『お釈迦様の境涯って、そもそもどんな境涯を言うのかって思うんですよね。
それに人が完結することって何?って。
私は人が普通にあることなんじゃないかと思うんですよ。
じゃぁ~普通って何?ってなるんですが、それは人として怒ったり泣いたり、もがいたりしながらも、生を生きるって言うか、どこまでも人の中で生きるってことかと。
やはり人は一人では生きられないってことで、他者に助けられながら、また自分も他者を助けながら、そうやって普通に生きていく営みの連続が、お釈迦様のような境涯であり、何も至れると言う程の難しいことでもないと思うんです。
そういう生き方だったら、多かれ少なかれ皆してることで、時には人を傷つけてしまったり、また逆に傷ついたり、人に喜びを与えたり、与えられたり…仲のいい家族でも、そんな刺激のある連続ではないでしょうか?
飛びぬけて人格的に優れてると思われるような人でも、家族の元では諸々の葛藤があるかもしれないし、嫉妬や憎しみという感情も湧いてくることもあるかもしれない。
でもそれでも、人のために生きてる…それは誰人もだと思うんです。
意識するとしないとにかかわらず、人は自分のため、人のために懸命に生きてる。
これが未完であり、また完結を目指す生き方ではないかと。
お釈迦様に至る生き方というなら、それは今の自分(私ということではなくて)の生活そのものなのだと。
皆がお釈迦様になれる、既になっていると思うほど、シンプルな、ある意味我侭な生き方が、人としての至れる境涯であり、それでもう完結なんだよと、私は思うわけです。
ああ…哲学チックで、知恵の輪のように、言葉にするにはあまりにも……』
(ナウシカさん)
それに人が完結することって何?って。
私は人が普通にあることなんじゃないかと思うんですよ。
じゃぁ~普通って何?ってなるんですが、それは人として怒ったり泣いたり、もがいたりしながらも、生を生きるって言うか、どこまでも人の中で生きるってことかと。
やはり人は一人では生きられないってことで、他者に助けられながら、また自分も他者を助けながら、そうやって普通に生きていく営みの連続が、お釈迦様のような境涯であり、何も至れると言う程の難しいことでもないと思うんです。
そういう生き方だったら、多かれ少なかれ皆してることで、時には人を傷つけてしまったり、また逆に傷ついたり、人に喜びを与えたり、与えられたり…仲のいい家族でも、そんな刺激のある連続ではないでしょうか?
飛びぬけて人格的に優れてると思われるような人でも、家族の元では諸々の葛藤があるかもしれないし、嫉妬や憎しみという感情も湧いてくることもあるかもしれない。
でもそれでも、人のために生きてる…それは誰人もだと思うんです。
意識するとしないとにかかわらず、人は自分のため、人のために懸命に生きてる。
これが未完であり、また完結を目指す生き方ではないかと。
お釈迦様に至る生き方というなら、それは今の自分(私ということではなくて)の生活そのものなのだと。
皆がお釈迦様になれる、既になっていると思うほど、シンプルな、ある意味我侭な生き方が、人としての至れる境涯であり、それでもう完結なんだよと、私は思うわけです。
ああ…哲学チックで、知恵の輪のように、言葉にするにはあまりにも……』
(ナウシカさん)