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生かして生かされて生きる

日々感じる事 気になる言葉
宗教問わず信仰について考える
ほとんど私用メモ帳化してます

宗教とは

2005年10月06日 | 信仰関連
小学一年生に

「宗教って何?」と聞かれたら、あなたはなんと答えますか?

同じように、幼稚園児に、小学6年生に、中学2年生に、高校三年生に、
一般社会人に聞かれたら、なんと答えますか?

悩んでいる人に聞かれたら

悩んでいない人に聞かれたら

死にそうな人に聞かれたら

好きな人に聞かれたら

嫌いな人に聞かれたら

もしあなたの信仰している宗教があったとして、
別の宗教を信仰している人や、信仰をしていない人はなんと答えるか、知っていますか?
また、なんと答えると思いますか?





マザーテレサ

2005年10月04日 | 信仰関連
マザーテレサは人の死を看取るとき、自分の信仰を押し付けるような真似はしていない。
その方の宗教を聞き、

キリスト教徒にはキリスト教の祈りを、

ヒンズー教徒にはヒンズー教の祈りを、

仏教徒には仏教の祈りを、

イスラム教徒にはイスラム教の祈りを、

それぞれ捧げたという。

彼女の与えたものは、とても大きいものだと思う。

病まなければ

2005年09月30日 | 信仰関連
病まなければ ささげ得ない祈りがあり

病まなければ 信じえない奇跡があり

病まなければ 聞きえない 御言葉があり

病まなければ 近づきえない 聖所があり

病まなければ 仰ぎえない 御顔があり

おお 病まなければ 私は人間でさえもありえない

病まなければ 感謝の微笑さえ 捧げ得なかった

(河野 進さん 牧師)

病んで初めて得るものがある

病んで始めて知るありがたみがある

蓮華

2005年09月29日 | 信仰関連
『高原陸地に蓮華生ぜず

卑湿汚泥にこの花を生ず』

      「維摩経」


泥多ければ 仏大なり

蓮華は綺麗な真水では育たない。泥の多い、じめじめした場所にこそ、あの美しい花を咲かせるのである。

乾ききった驕慢な心からも、
汚れを知らない純粋なだけの心からも、
人生の味わいや香りは 生まれぬのかもしれません。

私たちのこころの中にも、驕慢な心が潜んでいます。
他人の都合より、自分の都合を優先させる利己性も心の奥に巣食っているようです。
人を恨んだり、妬んだり、自分の気に入らぬからといって怒ったりする自分を、自分の中に発見する事も少なくないように思います。

それらは、自分の中にたまった泥、己の泥かもしれません。
それは決して誇るものではなく、むしろ恥ずべきものでしょう。
しかし、その泥にこそ、美しい花を咲かせることができるのではないでしょうか。
自分に深い泥があるから、他人の泥がわかる。
自分の中に弱く愚かな心があるから、そしてそれを知っているからこそ、
他人の弱さや愚かさを暖かく包む事が出来るのではないでしょうか。

(太田久紀さん 唯識学者)

「泥を嫌ったら花は咲かないんだよ。
苦しみや悲しみや、迷いや煩悩を否定したら、悟りもないんだよ。
泥や苦しみや迷いを逃げてどこかへという姿勢である限り、
永久に流転を続けるのみで、落ちつき場所はどこにもないんだよ。
そのことがいかなることであろうと、逃げず追わず、姿勢を正し、腰を入れて立ち向かっていきなされ。」

「次に大事な事は、泥が大切であり、泥がなければ花は咲かないけれど、
泥イコール花ではない。泥はどこまでいっても泥であって花ではない。
というこの点である。

泥を消化し、昇華して、質的大転換をして花を咲かせなければならないのである。」

(青山俊薫さん)

散り際

2005年09月28日 | 信仰関連
『汝すでに末期なり


我もゆき人もゆく


ただこれ一生は


夢の如く幻の如し    喝(かつ)』

(By一休和尚 山名宗全(戦国武将1404~1473)への言葉)

死期を迎えるとき、あなたは何を想い、何を憂うだろう。