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生かして生かされて生きる

日々感じる事 気になる言葉
宗教問わず信仰について考える
ほとんど私用メモ帳化してます

善意

2005年10月23日 | 信仰関連
「善意は大切です。
しかし忘れてはならないことは、
一方が善意と思ってしたことが、
必ずしも相手の望むところではないこともあるということ、
善意の押し付けをしないこと、
そして相手の善意のくい違いに対して、
いつも理解と許しを心に用意しておくことでしょう。」


(「心のともしび」より一部抜粋)
http://www.tomoshibi.or.jp/radio/july2005/11.html

祈願とごはん

2005年10月20日 | 信仰関連

どんなに真心込めてお米を砥いだあと、
「ご飯が炊けますように」と祈ろうが、
炊飯ジャーのスイッチを自分で入れなければ、
ご飯は炊けないわけです。

スイッチを入れたら、
「おいしく炊けますように」と祈れば、
祈った分だけ多少はおいしく感じられるかもしれません。
その「祈る気持ち」
それが食べ物をおいしく味わえる秘訣だったりします。

今日だけ変にやわらかご飯が炊けたら、
それは炊飯ジャーのせいではありません。
水加減を自分が誤ったのです。

米がおいしいご飯になるのは、一見不思議で奇跡のようですが、奇跡ではありません。
でもうれしいもんです。

そして「今日も炊飯ジャー、お米を作った皆さん、
お茶碗を作った方、その他もろもろ関ってくださったすべてのものへ、
おいしいご飯をありがとう。
またおいしいご飯がたべられますように」
と、感謝の祈りを捧げるわけです。

おおまかにいうと、
この祈りの捧げ先がキリストになるとキリスト教、
あらゆるものに捧げると仏教になるかと。

ああコシヒカリ。うま。

餓鬼

2005年10月20日 | 信仰関連
多くの仏教では「施餓鬼会」(せがきえ)というものが行われる。
中国の唐の時代に盛んになり、日本では平安時代の初めから行われる様になったらしい。

六道(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天)のうちの一つの餓鬼は、
どんなに食べ物が身近にあふれていても、
食べ物を口に運ぶと、炎となって口にいれることができない。
そんな状態に陥った世界、またはそんな状態に陥った心の状態の様子をあらわす。

今の食べ物や物の溢れた時代に、食べるものに困った状態、空腹に苦しむ状態も含まれるかもしれないけれど、食事や物のありがたみがわからない、そんな状態も含まれるんじゃないかと思う。
「いただきます、ごちそうさまでした」が言えるということは、
実はとても有難いことなのだ。
残す、ということは、実はとっても罰当たりなことなのだ。・・・・ごめんなさい。



そんなわけで、物の有り難味を実感し、餓鬼の状態に陥った状態から少しでも救おうと、この会が行われる。
段を作り、食べ物を備え、供養の経を唱え、餓鬼についての説明がなされたりして、
餓鬼、餓鬼に陥った者を少しでも救おうとする。
餓鬼に対しての慈しみの行いだ。
(普段から餓鬼含むすべてのものへ慈悲を施す経典は読まれたり、
供物をそえられたりされていますが、特別に餓鬼にスポットを当てる日です。
また、真宗ではすべてが極楽行き決定なので、施餓鬼会は行わないそうです。)

ひょっとすると、この「他のものに供物を差し出す」という行いそのものが、
自らの中にある餓鬼を救い昇華させているかもしれない。
それを見込んで供養したらなんにもならないわけだけど。

ところが、時々人は、人を差し、「あいつは餓鬼道に落ちたのだ」
と嘲り笑うのにこの名前を使用する。
あいつは地獄の状態だ、餓鬼だ修羅だ畜生だ、と、人を嘲り、見下す。
その行為はいったい、どういう心の状態なのだろう。
その時、その相手を救う概念はないのだろうか。
救われるべきは、そんな人たちなのかもしれない。

そんな方たちにも、なにかしら施しはできるはずである。

寛容へ

2005年10月14日 | 信仰関連
仏教根本聖典(主にスッタニパータ)より(昔チョンガーさんに教えていただきました)


【固執から寛容へ】

最高であると考え、自己の見解にこだわり、一人の人が、
この世で、最善のものと評価するとき、
すべて他の見解は、
これより「劣っている」とかれは言う。
それ故、かれは論争をやめられない。

すぐれた者たちが束縛とよぶ見解、
それを拠りどころとして、
他のものは劣っていると、人は見放す。
それ故、比丘は、
見たこと、聞いたこと、考えたこと、
あるいは、戒と誓戒に依存すべきではない。

智慧や戒や誓戒によって、世間において、
一つの見解を形成してはならない。
自分を、他人を等しいと示すべきではない。
劣っている、あるいは、優れている、
と考えてはならない。

すでに得た見解を捨て、
再びそれを得ようとせず、
かれは、学識にも依存しない。
かれは実に見解の違う者たちの中にありて、
どの党派にも従うことはない。
かれはどの見解をも信じない。

【不妄語】

人が生まれし時に、
確かに口の中には、斧が生じている。
愚かな者は悪口を吐き、
その斧によって、己を切りさくのである。

自分を苦しめず、
他人を害しない言葉のみを語れ。
その言葉のみが、
よく説かれた言葉である。

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むかしむかしの、釈迦の言葉。
なかなかいいこと、いってるでしょ?


2005年10月08日 | 信仰関連
魔とは

第一  貪欲である
第二  不歓喜
第三  飢渇寒熱等
第四  愛着
第五  睡眠(これは普通の眠るというよりも、むしろ眠りの中に引きずり込まれるという意味)
第六  恐怖
第七  狐疑惑
第八  瞋に(怒りや憤怒)
第九  競利(名利を争う)
第十  愚痴、無知
第十一 自己を非常に高くあげる驕慢(きょうまん)
最後に 他人をそしること
番外  官能的誘惑 権力

人間の権力欲、ことに生死にかかわる恐怖は普遍的無意識の一番底にあるようなもの。

また、ユング心理学では「影」にあたると思われる。
影が出てくると、人間の意識が変わったり、人格がかわったようになる。
激怒したとき、われを忘れてむちゃくちゃやってしまうとき、言ってはならないことを言ってしまうような場合は、
「影の働きが自我の働きよりも強くなっている場合」である。
影=煩悩か、というと、非常によく似ているが、人によって現れ方、また程度や生かし方が違うので、やみくもにあてはめるものでもないようです。

われわれの影の部分というのは排除されるべきものではなくて、
変われるわけでしょう。
そのあたりも意識を広げて、影を組み込んでいって、
最終的なところにまでいたるということ、
つまり、自己の顕現にいたるということですね。

(川田洋一さん 河合隼雄さん 参考「人間の深層にひそむもの」河合隼雄著)

魔とは無意識の時にあらわれる。自分はその瞬間気がつかない。
人のそれを探すものではなく、自分の心の中にそれがないか照らし合わせるものでしょう。
難しいことです。人の欲望は、すぐ人の魔を探し出そうとします。
なかなか私もできません。

~追記(10月9日)~

「カゲ -陰と影- 」

陰は表面にでいていない部分。
自分自身と全く一身同体。
お陰様と言う。
自分だけでなく一身同体なとなってなっている
すべてのもの人、自分自身に思いをはせる。感謝の言葉。

影は自分の映し出されたもののひとつ。
光によってその姿カタチがかわる。
自分が動けばそれにあわせて影も動くが、それをどう見るか
どこから光を当てるかで全く違ったものになる。
ある光でできる影だけに満足して、別の光でできる自分の
影を直視しない。都合のいい自分しか認めない。
或いはそんな評価いらないよ、オレはオレ、
自分は自分だから他は関係ないっていう。
ピーターパンの恐ろしさだ。

影は食いちぎられたんだっけね。
あとで縫い合わせてもらってよかったね。

歩さん

佐藤 康さんのピーターパンを読む