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生かして生かされて生きる

日々感じる事 気になる言葉
宗教問わず信仰について考える
ほとんど私用メモ帳化してます

無明

2005年09月28日 | 信仰関連
「病はその苦しみにおいて比較することは出来ないが、
蓮如上人は人間の一番恐ろしい病は『無明業障の病』だといわれる。
この病の恐ろしさは、病気にかかっているという自覚がないことである。
病気の自覚がないうちに、どんどん病は進行してしまう。
近年マインドコントロールという言葉が日本中を席巻したが
無明業障の病を現代の言葉で置き換えるなら、さしずめ「マインドコントロール」にあたるのではないのだろうか。
・・・
特定の宗教団体が生み出した言葉ではない。
現代における信仰のほとんどは、実は信仰という名のマインドコントロール、
つまり「無明業障の病」といえまいか。
信仰は本来、真実の教えに照らされ、その現実に目覚め、なにものにもとらわれることなく生きてゆくことである。
・・・
無明業障の病は、人間におけるもっとも深く不幸な病である。」

(真宗のご住職さんの北陸中日新聞の一部掲載のものより抜粋。)

自分自身を、更には組織を、地域や世界の出来事を、
地球も宇宙の時代の移り変わりをも、自分自身のことと受け止めつつ、
覚めた目で見るということが出来るならば、
それはとても大事なことであって、
創価学会の中でもこれが出来ている方は、
先々いい学会にしてゆく方々であろうと思います。
ものの価値観は日本各国、世界各国、宗教それぞれに違うけれど、
学会対何か、というより、世界中にある信仰と信仰する気持ちの、
本来向かうところはそう変わりはないはずではないでしょうか。
人間の追い求めるものは、いったいなんでしょう。

2005年09月27日 | 信仰関連

『人間の罪をひとつひとつかぞえていたら、

地上には何億という人間がいるので、

閻魔さんの帳面にはつけきれまい。


人生にとって大切なのは、

人の罪をかぞえたてることではなく、

その罪をゆるし、

罪をおかさざるをえない人間存在を背負ってゆくことである。』

(中野東禅さん著「死んで生きる」より)

正しい信とは

2005年09月27日 | 信仰関連
『茅(かや)をつかみそこぬれば

その手を傷つくるごとく

あやまれる求道は

破滅に導く』   (法句経)



野山を走りまわってふと転びそうになったとき、
思わずつかんだ草が茅であったとき、その手を傷つけるように、
まちがった信仰、間違った教えについてしまったら、
その人生を、さらには家族をもとりかえしのつかないところへ追い込んでしまうから、
心して正しい宗教に、正しい教えを説く人に従いなさい。

その宗教が正信か迷信かを見分けるものさしはいくつもあろう。
第一に、正しい宗教は、科学を超えるもの、あるいは科学を包み込むものであるが、
科学に反するものではない。
あまりにも非科学的、反科学的なことを言う宗教は迷信と考えてよいと思う。

第二には、無所得、無条件ですべてをいだきとってくださるのが、本当の神、仏というものである。
お詣りの仕方のいい悪いや、お供えの多少によって功徳に増減があったり、
その宗教にとって不都合なことをすると「罰があたる」という形でおびやかしにかかるものは、正しい宗教ではない。

第三には、人間社会という共同体の調和をこわしてゆくようなあり方を強制するのは、やはり本当の宗教ではない。

正しい宗教とはきわめて常識的、健康的なものである。
宗教というのは、たった一つしかない命を託するものなのである。
「念には念を入れ」、冷静な目で選んでゆかねば、と思うことである。

(青山俊董さん著「人生に山水あり、道心あり」より)