生かして生かされて生きる

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宗教問わず信仰について考える
ほとんど私用メモ帳化してます

原理主義

2005年11月08日 | 信仰関連
原理主義について、原理主義者の精神状況について、精神科の立場から書かれているものがあったのでご紹介。

先に言ってしまうと、原理主義とひとことでいっても、その中には多様な中間領域があること、早急に「何なのか」ということを断定することを避けるように、と書かれています。被害者と同時に加害者を生み、近代へ危機を警告する形として近代が生んだひとつの閉塞的な主義。そして原理主義への抵抗に対する脆弱さ。
未来への展望と可能性。
はっきりいって序章と最終章だけでも濃いので読むのをお勧め。

(一応、原理主義考世俗主義と原理主義の相克を見つけてきたので参考に)

ヴェルナー・フート著「原理主義」より抜粋

「1)原理主義は拒否反応から生じる。原理主義は自己変革や意識改革を伴うが、結局、その背後に不安を隠している。
真の宗教的・人道主義的信仰は、説明できぬものへの畏敬をその特徴としており、現実の奥義を心得ている。これによって世界は、偉大なもの、魅力あるものとされる。
それに対し、原理主義者にとって、現実は単に「自分にとって」意味のあるものへと矮小化される。原理主義者は、秘密を隠さないし、発見もしない。彼らが探し、見つけるのは自分の見解の確認か、その見解に対して不当な手段で戦いを挑む敵なのである。こうして、彼らは異質なものや、自分自身の懐疑をすべて一方的に拒絶する。

2)自分の確信の拠り所を頑丈な基盤の上に置こうとしても、それだけの理由で原理主義者とはならない。もし、頑丈な基盤というものがなければ、どのような確信も存立しえないだろう。それどころか、どのような対話も始まる前にその内部で消滅してしまう。たとえば、完全な懐疑主義者ですら、固い基盤から出発しているのだ。
すなわち、彼らは自分の懐疑と不安感こそが、現実へと接近する唯一の適切な道だという、自己にとってかけがえのない確信から出発している。これは、結局懐疑と矛盾しているとよそ目には見えるのであるが、本人は気づかない。完全な懐疑主義者と原理主義者は、その他の点でも似ている。
彼らの態度は、ある種の自己機能、つまり、拒否的態度に基づいているが、これでは硬直せざるを得ない。彼らの確信は、大体の場合、常識的欲求をはるかに超えた絶対的正しさという要素を有しているのである。

原理主義者と懐疑主義者は、他者に対しても自分の中に浮かんでくる疑念に対しても、対話を拒む。したがって、彼らは主観的には挫折することはない。不安から最終的に脱出し、他の人々には与えられていない確かさの中にいると思い込んでいる。
こうしたことは倫理を欠いているから生じるのではなく、自分自身の声に耳を傾けたり、隣人と密接な関係で出会うことが出来ないから生じるのである。
そしてそれは、一般的にイデオローグや精神病者によくあることである。
精神面や他者との関係においてほとんどの原理主義者が示すこのような欠陥は、他の生活環境、とりわけ日常生活において彼らが示す知性、勤勉、あるいは誠実さを傷つけるものではない。

現実をみだりに混乱させないためにも厳密に区別しなくてはならないが、これらの多様なれべるにおいても共通する定数が一つ存在する。
それは、原理主義者が抱いているアイデンティティ喪失への不安である。
これこそが頑迷さや不寛容の根源であり、彼らが転向者や異なる考えを持つものに対して示すあの熱狂的敵意と非妥協性の源泉である。

実際誰にとって原理主義は危険なのか。原理主義が危険なのは、これを爆弾テロリストや熱狂的暴徒と同一視しないとしても、実は、大抵の場合、原理主義の信奉者自身にとってである。彼らこそ人間なら誰しも持っている、究極的な生き方、あるいは安心感や安定感、つまり確定性に対する憧景が濫用された結果生じる犠牲者なのだ。

原理主義者は、たとえ「神」や他の崇高な言葉を大声で吹聴しているとしても、事実上、世俗的な目標、特に不安の自己防衛や自己中心的な権力要求、あるいは大体の場合、その両者に励んでいる。
不安の防衛が目的の場合、アイデンティティがイデオロギー的に「それはそういうものだ」という単純な言葉で救い出され、その精神バランスが耐えがたい外的矛盾や内的緊張から護られる。
自己中心的な権力要求が目的の場合、「神」は自己目標を完遂するためのツールとして濫用される。したがって、原理主義者は、他者を信頼せず、むしろ操作し支配することを望む。それは、彼らの神への関係が見かけだけの信頼に基づいているのと同じである。

原理主義者とは、他の陣営の視点に立てない人のことである。もし、われわれが原理主義者でないのであれば、少なくとも他者の視点に立とうと努力すべきである。」


カウンセリングと仏教(下)

2005年11月07日 | 信仰関連
~さらに続き~

4)まあ以下は雑談として聞いてほしいんですが、僕がこんなことを考えるようになったのも、例の精神医学や心理学を勉強しはじめてからです。(あんまりしつこくすると、僕がこれに執着してるとお思いでしょう。
たしかにそれは否定できませんね。でも自分の中では自説に執着せずに、色々変化を愉しみたいと思っていられるうちはまだまだ大丈夫かな?・・・やばそうだったら、是非とも忠告してくださいね!・・・笑)、
>>216 >>217で、心の病の最大の病原は「自己の未確立」で、そのため「自他の境界線」が不鮮明になって、自分でコントロールできるもの以外のものをコントロールしようとしはじめ、それがかなわないことで、自分を自分で苦しめるようになるということをお話ししました。

つまり自分の境界線を越えて、自分の力の及ばぬ人やものを何とか動かそう・変えようと思ったり(当然普通はできませんわなぁ)、自分のものにしようと思ったり、いくら考えても結論のでない問題に思い悩んだりすることが「執着」となり、それが心を苦しめるとされているわけです(もちろん苦しみの原因は他にも沢山ありますが)。

要するに「自分のできることは自分の境界線の範囲内(それでもできないこともありますが)」ですよと。
しかも「自分の心のすべては自分でコントロールできませんよ」と、まず認めることが大切なわけです。
そこで初めて「ではどこまでならコントロールできるんだ?」となって、ようやく「自分のできる限界」が分かるわけ。分かれば後は徐々に限界値を高めてゆく努力もできるわけですが、大抵の悩み苦しみ・心の病はその境界線が分からず、闇雲に盲目的に何でもかんでもコントロールしてやろうと「執着」することから発するということですな。

いかに目標が素晴らしくても、自分のありのままの力を知らず、盲目的に目標に到達しようとしてばかりいては、それがなかなかできない自分に苛立ち、自分を責め、苦しみだけをもたらしかねません。往々にして人はその苦しみを「修行」「精神修養」などと称して納得してしまうのですが、それは大抵自己正当化にすぎなかったりします。で、「苦しむこと=自分の成長」に執着し、「苦しまなきゃ成長できない」という思いに囚われてマゾ化したりするわけです(汗)。
自分を知らずに自分をコントロールしようとしても、そりゃ無理ですよ。かけ算を知らない小学生が微積分を勉強して、「なぜ分からないんだ?自分は馬鹿なんだ」と自分を責めているようなことを、「この苦しみも、修行なんだ」っていうのは、さすがに違うでしょ?

まずありのままの自分を知ることではないでしょうかね。これは苦しいですよね。自分のありのままを認め、受け入れるのは、本当に辛いものですよ・・・自分の姿を完全に客観視することなんてそもそも不可能かもしれないとしても、でもそれをまずは目指すことは、大切なのではないでしょうかね?

まず不完全で、良いところも悪いところもある自分をありのままに受け入れて、それを愛し、いたわること。
これらが自我の確立には欠かせません。そうした上で、自分と他人、自分と社会との境界線をしっかり引くこと(自我が確立してないと境界線が引けるはずないですから)ですね。
そして今現時点でできないことと分からないことをしっかり見つめること(できることと分かっていることを見つめることでもありますが)。そして(現時点に限らず一己の人間存在としての)自分にとって不可能なことと今は無理でも将来は可能となりそうなことを見きわめること。

ここまで来たら、まず自分の境界線の中を充実させる・高めてゆくことに専念し(自分でコントロールできる範囲内で欠点を直し、自分の目指す自己像に近づけてゆく)、そんなありのままの自分を大切にして、自分を尊重できれば、謙虚な自信・自尊心もついてきますよね。
その上、自分を真に大切にして尊重できるようになれば、他人も大切にし尊重できるようになってくるし、自分の境界線が引けている人は、他人の境界線も守ることができるし・・・。
そして自分の境界線内を充実させることが進んで、余力が出てきたらはじめて他人に真の優しさが降り注げるようになるんじゃないですかね?

5)以上が精神医学上の、「苦しみ=ありのままの自分を愛せない・自尊心の喪失から、他者やものに愛や自己確認を求める異常な執着心が引き起こす苦しみ」をなくしてゆく第一歩なんです。

で、僕は「お釈迦さんも苦をなくすことを目指した人なら、当然、この精神医学的第一歩の目指すベクトルと違う方向を目指してはいなかったろう。たぶん彼の言う解脱・涅槃というのは、このベクトルの延長線上(はるか?)先にあるのではないだろうかな?」と考えているわけです。

そうなるとお釈迦さんの「悟り」とは「自己の完全客体化」で、そのためには執着(特に我執)があっては、自分を客観的に見つめ、ありのままの自分をそのまま受け入れるなんてできないのではないかと。
当然、精神医学的な心の病克服の第一歩「自分の力の及ばないことと、及ぶことを見分ける」「分からないことを分からないと認める」「できないことをできないと認める」「自分のコントロールできないことを一々考えて悩まない」というのは、彼にとっては大前提だったのではないかと。
そんなことを考えて、「凡我一如」などの形而上学的問題を「分からないと認めた」から、彼は苦から脱する第一歩を踏み出すことができたんじゃないかと思ったのが、そもそも僕の>>219の根本にあるわけです。」


以上、「仏教の源流から」スレッドより抜粋。

心の苦しみを放つという視点から、お釈迦さんの教えをみる。
ご本人は冗談めいたふうにさらりと書かれていますが、
決して安易な考察ではなく、さまざまな文献などから成り立っていると思います。
私自身は非常に参考にさせていただいてます。

カウンセリングと仏教(中)

2005年11月07日 | 信仰関連
~続きです~

僕が勝手に解釈している、釈迦の「凡我一如」「輪廻転生」「来世」などの形而上学的問題に「こだわらない」というのは、彼がそういう形而上学的な真理(「凡我一如」がないとか、来世はないとか)を分かった上で、何も言わなかったり、(その真理に)こだわらなかった=執着しなかったのではなく、「分かろうとしなかった」「考えなかった」「興味を持たなかった(若い頃の彼は、その種の真理を追究しようとしていたでしょうから、「興味が失せた」といいうのが、客観的状態の描写としては適切でしょうが)」――つまり形而上学的真理を求めようとする姿勢を放棄したのではないかという意味です。

そしてそういう生き方・考え方を自然なものとして獲得した時、彼は解脱したのではないかと、僕は思うのです。
つまり「(形而上学的真理について)考えないからこそ、涅槃の境地に至った」のではないかと。
そしてそのことそれ自体が、彼の到達した「真理」だったのではないでしょうか。
要するに彼の悟った真理とは、形而上学的な世界観・宇宙観・生命観ではなく、「苦を滅するに至る心の状態・心のあり方と、その方法論」――すなわち「人間心理の真理」だったのではないかと思うわけです。
要するに、彼は答えを持っていなかった。その必要も感じなかった(感じなくなった)。

なぜなら形而上学的真理真理など、いくら考えたところで分かる(分かったつもりでも、それは証明不能で、自己満足的なものでしかない)ものではない。むしろそんなものを考えることが、かえって人の苦しみの原因になっていることが多いのだと悟ったのではないかと・・・。

分からないものを単純な知的楽しみとして考えるのはまだしも、それ以上に頭を悩まし、ましてやそれが正しいだの間違っているだの、勝ち負けだのにこだわって、苦しんだり人を傷つけたりするに至っては、それこそ下らぬ執着以外の何ものでもないと僕は思うんですよ。百害あって一理なし。
実際当時のインドはそういう争いや葛藤が延々の続いていて、そんな現状を見て、人間釈迦が「真理のあるなし」を考えることがそれこそ煩悩の仕業であり、執着以外の何ものでもないと悟ったと・・・もしもそうだったら僕は釈迦さんを尊敬しますし、僕としては彼がそういう人間であったと信じたいですね。ま、違っても構いませんけど・・・(笑)。

でも、それが僕の想像する、「執着なき心」の人のあるべき姿なんですよ。
ですから>>219で僕が書いた「こだわらない」というのは「考えない」ということで、だから「否定も肯定もしない」よりも、もう少し彼の立場に立って言葉を選べば、彼の心の正直な状態として「否定も肯定もできない(なぜなら彼も分からないのだから)」と言った方がよいでしょう。


3)もっとも・・・はっきり申し上げておきますと、これは僕の「我見」にすぎません。それも「こうなんだ!」と決めつけているわけでもなく、「こうだったらいいなぁ」という希望的観測にすぎないともいえましょう。「もしもお釈迦さんが、僕の思うような人だったら、きっとこうだったんじゃないかな?」という気分です。
それが彼の実際の姿と同じだったか、ただの僕の勘違いなのかは、僕は気にしていません。少なくとも今の僕としては、「僕も(僕が勝手に想像した)お釈迦さんみたいになれたらいいなぁ~」と漠然と考え、また少しずつでも(僕が勝手に想像している)彼の姿に近づきたいなと思っているわけです。
また、たしかに今は漠然と楽しくこのように考えていますが、今後もっと違う目標や、ここで書いたのと違うもっと魅力的な釈迦像と出会えれば――いやいや釈迦に限らず誰でもいいし、また自分の中でもっと素敵な
目標が創造できたらさらに楽しいことでしょう――、その時はまた目標を変えればよいわけですしね。(^^)


でも、初めは茫洋としていて、なにやら色々相互に矛盾している教えもあるような気がして、よく分からなかった初期仏典のお釈迦さんの教えが、こう考えはじめた途端、少なくとも僕の中で、すっきりまとまったのは事実です。あくまで自己満足の世界ですが、なにやら彼が身近に感じられ、彼の頭の中が少しだけ分かるような
気分になってきたような気がするのは、錯覚なのか、気がふれたのか、あるいは果たして自分でも気づかぬ巨大な「執着」の為せるわざなのか?(爆)だからかしら?、Libraさんがご紹介してくれた友岡さんの『ブッダは歩む ブッダは語る』の解釈もすんなり頭に入ってきましたよ(もっとも、「もっと簡単にいえないのかいな?これでは余計分かりにくくしてないかい?」とは思いましたけど)。・・・もちろん、自分の中で勝手に納得しているだけですよ!(^^)

カウンセリングと仏教(上)

2005年11月07日 | 信仰関連
仏教の源流から」スレッドより、
PohさんとLibraさんのやりとりのなかで、仏教とカウンセリング的な役割についてのPohさんの見解。

(一部抜粋させていただきました。全文は直接スレッドをご覧ください。)


「僕の我見は、学術的な裏付けもないし、ただ僕自身でそう納得している。根拠は「ただなんとなく」なので、まずそれを書く前に、学問的(?)な解釈からご説明しておきたいと思います。
①スッタニパータの「我」(アッタン、アートマン)とは、「自我への執着」の意味が強く感じられ、といって その執着とは欲望といった具体的な感情でもなく、人間の奥に存在する漠然&混沌とした「思い」のことのようです。
 そういう人間存在に深く根ざした抽象的な「思い」だからこそ、それに人間は執着し囚われてしまうのだと。
 その中で最も強いのが「我執」で、そういう執着を捨て、超越することがスッタニパータの説く「無我」なわけです。
 簡単に言えば「自分に執着するな」という感じですかな?
 とにかくスッタニパータでは、繰り返し「すべての事物に対する執着を捨てろ」と説かれていますからね。
 ですから、ここでの「我」というのは、ウパニシャドの「アートマン(実在の存在)」とは違った単純名詞的意味の「我」として使われているのではないでしょうかね。
 人間心理の奥に潜み、人間行動を支配する不気味でなにやら得体の知れない「情念」といった雰囲気でしょうか?

②ダンニパダの「我」は、まず最初に自分という存在があるという意味の「我」でしょうか。
 「自己こそが自己の主(あるじ)。自己こそが自己の拠り所」といった風に「我=アッタン」が使用されています。
 その「我」は主体的に考え行動する「自己」で、執着という情念も持ち合わせているわけです。
 そういう主体的自己が人生の様々な経験と思索によって自己否定と自己肯定の狭間で揺れ動き、その中で「自我」を固めてゆくというわけです。そうして確立した「自我」をさらに超越したのが「無我・非我」で、つまり「超克」と言ったら近いかもしれないですね。
 要するに「自己(自我)」の確立を経て、それを超えたところにある心の平安が「無我の境地」という感じかな?

③初期散文教典で新たに加わる「我」の用法は、「私のもの(所有物)」です。
 これは言葉の通りで、「これは私のものではない」という意味で、そのひとつひとつに具体的事物を当てはめて説明しているようです。「自分の子供は自分のものではない」という例だと分かりやすいでしょうか?

別に僕は文献学的にスッタニパータの方が古いとされているから、それが人間釈迦の直説に近く、ダンニパダは変容が加わっているということをいいたかったわけではありません。両教典編纂当時、おそらく編纂者はある意図をもって教典に入れる詩句を選び出したとも思われます。つまり自分たちの教団(?)の教義に即したものや、あるいは経説の裏付けになるような教えの内容の詩句を選んだ可能性が高いということです。
そうでなければ、スッタニパータとダンニパダで「我」の用法が、かくも明確に色分けされないのではないでしょうか?
むろんこれはあくまで仮説です。でも、だからこそ両教典のどちらが古いとか、どの詩句が古いとかいうことではなく、スッタニパータの教えを受けて、あるいはその教えに対抗する意味で、あるいはスッタニパータの教えの足りない部分を
補足したりより深めたり・・・どういった意図かは分からないものの、スッタニパータの何らかの影響を受けてダンニパダが編まれたのではないかという想像は自然なのではないかと思うわけです(例えば、龍樹の空思想が、部派時代の説一切有部による「法有我」「自性」などに対抗して生まれたように)。


で、以下は僕が戯れに考えていることです(詰まらなかったら、ごめんなさい)。根拠は何もなく、ただの想像です。
むろん「見よ!これが思想史的方法だ」などと傲慢なことは思ってませんよ・・・(笑)

僕はどうもダンニパダを編纂した人々は「スッタニパータの無我(我執をすてる)ではまずいぞ」という気分で、あの教典を編纂したのではないかと思うのです。その後の散文教典も同様で、前の2教典を受けてさらに発展させたのではないかと・・・(んなアホな!と思われたら、以下は読まないでくだされ!)


というのは、最近僕は専門に精神医学や心理学を研究している者ですが、その観点から考えた場合、近年最も効果的とされているカウンセリング手法が、まさに上記の①②③の順序になるのです。
精神系の病(除:遺伝子的要因&肉体的要因)の中でも最近特に注目されているアダルト・チルドレン、共依存(それが鬱病、躁鬱、精神分裂を引き起こす第一段階となることが多い)の治療では、まず患者を苦しめている要因は異常な「執着心」に あるとして、我執、金銭・権力への執着、人間関係への執着や、その変形としてのアルコール中毒やワーカホリック、虐待など、人や物への「嗜癖」をまずやめさせることからはじまるわけですが、その中でも最大の問題が「我執」で、これをいかに軽減するかが治療の眼目となるのです。
ところが「我執を捨てる」といわれると、大抵の人が勘違いして、「自我を捨てる」「自分を捨てる」ことだと考えがちです。でも実は正反対。なぜなら「我執」の多くが、自我の不明瞭さが生む意識下の不安感・空虚感の反動として起こるのだから。
だから次にカウンセラーは患者の「自己の確立」を目指すわけです。
で、自己を確立した後であれば、「所有欲」「人や物への異常な執着」も自然に少なくなってゆくというわけですね。

実は僕はこのような精神医学の勉強を始める前から、原始仏教や聖書を読むたびに人間釈迦やイエス・キリストは、もともと当時苦しんでいた様々な人の苦しみをいかに救うか、いかになくしてあげるかという、今でいえばカウンセラーのような発想で人々に教えを説いていたように思っていました。少なくとも人間釈迦生存中は宗教的色合いは薄かったようですし、彼自身ももともと自分の悩み苦しみをなくしたいというところが原点だったわけですし。
彼自身も僕が思うに、若き頃は今でいう典型的なアダルト・チルドレン(→境界例)の悩み苦しみを持っていたようですしね(こんなこと言うと怒られるだろうけど・・・汗)。
キリストの「神による無条件の愛」や「汝、己れを愛しなさい」も、「自己の確立」のために「まずありのままの自分が存在してよいんだと思うこと」「ありのままの自分でよいのだと思うこと」(これが思えないのが、心の病の主たる原因だったりするので)というカウンセリング手法に通じることですし。
ところがその後宗教組織化されると共に教祖の思いはどんどん変形されてゆくというのは、世の東西を問わぬ現象ですが。

で、さらにお遊び気分で、先の①②③を考えると、まずスッタニパータで究極(?)の解脱法として「我執を捨てる=悩み苦しみから脱する」を説いたはよいものの(それ自体は僕個人はまさにその通りだと思いますが)、そうしてみたら とかく宗教組織にありがちなことですが「じゃ、自分を捨てるのね(法の華の「頭とっちゃいましょう」と一緒ですな)」となって、それではかえって自己の確立できないがゆえの盲信(宗教依存症)がはびこってしまい、問題が起こったので ダンニパダが「それじゃ間違った方向にゆきかねん」とばかりに「自我の確立」を説き、さらにその教えを受けて、散文教典などはよりバランスのとれた「無我」の用法をまとめたと・・・ま、こんな推理などはいかがなものかと(笑)。

とりあえず①②③については、僕はこのように勝手に納得してます(もちろんあくまで僕個人の中のみで)。
なので、ちょっと輪廻転生との関連性は、この問題に関しては余り関係づけて考えたことがないのですよ。僕は。(汗)
蛇足ですが、ウパニシャドのアートマンの否定云々に関しては、僕なりには「すべての執着から解放されたお釈迦さんなら絶対そんなこと言及しないだろうな」と、これも勝手に思っています。
当時はそういう形而上問題の論争が活発だったようですが、彼の眼から見ればそれこそ執着でしかないですもの。
彼が本当に一切の執着を捨てた人なら、「アートマンがあろうがなかろうが、常在の物があろうがなかろうが、そんなこと考えても仕方ないし、第一興味がない。そんなこと、どうでもよいわ」でなきゃ、僕としては納得がゆかない。(笑)
彼としても「諸行無常と考えれば、執着はなくなるよ」くらいのことでしかなかったのでは?
・・・あくまで想像ですけどね。(笑)


2005年11月05日 | 信仰関連
人に与えることの出来る施しが3つあるといわれます。
仏教で言われている事だけど、私は宗教宗派を問わず、人の為に施す気持ち、
それが尊いと思う。
何気ない家族のなかで、友人のなかで、ネットのなかで、
感じられるものがある。
ブログでも優しい言葉に満ちた、読むだけで穏やかな気持ちになれるものもありますね。
それだけで施しをいただいています。ありがとう。

・【財施】
そのまま、財を施すこと。個人的には募金なんかも当てはまるのではないかと思う。

・【法施】
説くべき教えを説くこと。いわゆる法話。
人を導いてゆくものなので、重要かと。
仏教では仏陀の言葉だし、キリストさんの言葉なんかもそうなのではないかと思う。

特に宗教にこだわらなくとも、後世に普遍的に残る名言てありますね。
個人的にはそんなのも含めちゃいます。

・【無畏施】
恐怖や畏れなどを取り除くこと。
カルトに傷ついた人々を救う行為、虐待に取り組むボランティアの皆さん、
怖い夢を見た子供の頭をなでる、ハグする、安心を与える、それだけで施し。
心の支えになること。それも無畏施かな。


では、お金が無ければ、伝えるべき法を知らねば、恐れを取り除く力が無ければ、
人へ施しはできないか、そんなことは無く、
「無財の七施」というのがある。

1【眼施(がんせ)】
暖かいまなざしで接するということ。
目は口ほどにものをいうというけれど、ごまかしがきかないので意外と難しいもの、らしい。
暖かい気持ちで接する、慈しみをもって接する、というのが当てはまると思う。
見守る、なんてのもそうかな。
慈眼施(じげんせ)ともいう。

2【和顔施(わげんせ・わがんせ)】
和やかな、穏やかな表情で接すること。朗らかな表情。笑顔をいただく。
自分の機嫌がいいときは出来るけれど、腹が立っている時ほど自分をコントロールし、心がけるべきもの。
マリリン・モンローやリタ・ヘイワーズの微笑みも個人的に魅力的なのだけれど、
「ああ、こういう方の表情が菩薩像とかになったんだなぁ」
と思ったくらいホントにリアル菩薩のまなざしを感じた方が私には今までいる。
顔の造作じゃなくて、心からの慈しみの表情なんですね。
和顔悦色施(わがんえつじきせ)ともいう。

3【愛語施(あいごせ)】
思いやりのある言葉、優しい言葉で接すること。
やってるようでやってない。
特にネットでは文字として現れるから、受け取り方によってはニュアンスがこれまた難しい。
結構学会問題なんか取り組んでいると、殺伐としがちです(自分含む)
言辞施(ごんじせ)ともいう。

4【身施(しんせ)】
自分の体で奉仕すること。自ら進んで他の為に尽くす姿勢が大事だそうです。
ボランティア活動、道端のごみを捨てる、ちょっと体を動かせば出来ることってありますね。

5【心施(しんせ)】
心くばり。相手の立場に立ってものごとを考えること、
相手の喜びを共に喜べること、悲しみや苦しみを自らのものとして感じ取れること。
相手の立場に立っているようで、実は自分の主観でしかないということがしばしばある、ということにも気づいておかねばならないようで。
結局のところ、この「心」無いことには施しも無いのではと思ったりもする。

6【牀座施(しょうざせ)】
席を譲ること。相手に地位や立場を譲ることなども含まれるそうです。
ちなみに私は妊婦さんや子供連れには「どうぞ」と声をかけますが、
年配の方には、黙ってその席を立っていなくなります。
元気で立っているほうを選びたい方がたまにいらっしゃるので、
席だけあけて、座るかどうかは本人にお任せします。

7【房舎施(ぼうしゃせ)】
雨風をしのげる場を提供すること。
相手を傘にさしかける、家の軒をちょいと貸す、なんてのも含まれるそうです。

*呼び名は宗派などによっても違うみたいです。

言ってしまえばなんでも当てはまりそうですが、
こうやってあらためて分類してみると、やっているようでやっていない。
簡単に思える事ほどやっていないんじゃないかしら。
逆に皆さんからいただいていることって、たくさんありますね。

もちろん功徳を求めてやったらそれは施しではないわけで。
微妙に、でも大きく違うみたいです。
(ちなみに私はお坊さんではないので、興味のある方はご自身でも検索されてみてくださいね)