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生かして生かされて生きる

日々感じる事 気になる言葉
宗教問わず信仰について考える
ほとんど私用メモ帳化してます

理性を超えるもの

2007年09月25日 | 信仰関連

パスカルはこうも言っている。

理性の最後の歩みは、理性を超えるものが無限にあるということを認めることにある。
それを知るところまで行かなければ、理性は弱いものでしかない。

ただし、気を付けよう。
これは理性を徹底的に行使し、理性によってとらえられる限界までものごとを追求することを前提として述べられているのである。
その上で、理性は自らの限界を認め、限界を超える領域については、心情のはたらきにゆだねる
―― これこそ、すぐれて理性的行為と言うべきだろう。
警戒すべきはむしろ「理性を排除すること」と「理性しか認めないこと」という「二つの行き過ぎ」である。 』

戸口 民也 エッセー より「信仰と理性」

心は、知、情、意でできている。
いずれも欠かすことなく、バランスが大事だ。
正誤、善悪ばかりに囚われていると、見えなくなるものがあるよ。



師を得る

2007年04月19日 | 信仰関連
 
   行道は導師の正と邪とによるべきか。
   機は良材の如く、師は工匠に似たり。
   縦(たと)い良材たりといえども、
   良工を得ざれば綺麗未だ現れず。
   縦い曲木といえども、
   もし好手に遭わば妙功忽(たちま)ち現る。
        (中略)

   正師を得ざれば学ばざるに如かず
 
     (道元。学道用心集)


たとえ材料がすばらしくとも、
腕のない大工に出会ったら、
せっかくの良材も台無しにしてしまう。
逆に材料がどんなに節だらけで曲がっていても、
腕のある大工に出会う事が出来たら、
節を生かし曲がりを生かしてくれる。
  
人生も正しい師を得ることができなかったら
一生を台無しにされてしまうから
むしろ学ばないほうがいい、とおおせられる。


正師であるか否かを見分けるというのは
見分ける目を持たない学人の側にあるという点が、もう一つ問題だ。
「私は正師だ」とうそぶく人ほど近寄らないほうがいい人であり
正師と呼ぶにふさわしい人ほど
自分の至らなさを知って限りなく控えめで謙虚な人だから。」
(青山俊董老師)
 

わが身かわいさ

2007年02月21日 | 信仰関連
 
和尚さんに「誰しも自分が一番かわいいもんさ」
と言われ、はてそうなのかな、と思った。

自分をなにより優先させるなんて、とんでもないエゴイストじゃないのか?
自分のことより相手の立場を考える事こそが尊いことなのじゃないのか?

「例えば集合写真をとる。写真をもらってまず最初に皆がすることは、”自分を探す事”だ。
目をつむったとか、角度が悪いとか、化粧のノリが悪いとか、前の人にかくれちゃったとか、自分の写り具合を気にする。
自分の写り具合が悪かったりすると、その写真自体の価値も感じなくなってしまうこともあるだろう」

それもそうだ。
何より自分を優先させている時は、その自分に気がついていない。
なのに、「自分のことより相手の立場を」なんていっていることのほうがむしろおこがましいかも、と思った。

誰しも、わが身が一番かわいい。
そんな自分を自覚すればこそ、自然に謙虚にもなれるのだろう。
なかなか自覚できず、なかなか謙虚になれない。
そんな自分が、相手のことも考えさせていただく。

和尚さんの言いたかった事は、そういうことではないか。

キリストの十字架も、そういう自分を忘れないでおく意味があるのだと思う。



history of religion.

2007年01月07日 | 信仰関連
【世界の宗教の発展の歴史と分布図】

”宗教の地理学は世紀に、どのように発展しているか、
そして、それはどこに戦争を引き起こしたのか、
この地図は世界の最もよく知られている宗教
【キリスト教、イスラム教、ヒンズー教、仏教、ユダヤ教】
に関する小史を私たちに与えてくれます。
また、宗教間の流血の選択された期間は強調されます。
90秒で5,000年の宗教を見たいですか?
準備ができたら、セットして、行ってらっしゃい!”

キリスト教、イスラム教の原点ユダヤ教4000年の歴史が一番古いと思っていたら、
ヒンズー教が5000年の歴史だったとは。


理論と感情

2007年01月05日 | 信仰関連
 
謹賀新年

仏法は道理と言われる。
道理は、人間の勝手な理屈でも任侠でも人情でもなく、
釈迦の理法にそっているかどうかだ。
その道理は、どこかひとつの国や宗教団体やグループに括られるものではない。

仏教は、他の宗教のようにまったく学びなどなく実践・体得することから入ってもいいし、
理論から入っても非常に理に叶っている、つまりとても合理的・理知的だったりもする。
いずれでも道理に叶いさえすれば、目指すところは一つ。
真理は広大無尽で普遍的なもの。

感情は常に変化する、無常なもの。
くすぶる怒り、とまらない悲しみは、他人をどうこうするものではなく、
自分の中でいかに消化・昇華してゆくか、なのだ。
怒りや悲しみの対象を追いかけて責め続けていても、いつまでも消えることはない。
こちら仏教から教わる苦しい感情対策・実践法。

チベット仏教ゲシェ・ソナム・リンチェン老師の教えから そのいち  そのに

仏教聖典より釈迦の言葉抜粋。
 「わたしをののしった わたしを笑った 
  わたしを打ったと思う者には 怨みは鎮まることがない。
  怨みは怨みによって鎮まらない。
  怨みを忘れて はじめて怨みは鎮まる。

  屋根のふき方の悪い家に 雨が漏るように
  よく修めていない心に 貪りのおもいがさしこむ。
  怠るのは死の道 努め励むのは生の道である。
  愚かな人は怠り 智慧ある人は努め励む。
  弓矢を作る人が 矢を削ってまっすぐにするように
  賢い人は その心を正しくする。

  心は抑え難く 軽くたち騒いでととのえ難い。
  この心をととのえてこそ 安らかさが得られる。
  怨みを抱く人のなすことよりも かたきのなす悪よりも
  この心は 人に悪事をなす。
  この心を 貪りから守り 瞋りから守り 
  あらゆる悪事から守る人に
  まことの安らかさが得られる。 」


生まれてこのかた雨漏りの家からスタートの私は、
人の心も自分の心も、抑え難く、ととのえ難いものならば
実践もなかなか得難いものだと最初に覚悟しておく。
見直しは何度でもきくのだから、少しずつ、少しずつととのえる。

急がず、怠らず、いつでも、何度でも、お釈迦さんの教えに帰ろう。