生かして生かされて生きる

日々感じる事 気になる言葉
宗教問わず信仰について考える
ほとんど私用メモ帳化してます

水の分際

2006年05月28日 | 心の話
水のつぶが寄せ合って

ザブザブと波になって

ゆらゆらと水蒸気になって

ふんわりと雲になって

ガラガラと雷と雨と雪になって

さらさらと流れる



清流はやがて小川になり 下流へ向かう

時に本流へながれ 時にあらたな水脈をつくり 時に地下へと消える

ごくごくと飲み水になり

体液になり 血液になり 尿になり 汗になり 涙になり

魚になり 虫になり 草になり 木になり

朝露になり 霜になり 氷になり

洗濯水になり 工業用水になり



川は岩をけずりながら ゴウゴウと流れ

泥も流木もいただきながら ゴウゴウと流れ

大河はおおいに濁り 深く 音も立てずに流れ

川底のまあるい小石達に見送られ

やがては海にかえる



海はかえってくるものを拒まない

深海で眠り 嵐で荒れ命を奪い 育み 

ゆらゆら蜃気楼で人を惑わす 

惑わされるは人間の勝手

水は水のままに



バリアフリー

2006年05月22日 | 信仰関連
何年か前、浄土宗と浄土真宗の違いがよくわからなくて、浄土宗のお寺へ直接聞きに行ったことがある。
幼い頃の他宗に排他的な信仰の影響で、寺に行く事も浄土宗のご住職にお会いするのも本堂の阿弥陀如来像を見るのも初めてな私。
すべては経験。アポイントをとってお寺へGO。

浄土宗のお坊さん初対面。緊張しながらも寄せていただいて、本堂へ案内された。
初めて目の前で見る黄金の阿弥陀如来像。荘厳である。ちょっと感動。
はじめは手を合わせることに抵抗があったものの、偶像信仰ではなく、目に見えない阿弥陀さんの力を昔の人が象徴したのがこの如来像なのだろうと、観察したり、詳しく解説していただいたり、ご住職とお話したりして、帰りに合掌させていただいた。
壁に、すすけて小さな菩薩像が飾ってあり、たずねると、「誰かが寺の前に捨てていったんだよ。何か理由があったのだろうから、ここに安置しているんだよ」とおっしゃっていた。
別の壁には昔のインドの象の絵。
「象の耳に、大きな輪のピアスしてあるだろう?この頃(インド、中国の時代)の仏教徒はよくピアスした絵がある。
今時の若い子が、ピアスやらなんやらで大人は騒ぐけど、こんなに昔にピアスしてるよな。ワッハッハ。」
このご住職は声が大きく、笑い方が実に豪快である。
浄土宗の宗旨や、最近の宗教事情、修行時代のお話なども伺った。


ちなみに伺ったお寺は最新的なバリアフリーを取り入れ、扉は横開き、トイレは洋式で手すりつき、本堂に床暖房。段差もすくなく、年配に優しい設計になっていた。
外観もシンプルな設計で、和風の中に少し洋風なテイストもあり、スタイリッシュなのである。
実はお寺一つ建てるのにものすごく規則があり、建築様式を変えること、段差を無くす事、トイレ一つ洋式にすることさえままならないそうで、バリアフリーでさえ本山にブーブー言われたそうである。
「いわゆる既成仏教というのは、伝統を非常に重んじるし、そういうのも大事なこと。
こうやって新しいものを取り入れるには、本山も檀家も両方すべて説得せにゃならん。大変だったよ。
けど、今までのものを守り抜いて、ばあさんが段差でつまづいたり、トイレでよっこらしょと大変なのもおかしい話だろう?
それは心がバリアフリーじゃない。
半分事後承諾でバリアフリーな寺院にしたさ。
自分はそんな意味で悪人だわ。ワッハッハ。」
古い概念に縛られない大きな精神の方であった。


新興宗教について伺うと
「釈迦が死んでから出来た宗教団体はみんな新興宗教さワッハッハ」
豪快なご住職。他の宗教団体からの影響も聞いてみたが、
「たまに来るよ。邪宗だと文句をいいに来る人も、その教団で悩んだ人も」という事であった。

帰りに、「これからもいろんな事があると思うけれど、
すべて阿弥陀さんのはからいだと思ってみて。」
そうおっしゃってお見送りしていただいた。
なんだか阿弥陀さんに守っていただくような心強さをいただいた。
もしかすると浄土宗のそれより、浄土真宗の感覚なのかもしれない。
日蓮宗で言えばご本尊をいただく感覚だろうか。
いずれにせよ、限りなく「縁起」の世界に生きているのであるということをいただいた。

そして、物理的なバリアフリーだけでなく、精神的なバリアフリーも教わった気がする。まだ完全に把握したわけではないけれど、とても大事なことなんじゃないかと思う。



遊び友達

2006年05月21日 | その他
リハビリセンターで【あそびの実験室】の怠惰猫さん(非学会員さん)とオフ会をした。

怠惰猫さんは毎月何回か通われているそうですが、私がこちらのリハビリセンターへ伺うのは約20年ぶり。
小学生の頃、同級生が事故で片足を欠損し1年ほどリハビリ入所していたため、時おり会いに行ってそこであそんでいた。同級生も他の子達も一緒に、施設内を車椅子で競争して走りぬけたものである。
(もちろん怒られるわけですがwなにせ子供である)
施設へ伺った時、外壁の模様など、とても懐かしく感じた。けれども、中の様子は、もう覚えていなかった。
どこで、車椅子競争したんだっけ?聞くと、かなり改築増築が行われているらしく、さすがに20年前と同じわけではなかった。

私は重度障害の方とはよくお会いしていたものの、実際どういうものなのか、まったくといっていいほど知らない。
今回、ユニバーサルデザインなおもちゃを作るにあたって、どんなものを作ったらいいのか、Mちゃんと遊ぶ時に心がける事はあるのか。
そういうのを知るには、まずは見学するのがもってこいだと思った。

リハビリが始まるまでの時間、一緒に休憩所でご飯を食べ、あそびながらお手製のおもちゃを見せていただいた。
やはり、写真もいいけど実物もとてもいい。インテリアとしてもナイスな色とデザイン。安心して遊んでもらえる機能性。
Mちゃんもお気に入り。遊んでいる時の表情がとてもいい。
私はこの、Mちゃんの屈託のない笑顔と泣き顔と真剣な表情にメロメロなのだ。
そしてMちゃんの好奇心からも学ぶものはとても多いと思う。

リハビリがはじまり、許可をいただいて、隣で見学させていただく。
一つ目のプログラムは、筋肉やすじのストレッチ。私が時折先生に質問すると、とても丁寧に教えてくださった。
Mちゃん、やはり筋伸ばしは痛いのか、シリアスな面持ち。それから歩行器で立つ練習。これはきつそうだった。
二つ目のプログラムは、先生とMちゃんが一緒におもちゃを使って遊ぶ。
先生は、どのおもちゃを使って、何が出来るのか、どんなふうに遊んでいるか、今後何でどのように遊ばせたらいいのかなどなど見ていった。
先生はやさしくかつ鋭く観察してお母さんに意見を促す。
普段の生活などを交えてお母さんは話す。
二人のコミュニケーションしている雰囲気が和やかでとても良かった。
プロほど、技術とかだけでなく、こういう雰囲気つくりが上手なのだろうと思う。

リハビリも終わり、怠惰猫さんとMちゃんにさよならして家に帰る途中、私は百円ショップで材料を物色してみた。
今回教えていただいたアドバイスをもとに、アイデアを組み立てる。この過程も実は楽しい。
家でいくつかおもちゃを作ってみた。
私の色のセンスは微妙だけれど、おもちゃは果たして気に入っていただけるかどうか。
おもちゃつくりのアドバイザーは怠惰猫さん、そして誰よりも先生はMちゃんなのである。
また会えるのを楽しみにしている。




(当時の足欠損の事故について、当時の私の周りの創価学会員は、その同級生の親が神社に交通安全祈願に行った仏罰だと話していた。そして小学生の私は周りの大人に頼まれて、この(足切断に至る)「仏罰」と(私が事故に遭わなかったのは学会の)「功徳」という話を、創価会館で大勢の大人や子供の前で体験発表した。
今考えると、とんでもないと思う。
今でも時々病気や怪我や障害などを「”悪い事”が起こるのは学会の教えに背いてるせい」と信じる学会員さんの声を聞く。実際そういう風に指導されているようだ。(脱会するとゾウリムシに生まれ変わるらしい)
功徳と罰に関しては他の宗教団体(エホバ、統一教会など)でも似たような事を時々耳にする。そして創価学会では今、創価学会に背くある方に罰を与える題目をあげているらしい。
”その組織に都合のいい”功徳と罰の概念。方便としてあるのはわからなくもないけど、人を不幸とかに決め付けるこの教えや考え方には賛同できない。)

宗教の復権

2006年05月17日 | 創価学会問題
「宗教の復権」~グローバリゼーション・カルト論争・ナショナリズム~(中野毅著。2002年9月初版)
(第一部・グローバリゼーション、宗教的ナショナリズム、原理主義。第二部カルト/セクト論争とナショナリズム)(著者のサイトでも一部考察が拝見できました)

学会問題を考える時、創価学会の本の中に、外部サイドの私からみて、(学会員さんに)読むのをお勧めしたくない本もあれば(たいてい絶版になっているらしいが)、友岡さんの本のように読んでみたほうがいいと思う本もある。

この本はいきなり題名もセンセーショナル(人によってはラディカルに感じる部分)かもしれないですが、カルト・セクトと日本でも海外でも話題にあがるいくつかの団体について、創価大学の研究者の方が”創価学会も含めて”カルト側、反カルト側の両方を検証、考察されている。
そういう意味ではカルト問題、原理主義問題に前向きと言える本。
ナショナリズムグローバリゼーションもカルトの展望も、理論だけで実践が伴わない限りは手放しでは賛同できないものの、著書では多元主義も視野に入れてバランスはとられていると思う。
被害者問題にはあえて触れずに「マクロの視点」ということですが、広い視野での考察は今の出来事をみる一つの考え方として知ってみるのもいいと思う。

また、アンチサイド、カルト問題に関心のある方も今後の批判姿勢を問うのに読んでみるといいと思う。
宗教が個人の生き方だけでなく政教分離といえども国や政治に与える影響というのは実際少なくないと思っているので、宗教に関して無関心でいるのもよろしくないと思っているし、また宗教に対して偏見だけでもよくないと思う。
宗教に関しては私もいろんな視点のほしいところでもあったりする。

また、あとがきより気になったところを一部引用。
今まで被害が出ていても一部の学会員さんから「個人の問題、組織には関係ない。トラブルなんて起こしてナンボ」で済まされていた部分が、団体、信者個人としてのあり方と反カルトのあり方を問う形で述べられている。これらの声が末端信者の盲信されている方にも届いて迷惑行為が減ってほしいと願うし、外部側も批判にあたって心がけるものでもあると思う。

・『この自由で多元的な社会を是とする立場からの方法的視座は、やはり文化相対主義に近い立場であると考える。
端的にいえば、 「自由や人権などの価値観も、特定の歴史と伝統を有する具体的社会における産物であり、相対的な価値でしかない。
社会や文化が異なれば、真理や価値も異なってくる」 という認識である。』

・『「自由は個人の内面の自由のみでなく、外的行為として表現されるものであり、共同行為を求めることもある。
その際大切な事は、自分の自由を追求することが、他者の自由を奪ってはならないし、他者の自由を内的にも外的にも保障することと両立しなければならない」と。
そしてこの基準は、個人にも、宗教教団やその他の社会集団にも、また強制的な権力を持つ政府や国家になによりも要請される。』


・『他者の自由や人権を侵害するような行為は、たとえ信仰の名のもとにおいても許されない。
この他者には、当該宗教団体に属する者も、属さないものもふくまれる。』

・『当の社会が許容する範囲においてしか自由は認められず、現行法規に違反する犯罪は裁かれなければならない。
しかし、社会一般がみとめる自由を逸脱した場合でも、直ちに法的な規制を加えよ、新たな法律を制定して取り締まれという議論は、問題をふまえる必要がある(後半に記述あり)。』

・『自由主義社会では、たとえ逸脱と見える信仰内容であっても、その信仰による外的行為が他者の自由や権利を侵害しない限り、需要していくことが求められる。』

・『宗教集団にあたっては、集団外の諸個人や、集団内の信徒個人の自由や権利を侵害していないか、常にチェックしていくことが必要である。
一般社会も、その監視が集団ヒステリー現象や社会的リンチにならないよう、自己抑制が必要である。特にマスメディアが発達した社会では、メディアによるラベリングが過度の抑圧状況を容易に生み出す危険性があることを前提として対応しなければならない。』

・『この見解に対してもさまざまな批判や異論もあることと思うが、多くの関係者や研究者との論議をとおして、さらに深めていきたいと念願している。』


文中に桜井教授、それから島薗進教授などのお名前も見受けられた。
 「カルトを問い直す」など、カルト問題に関連する書籍もみてみるといいと思う。




私の近くの学会員さん

2006年05月15日 | 創価学会問題
先日知り合いの学会員さん(2世)と会ってお話をしてきた。

世間話を交えつつも、主な話は創価学会の現在の問題(学会内部外部にトラブルや被害が生まれることなど)と、
2世3世問題、虐待問題(主にネグレクトや信仰の強制)、
盲信による精神的な諸問題などである。

お互いの体験や知識を持って意見を交わすことが出来、
また一部の学会員さんのよろしくない行為もお互い把握しているので、
対立のようなものもなく、私も人格攻撃を受ける事も無く、
ゆったり美味しく食事をしつつ、とても深く有意義な時間を過ごす事が出来た。

この方の場合は学会に在籍されているもののあまり信心深い方ではないが、
信心深い方の学会の罰論の囚われようやトラブルの深刻さもとても冷静かつ客観的に捉えられていて、
内部改善に努めて下さっている方でもある。
(だから幹部にはならないし誘われない、とも話していた。組織はいまだ批判を受け入れる事には不寛容なのかしら)
少なくとも問題を棚上げして己の御利益を求める事はしていない。

うちの亡くなった盲信学会母のように、
創価学会員が(末端であれ、それなりの役職であれ)善意の名の元に押し付けがましい行為やトラブルをおこすパターンは今でも起こっているのも事実だし、
問題を棚上げにしたまま組織の権威や名誉にしか目が行かない人がいるのも事実なのだけれど、
すぐに私達が一つの結論を出して解決出来る問題ばかりでもないので(お互いの間では納得できたものもある)、
とりあえず、「学会員さんとそういった話し合いがスムーズに出来た」、というだけでもとてもいい事だと思う。

今後もいろんな形でお会いして話し合いが出来ればと思う。

ひとりでも宗教で苦しむ人が出なくなればいいと思う。
また苦しんだ方がやがて立ち上がれますように。