~さらに続き~
4)まあ以下は雑談として聞いてほしいんですが、僕がこんなことを考えるようになったのも、例の精神医学や心理学を勉強しはじめてからです。(あんまりしつこくすると、僕がこれに執着してるとお思いでしょう。
たしかにそれは否定できませんね。でも自分の中では自説に執着せずに、色々変化を愉しみたいと思っていられるうちはまだまだ大丈夫かな?・・・やばそうだったら、是非とも忠告してくださいね!・・・笑)、
>>216 >>217で、心の病の最大の病原は「自己の未確立」で、そのため「自他の境界線」が不鮮明になって、自分でコントロールできるもの以外のものをコントロールしようとしはじめ、それがかなわないことで、自分を自分で苦しめるようになるということをお話ししました。
つまり自分の境界線を越えて、自分の力の及ばぬ人やものを何とか動かそう・変えようと思ったり(当然普通はできませんわなぁ)、自分のものにしようと思ったり、いくら考えても結論のでない問題に思い悩んだりすることが「執着」となり、それが心を苦しめるとされているわけです(もちろん苦しみの原因は他にも沢山ありますが)。
要するに「自分のできることは自分の境界線の範囲内(それでもできないこともありますが)」ですよと。
しかも「自分の心のすべては自分でコントロールできませんよ」と、まず認めることが大切なわけです。
そこで初めて「ではどこまでならコントロールできるんだ?」となって、ようやく「自分のできる限界」が分かるわけ。分かれば後は徐々に限界値を高めてゆく努力もできるわけですが、大抵の悩み苦しみ・心の病はその境界線が分からず、闇雲に盲目的に何でもかんでもコントロールしてやろうと「執着」することから発するということですな。
いかに目標が素晴らしくても、自分のありのままの力を知らず、盲目的に目標に到達しようとしてばかりいては、それがなかなかできない自分に苛立ち、自分を責め、苦しみだけをもたらしかねません。往々にして人はその苦しみを「修行」「精神修養」などと称して納得してしまうのですが、それは大抵自己正当化にすぎなかったりします。で、「苦しむこと=自分の成長」に執着し、「苦しまなきゃ成長できない」という思いに囚われてマゾ化したりするわけです(汗)。
自分を知らずに自分をコントロールしようとしても、そりゃ無理ですよ。かけ算を知らない小学生が微積分を勉強して、「なぜ分からないんだ?自分は馬鹿なんだ」と自分を責めているようなことを、「この苦しみも、修行なんだ」っていうのは、さすがに違うでしょ?
まずありのままの自分を知ることではないでしょうかね。これは苦しいですよね。自分のありのままを認め、受け入れるのは、本当に辛いものですよ・・・自分の姿を完全に客観視することなんてそもそも不可能かもしれないとしても、でもそれをまずは目指すことは、大切なのではないでしょうかね?
まず不完全で、良いところも悪いところもある自分をありのままに受け入れて、それを愛し、いたわること。
これらが自我の確立には欠かせません。そうした上で、自分と他人、自分と社会との境界線をしっかり引くこと(自我が確立してないと境界線が引けるはずないですから)ですね。
そして今現時点でできないことと分からないことをしっかり見つめること(できることと分かっていることを見つめることでもありますが)。そして(現時点に限らず一己の人間存在としての)自分にとって不可能なことと今は無理でも将来は可能となりそうなことを見きわめること。
ここまで来たら、まず自分の境界線の中を充実させる・高めてゆくことに専念し(自分でコントロールできる範囲内で欠点を直し、自分の目指す自己像に近づけてゆく)、そんなありのままの自分を大切にして、自分を尊重できれば、謙虚な自信・自尊心もついてきますよね。
その上、自分を真に大切にして尊重できるようになれば、他人も大切にし尊重できるようになってくるし、自分の境界線が引けている人は、他人の境界線も守ることができるし・・・。
そして自分の境界線内を充実させることが進んで、余力が出てきたらはじめて他人に真の優しさが降り注げるようになるんじゃないですかね?
5)以上が精神医学上の、「苦しみ=ありのままの自分を愛せない・自尊心の喪失から、他者やものに愛や自己確認を求める異常な執着心が引き起こす苦しみ」をなくしてゆく第一歩なんです。
で、僕は「お釈迦さんも苦をなくすことを目指した人なら、当然、この精神医学的第一歩の目指すベクトルと違う方向を目指してはいなかったろう。たぶん彼の言う解脱・涅槃というのは、このベクトルの延長線上(はるか?)先にあるのではないだろうかな?」と考えているわけです。
そうなるとお釈迦さんの「悟り」とは「自己の完全客体化」で、そのためには執着(特に我執)があっては、自分を客観的に見つめ、ありのままの自分をそのまま受け入れるなんてできないのではないかと。
当然、精神医学的な心の病克服の第一歩「自分の力の及ばないことと、及ぶことを見分ける」「分からないことを分からないと認める」「できないことをできないと認める」「自分のコントロールできないことを一々考えて悩まない」というのは、彼にとっては大前提だったのではないかと。
そんなことを考えて、「凡我一如」などの形而上学的問題を「分からないと認めた」から、彼は苦から脱する第一歩を踏み出すことができたんじゃないかと思ったのが、そもそも僕の>>219の根本にあるわけです。」
以上、「仏教の源流から」スレッドより抜粋。
心の苦しみを放つという視点から、お釈迦さんの教えをみる。
ご本人は冗談めいたふうにさらりと書かれていますが、
決して安易な考察ではなく、さまざまな文献などから成り立っていると思います。
私自身は非常に参考にさせていただいてます。
4)まあ以下は雑談として聞いてほしいんですが、僕がこんなことを考えるようになったのも、例の精神医学や心理学を勉強しはじめてからです。(あんまりしつこくすると、僕がこれに執着してるとお思いでしょう。
たしかにそれは否定できませんね。でも自分の中では自説に執着せずに、色々変化を愉しみたいと思っていられるうちはまだまだ大丈夫かな?・・・やばそうだったら、是非とも忠告してくださいね!・・・笑)、
>>216 >>217で、心の病の最大の病原は「自己の未確立」で、そのため「自他の境界線」が不鮮明になって、自分でコントロールできるもの以外のものをコントロールしようとしはじめ、それがかなわないことで、自分を自分で苦しめるようになるということをお話ししました。
つまり自分の境界線を越えて、自分の力の及ばぬ人やものを何とか動かそう・変えようと思ったり(当然普通はできませんわなぁ)、自分のものにしようと思ったり、いくら考えても結論のでない問題に思い悩んだりすることが「執着」となり、それが心を苦しめるとされているわけです(もちろん苦しみの原因は他にも沢山ありますが)。
要するに「自分のできることは自分の境界線の範囲内(それでもできないこともありますが)」ですよと。
しかも「自分の心のすべては自分でコントロールできませんよ」と、まず認めることが大切なわけです。
そこで初めて「ではどこまでならコントロールできるんだ?」となって、ようやく「自分のできる限界」が分かるわけ。分かれば後は徐々に限界値を高めてゆく努力もできるわけですが、大抵の悩み苦しみ・心の病はその境界線が分からず、闇雲に盲目的に何でもかんでもコントロールしてやろうと「執着」することから発するということですな。
いかに目標が素晴らしくても、自分のありのままの力を知らず、盲目的に目標に到達しようとしてばかりいては、それがなかなかできない自分に苛立ち、自分を責め、苦しみだけをもたらしかねません。往々にして人はその苦しみを「修行」「精神修養」などと称して納得してしまうのですが、それは大抵自己正当化にすぎなかったりします。で、「苦しむこと=自分の成長」に執着し、「苦しまなきゃ成長できない」という思いに囚われてマゾ化したりするわけです(汗)。
自分を知らずに自分をコントロールしようとしても、そりゃ無理ですよ。かけ算を知らない小学生が微積分を勉強して、「なぜ分からないんだ?自分は馬鹿なんだ」と自分を責めているようなことを、「この苦しみも、修行なんだ」っていうのは、さすがに違うでしょ?
まずありのままの自分を知ることではないでしょうかね。これは苦しいですよね。自分のありのままを認め、受け入れるのは、本当に辛いものですよ・・・自分の姿を完全に客観視することなんてそもそも不可能かもしれないとしても、でもそれをまずは目指すことは、大切なのではないでしょうかね?
まず不完全で、良いところも悪いところもある自分をありのままに受け入れて、それを愛し、いたわること。
これらが自我の確立には欠かせません。そうした上で、自分と他人、自分と社会との境界線をしっかり引くこと(自我が確立してないと境界線が引けるはずないですから)ですね。
そして今現時点でできないことと分からないことをしっかり見つめること(できることと分かっていることを見つめることでもありますが)。そして(現時点に限らず一己の人間存在としての)自分にとって不可能なことと今は無理でも将来は可能となりそうなことを見きわめること。
ここまで来たら、まず自分の境界線の中を充実させる・高めてゆくことに専念し(自分でコントロールできる範囲内で欠点を直し、自分の目指す自己像に近づけてゆく)、そんなありのままの自分を大切にして、自分を尊重できれば、謙虚な自信・自尊心もついてきますよね。
その上、自分を真に大切にして尊重できるようになれば、他人も大切にし尊重できるようになってくるし、自分の境界線が引けている人は、他人の境界線も守ることができるし・・・。
そして自分の境界線内を充実させることが進んで、余力が出てきたらはじめて他人に真の優しさが降り注げるようになるんじゃないですかね?
5)以上が精神医学上の、「苦しみ=ありのままの自分を愛せない・自尊心の喪失から、他者やものに愛や自己確認を求める異常な執着心が引き起こす苦しみ」をなくしてゆく第一歩なんです。
で、僕は「お釈迦さんも苦をなくすことを目指した人なら、当然、この精神医学的第一歩の目指すベクトルと違う方向を目指してはいなかったろう。たぶん彼の言う解脱・涅槃というのは、このベクトルの延長線上(はるか?)先にあるのではないだろうかな?」と考えているわけです。
そうなるとお釈迦さんの「悟り」とは「自己の完全客体化」で、そのためには執着(特に我執)があっては、自分を客観的に見つめ、ありのままの自分をそのまま受け入れるなんてできないのではないかと。
当然、精神医学的な心の病克服の第一歩「自分の力の及ばないことと、及ぶことを見分ける」「分からないことを分からないと認める」「できないことをできないと認める」「自分のコントロールできないことを一々考えて悩まない」というのは、彼にとっては大前提だったのではないかと。
そんなことを考えて、「凡我一如」などの形而上学的問題を「分からないと認めた」から、彼は苦から脱する第一歩を踏み出すことができたんじゃないかと思ったのが、そもそも僕の>>219の根本にあるわけです。」
以上、「仏教の源流から」スレッドより抜粋。
心の苦しみを放つという視点から、お釈迦さんの教えをみる。
ご本人は冗談めいたふうにさらりと書かれていますが、
決して安易な考察ではなく、さまざまな文献などから成り立っていると思います。
私自身は非常に参考にさせていただいてます。