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生かして生かされて生きる

日々感じる事 気になる言葉
宗教問わず信仰について考える
ほとんど私用メモ帳化してます

聖書とダヴィンチ

2006年06月23日 | 信仰関連
 MSNビデオより
ダヴィンチスペシャル

~禁断の聖書~

『エジプトの洞窟から発見された『ユダの福音書』の驚くべき内容とは?物議を醸したダン・ブラウンの名作『ダ・ヴィンチ・コード』で展開される仮説の真否とは?自らの絵画に秘密の鍵を隠したとされるダ・ヴィンチに関するエピソードとともに、キリストやテンプル騎士団などにまつわる謎を様々な角度から紐解いていきます。 』(見出しより)
3分前後で区切りがあります。

他にも

~ダヴィンチとモナリザの声を復元~
二人とも、しゃべってます。

(おそらく閲覧期限があると思います)


クリスチャンである友人は、自称エセクリスチャンといいつつも、けっこうドキドキしながら観たらしい。
友人曰く
「キリスト教のポイントは、キリストが死んで3日後に復活するところにある。
なぜなら、そこがキリスト教の奇跡となる部分。
そこがなければ、キリスト教の信仰が成り立たない」

その説が正しいかどうかはともかく、
言ってみれば、奇跡というのは、宗教のご利益の部分。
”その信仰の力で、なぜかわからなくとも、見えない何かの力で、とてもラッキー、ハッピーなことが起こる”
祈りが通じる、という。
それを信仰する事のメリットにもなる。
御利益を信じてきた信仰者にとっては信じたくも無い「キリスト人間説」なのかもしれない。

そして、御利益や奇跡がない宗教なら、その宗教は信仰の価値がないのだろうか?
御利益や奇跡、それだけが信仰の価値というわけでもないと思う。

と、ここまで書いて追記。
奇跡やご利益も、必ずしも否定するものではないと思っている。
どうしたって、ひとは求める。
それが生活や心を豊かにするのであれば、おおいに構わないと思う。

私も、何かに感謝したいほどの出来事に、しばしば出くわす。
世界中の何かに、ありがとうと伝えたくなる。




バリアフリー

2006年05月22日 | 信仰関連
何年か前、浄土宗と浄土真宗の違いがよくわからなくて、浄土宗のお寺へ直接聞きに行ったことがある。
幼い頃の他宗に排他的な信仰の影響で、寺に行く事も浄土宗のご住職にお会いするのも本堂の阿弥陀如来像を見るのも初めてな私。
すべては経験。アポイントをとってお寺へGO。

浄土宗のお坊さん初対面。緊張しながらも寄せていただいて、本堂へ案内された。
初めて目の前で見る黄金の阿弥陀如来像。荘厳である。ちょっと感動。
はじめは手を合わせることに抵抗があったものの、偶像信仰ではなく、目に見えない阿弥陀さんの力を昔の人が象徴したのがこの如来像なのだろうと、観察したり、詳しく解説していただいたり、ご住職とお話したりして、帰りに合掌させていただいた。
壁に、すすけて小さな菩薩像が飾ってあり、たずねると、「誰かが寺の前に捨てていったんだよ。何か理由があったのだろうから、ここに安置しているんだよ」とおっしゃっていた。
別の壁には昔のインドの象の絵。
「象の耳に、大きな輪のピアスしてあるだろう?この頃(インド、中国の時代)の仏教徒はよくピアスした絵がある。
今時の若い子が、ピアスやらなんやらで大人は騒ぐけど、こんなに昔にピアスしてるよな。ワッハッハ。」
このご住職は声が大きく、笑い方が実に豪快である。
浄土宗の宗旨や、最近の宗教事情、修行時代のお話なども伺った。


ちなみに伺ったお寺は最新的なバリアフリーを取り入れ、扉は横開き、トイレは洋式で手すりつき、本堂に床暖房。段差もすくなく、年配に優しい設計になっていた。
外観もシンプルな設計で、和風の中に少し洋風なテイストもあり、スタイリッシュなのである。
実はお寺一つ建てるのにものすごく規則があり、建築様式を変えること、段差を無くす事、トイレ一つ洋式にすることさえままならないそうで、バリアフリーでさえ本山にブーブー言われたそうである。
「いわゆる既成仏教というのは、伝統を非常に重んじるし、そういうのも大事なこと。
こうやって新しいものを取り入れるには、本山も檀家も両方すべて説得せにゃならん。大変だったよ。
けど、今までのものを守り抜いて、ばあさんが段差でつまづいたり、トイレでよっこらしょと大変なのもおかしい話だろう?
それは心がバリアフリーじゃない。
半分事後承諾でバリアフリーな寺院にしたさ。
自分はそんな意味で悪人だわ。ワッハッハ。」
古い概念に縛られない大きな精神の方であった。


新興宗教について伺うと
「釈迦が死んでから出来た宗教団体はみんな新興宗教さワッハッハ」
豪快なご住職。他の宗教団体からの影響も聞いてみたが、
「たまに来るよ。邪宗だと文句をいいに来る人も、その教団で悩んだ人も」という事であった。

帰りに、「これからもいろんな事があると思うけれど、
すべて阿弥陀さんのはからいだと思ってみて。」
そうおっしゃってお見送りしていただいた。
なんだか阿弥陀さんに守っていただくような心強さをいただいた。
もしかすると浄土宗のそれより、浄土真宗の感覚なのかもしれない。
日蓮宗で言えばご本尊をいただく感覚だろうか。
いずれにせよ、限りなく「縁起」の世界に生きているのであるということをいただいた。

そして、物理的なバリアフリーだけでなく、精神的なバリアフリーも教わった気がする。まだ完全に把握したわけではないけれど、とても大事なことなんじゃないかと思う。



マザーテレサ2

2006年04月28日 | 信仰関連
 『大切なことは

  遠くにある人や

  大きなことではなく

  目の前にある人に対して

  愛を持って接することです』



 『一緒に住んでいたり

  または血のつながった親族といった人たちに

  ほほえみかけることは

  あまり親しくない人々に対して

  ほほえみかけるよりも

  むずかしい時があるものです。

 ≪愛は一緒近きより≫ということを

  忘れないようにしましょう。』



 『祈りは”願いごと”ではありません。

  祈りとは自分自身を神のみ手の中に置き、

  そのなさるままにお任せし、

  私たちの心の深みに語りかけられる神のみ声を

  聴くことなのです。』

              (マザーテレサ 素敵な祈りより)


「愛」を「慈悲」に、「神」を「仏性」や「阿弥陀」にしても十分通用する。

宗教の枠組みを超え心に響くマザーテレサの行いと言葉は、これからも後世に語られる事だろう。


誕生日

2006年04月08日 | 信仰関連
今日4月8日は お釈迦さん の誕生日。


ハッピーバースデー ブッダ  

多くのお寺や仏教系の国や団体ではお釈迦さんの誕生を祝うイベントが行われている。

・釈迦誕生日を休祝日としている国(地域)
インド インドネシア 韓国 カンボジア シンガポール スリランカ タイ ネパール バングラデシュ 香港[中国] マカオ[中国] ミャンマー 他

仏生迦毘羅-ぶっしょうかびら(カピラヴァストゥ出身で)
成道摩褐陀-じょうどうまかだ(マカダ国で成道し)
説法波羅奈-せっぽうはらな(ハラナ国鹿野苑から広くこの世に説法し)
入滅拘緻羅-にゅうめつくちら(クチラ国にて入滅した)

ちなみにお産場所は、母親が里帰りの途中、途中で産気づいてルンビニ(藍毘尼)という花園で出産だった。
(ネパールの西部タライ盆地にある小さな村)

生まれてすぐに「天上天下唯我独尊」と話した、というのが有名。
(この世界で、○一人一人がそれぞれに尊い ×自分だけが尊い)

実はお釈迦さんの名前は「ゴータマ・シッダルダ」。
「ブッダ」とは、悟りを開いた人、という意味。
「釈迦」は、実はサンスクリット語の釈迦牟尼(シャーキャムニ)で、釈迦族の聖者という意味。

私の幼い頃は、釈迦が実在の方とは知らず、神や想像の人物のような印象でした。
いたんですねぇ。
何千年も時を経てなお人気の方です。

鬼と仏と私と姉歯さん

2006年03月31日 | 信仰関連
鬼子母神は、自分の愛するわ我が子の為、人間の子供をさらっては食べ、自分の子を育てていた。ある日、子供をさらわれた人間の親に相談されたお釈迦さまは、鬼子母神の500人の子供の中の、もっともかわいがっていた一番下の子を、神通力によって隠した。
鬼子母神は、狂ったように嘆き悲しみ世界中を探し回ったが見つからず、ついにお釈迦さまに助けを求めた。お釈迦さまは言った。

「命の大切さと、大事な人をなくし嘆き悲しむつらさは、
人間も鬼神も変わりはない。
今のおまえなら、それがわかるだろう。」
お釈迦さまの教えを受け、改心した鬼子母神は、仏教と子供の守り神となった。



凡夫の私の心には、鬼も仏も住んでいる。
きっかけがあれば鬼が暴れだすし、
きっかけがあれば仏も育つ。

鬼が暴れれば人も傷つける。
はては人の住処も自然も破壊する。
自分も傷つける。


『条件次第では何をするかわからない、あらゆる可能性をいだいている私です。
いい条件をそろえられたら、仏さまも顔負けするほどのこともやってのけますが、
悪い条件をそろえられたら、とても人のやることと思われないようなことさえやりかねない可能性を持っているのです。
しかし、天地いっぱいのハタラキ※の只中に一息一息生かしてもらっている命の尊さに気づいたら、仏の方向に向かずにはおれなくなります。これが大事なことなのです。
命の尊さに目覚めたら、どう生きたらいいのか、生きねばならぬのか、という命の方向づけがおのずからできるということなのでございましょう。』


『おかれている場所はどこでもよい、そこでどう生きるか』
『人生の目的は長生きすることではない、よく生きることだ』
『よく生きるとは、今がよくないと気づかせていただくことだ』

                    (青山俊董著 『仏のいのちを生死する』)

※天地いっぱいのハタラキ→悉有仏性のこと。
                    

ひとつ私がわかったことがある。
自分の中の鬼は追い出そうとしないこと。
よく観察し、仲良くする。
すると、鬼も一緒に道を歩みだす。

すべては仏性のなかにあり、すべては成仏することが出来る。

そういうことと思う。

まだまだ私の鬼は、時々大暴れにつき、注意。・・・反省。