緒に観た人多いんだろうな。

三蔵法師というのが人の名前ではないことを知ったときにはたまげた。
そして本当は妖艶な夏目雅子さんではなく純朴な深津絵里さんでもなかった。

あの孫悟空のお師匠さんの本当の名前は「玄奘(げんじょう、またはげんぞう)さん【602年-664年】。男性。
般若心経の翻訳者であった。(般若心経に出てくる「観自在菩薩」は玄奘の訳で、法華経に出てくる「観世音菩薩」の訳は鳩摩羅什【同じく漢訳者。350年ー409年頃】となる。訳の違いでもとは同じものを指す。)

んじゃぁ「三蔵法師」って何かと思ったら、調べるといろいろ出てくる。
元々「蔵」とは、仏教に関するさまざまな文献の「集大成」を意味する。
三つの蔵は、「経」「律」「論」があり、
「経」・・・お釈迦さんの教えをまとめたもの
「律」・・・戒律(規則)をまとめたもの
「論」・・・経と律に関する解説および研究をしたもの
まとめて大蔵とも呼ばれるらしい。
この3つに精通した人を三蔵法師と呼ぶそうな。
なので三蔵法師は一人ではなくて、不空金剛さんや鳩摩羅什さんも三蔵法師なわけだけど、持ってきた教典の数や翻訳や旅の功績などから玄奘さんを指すことのほうが多いそうだ。
日本では唯一「三蔵」の称号をいただいたのは、平安時代の僧の霊仙さん(近江出身)。

玄奘さんは中国の唐の貞観3年(629年)冬に天竺(インド)へ向けて長安を出発(当時27歳くらい?記事によって幅がある)。
出発時40人だった同行者も、途中の猛獣、山崩れ、急流など過酷な道のりの過程で一人減り、二人減り、2年後には玄奘ただ一人だったそうで。
「水曜どうでしょう」もびっくりな旅である。
最後は天竺(インド)にたどり着き、長安へ帰ってきたのは645年(43歳くらい?)、日本は大化の改新の時代だ。
往復行程と滞在期間を含めて約16年。片道どれだけかかるのだろう?

中国へ持って帰ってきたのは仏舎利(ぶっしゃり)150粒、仏像8体、教典657部。弘福寺に安置。
テレビドラマの山積みの教典よりももう少し多そう。
元々玄奘さんは旅好きな方のようで、あちこちの旅行記があるようだ。
それらを物語りにしたのが西遊記。著者は呉承恩さん(1584年-1582年)

ちなみに「仏舎利」とはお釈迦さんの遺骨や棺、荼毘に付した際の祭壇の灰などで、遺骨も米粒大に砕かれて皆持ち去り各国各地へ収められている。お寿司のご飯が「シャリ」と呼ばれているのはここが由来。
日本にも仏舎利塔(仏舎利を収める塔)はありますが、世界中の仏舎利全部集めると釈迦一人分ははるかに超えるようで(笑)。そのへんはお釈迦さんへの気持ちで、ということで。


(※資料によって多少違いはありますが、訂正ありましたらいつでもご一報ください。
コメントでのフォローもお待ちしてます。)

ダメージと昇華

2006年03月27日 | 宗教被害・虐待被害関連
児童虐待、精神的被害者のダメージとその回復段階
(フラッシュバック注意)


●ヴィクテム期……犠牲者期
被害を受けた直後で、尊厳や世界への信頼感をことごとく粉砕された状態。
もしくは被害から離れても、被害を受けた自覚が薄く、
加害者の影響に為す術がなく影響されている時期。

●サバイバー期……生存者期
被害を受けた直後の絶望と混乱を生きぬく事ができたけれど、未だ自尊心や信頼感を回復することがままならない。が、回復を望み始めている状態。
被害を受けた自覚が芽生えつつあり、自分が傷を負っていることを認めつつある段階。
怒りと絶望と恨みと悲嘆と恐怖にまみれた化け物のような自分や人間や世界の中で、回復を求めはじめる段階。
このあたりの回復段階によっては、相互扶助的にサポートする事もはじまる。
サバイバーサポーター等。

●ウォーリアー期……戦士期
 自分の傷、傷つけられた相手、自分の現在の状況などを明確に自覚しはじめる段階。
自尊心や信頼感の回復のために、可能な限りのあらゆる手段を講じて、どのような困難と苦難があろうとも立ち向かう意識をもって、現状にあたろうとする状態。
自分に必要なものを認知し、そのために努力できる時期。

●ガーディナー期(又はスライヴ)……園丁期(または花咲く人)
 自分自身の可能性を諦めず、豊かに芽生えさせた時期。自分自身の心の庭を、耕し起こし、肥やしを与え、実り豊かに花開かせ実を結んだ人。
自分に起こった出来事は過去のものとなり、庭には光が降り注いでいる。
自分の受けた被害を昇華し、回復し、豊かな人生を花咲かせた状態。
この状態の人は、かつての自分のような被害者を助けたり、社会活動を行って啓蒙にいそしんだりすることが多い。
              (参考 「家族という名の強制収容所」 )

これらは順番にクリアしていくものでなく、それぞれが少しずつ重なり合ったり、繰り返していきながら、最終段階へ向かう。
急がなくていい。ゆっくり、ゆっくり。

        

 ○『人間ひとりひとりには、たとえ目に見えなくても、

 その人の成熟に向かって

 絶えず前進する力と傾向性が必ず存在する。

 この傾向は、それが適切な心理的風土を与えられた時、

 潜在可能性から、現実性へと足を踏み出す』  (カール・ロジャース


ひとり、ひとりの花を咲かせる。

その力は、一人一人に必ず内在する。




幽霊

2006年03月22日 | 心の話
 とあるご住職から、こんな法話を聞かせていただいた。
実際は法話の前ふりなのだが、これも法話のうちだと思う。
シンプルだけれど、すごく心に残っている。

「幽霊の絵がある。

 幽霊には3つの特徴がある

・おどろがみ。後ろ髪を長く引いている。怨みつらみ、なんともならんことをいつまでも引きずっている。

・手が前のめり。取り越し苦労。行く先を案じて常に不安。

・足がない。今ここに、地に足がついていない。


これが自分の姿と気づかせていただく。

          (青山 俊董)」

この特徴を抑えて描くと、だれでもユーレイの絵が描けるもんだから、すごいと思った。

過去に囚われたり、誰かのせい、何かのせいにして愚痴っている自分。
未来を案じて考えすぎて常に行先不安な自分。
現在、今なすべきことを忘れて心が彷徨っている自分。
まずはそれに気がつくこと。

私も時々足元をみつめて、現実に踏ん張って歩いているか、あらためて意識してみることにする。

もし、夜中に幽霊が出たりなんかしたら、
この話をして、絵でも描きながら一晩語りあってみたいと思う。

菩提

2006年03月22日 | 信仰関連
『お釈迦様の境涯って、そもそもどんな境涯を言うのかって思うんですよね。
それに人が完結することって何?って。

私は人が普通にあることなんじゃないかと思うんですよ。
じゃぁ~普通って何?ってなるんですが、それは人として怒ったり泣いたり、もがいたりしながらも、生を生きるって言うか、どこまでも人の中で生きるってことかと。

やはり人は一人では生きられないってことで、他者に助けられながら、また自分も他者を助けながら、そうやって普通に生きていく営みの連続が、お釈迦様のような境涯であり、何も至れると言う程の難しいことでもないと思うんです。

そういう生き方だったら、多かれ少なかれ皆してることで、時には人を傷つけてしまったり、また逆に傷ついたり、人に喜びを与えたり、与えられたり…仲のいい家族でも、そんな刺激のある連続ではないでしょうか?

飛びぬけて人格的に優れてると思われるような人でも、家族の元では諸々の葛藤があるかもしれないし、嫉妬や憎しみという感情も湧いてくることもあるかもしれない。
でもそれでも、人のために生きてる…それは誰人もだと思うんです。
意識するとしないとにかかわらず、人は自分のため、人のために懸命に生きてる。
これが未完であり、また完結を目指す生き方ではないかと。

お釈迦様に至る生き方というなら、それは今の自分(私ということではなくて)の生活そのものなのだと。
皆がお釈迦様になれる、既になっていると思うほど、シンプルな、ある意味我侭な生き方が、人としての至れる境涯であり、それでもう完結なんだよと、私は思うわけです。

ああ…哲学チックで、知恵の輪のように、言葉にするにはあまりにも……』

(ナウシカさん)