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生かして生かされて生きる

日々感じる事 気になる言葉
宗教問わず信仰について考える
ほとんど私用メモ帳化してます

青山老師

2006年10月11日 | 信仰関連

青山俊董老師の言葉
紹介文

●「宗教なんて大嫌いだ、人間が作ったものに縛られるか、」という方に対して。
「宗教は人間が作ったものではありません。人間が見つけ出そうと出すまいとにかかわらず、行われている天地悠久の真理です。
そのことに、気づき、目覚め、その中で私どものいのちは、このように生かされている。だから、こう生きていこうじゃないかと教えられた。それが宗教というものであって、誰かが作り出したものではありません。
ないものから作り出したというのなら、どんなにお釈迦様がご立派であっても、あるいはキリスト様がご立派でも、二千五百年前という、二千年前という時代的制約、あるいは、インドとか、イスラエルという地理的制約から、一歩も出ることはできなかったでしょう。
誰かが見つけ出そうと見つけ出すまいとに関わらず、発見しようとしないとにかかわらず、行われている天地悠久の真理そのものが「宗教」の一番の元になっているのです
。」

●「人生という土俵にあって、我々はとかく負け状態になるとダウンしてしまいがちです。そういう人は逆に勝ったとき、高慢になります。高慢になるのと劣等感で落ち込むのとは、同じ心の構造の裏表ですから、勝って奢らない修行、負けて落ち込まない修行の方が、勝ち負けの技を磨くよりもっと取り組みがいのある人生修行と申せましょう。(略)
「負けるが勝ち」といいますけれど、負けることができるというのは、精神的に大人でなければできません。(略)これは心が柔らかで、大きくなければ出来ることではありません
。(略)
小人にとって大切なことは私のメンツであり、従って勝ち負けが大問題なのですが、精神的に円熟した大人にとって問題なのは、そのことが是か非かであって、私が勝つか負けるかなどということはどうでも良いことなのです。」

●仏道でいう善悪は超時代・超国境性を備えるもの
「立場が変わると善悪が逆転するような善悪は、ほんとうの善でも悪でもない。時と所を超え、立場を超えて変わらぬものがほんとうの善であり悪であるべきものです。
私どもの善悪はどこまでも自分の都合中心で、そこを良寛様は「人間の是非一夢の中」とおっしゃり、道元禅師は、凡情や凡眼でみたり考えたりしてはならない、とお示しになりました。(略)
お金や名誉、役に立つとか立たぬとか、そういうものさしを当ててつまるとかつまらんとかいう序列をつけるのが、凡眼であり凡情なのです。凡眼凡情では、計算に合うこと、名誉になることが価値あることとされます。そのようなことをはなばなしくやるのは誰にだって出来ることです。」

●「生き甲斐を持つ」ということについて
(女性タクシードライバー曰く)「私、少しでもじっとしているのがいやなんです。とにかく身体を動かして働くことがたのしいので、朝晩、それから日曜には畑仕事をやり、その合間を縫ってタクシーの運転手にも傭ってもらっているんですよ。毎日がとても生き甲斐があって、たのしいです」(略)
(老師曰く)「身体を張ってバリバリと仕事に取り組む、そのことから生き甲斐をちょうだいして、いきいきと生きることは素晴らしいことだけれど、それだけを生き甲斐としていたら、動けなくなったとき、目も当てられないほどみじめになりますよ。
身体を張って仕事をする、結果がどんどん出る。子どもを育てる。野菜作りをする。やっただけは正直に答えが出て、たのしく、やりがいもあるでしょう。
けれども、ほんとうの生き甲斐や人生の取り組みというのはね、気に入ったことだけに向かって、身体を張って剃れと取り組むということだけに生き甲斐や喜びを感ずるのではなく、病気になったら、病気に取り組み、寝たきりになったら寝たきりという、今ここの一歩にいのちがけで取り組むことをもって生き甲斐とする、というのでなければ本物じゃないのよ。
夢中になって働き、働くことにのみ生き甲斐を感じていた人ほど、病気になったとき、はたらけなくなったとき、一気に生き甲斐を失い、虚脱したようになってしまいがちですからね

身体を動かすことによって生き甲斐を感ずることの方が楽なことなのです。(略)
ほんとうの生き方、ほんとうの生き甲斐というのは、自分に与えられたそのことが、我が心にかなうことか、かなわなぬことかを問うことなく、今出会っているそのことを、全力を尽くしてつとめあげる、そういう生き方自身よりいただくというものでなければなりません。(略)
「こうなったら幸せ」という条件付ではなく、「どうなっても幸せ」という在り方とは何なのか、を心にきちんといただいておかないといけないと思うことです。」

●慢心を戒める
「仏教の深層心理学「唯識」の権威であられる太田久紀先生は「慢の心所のやっかいなのは、慢心を克服したと想う瞬間、慢心を克服したという慢心が起こる」と語っておられます。(略)
ことわざに「自慢高慢馬鹿のうち」などというのがあったり、驕慢、我慢、増上慢、傲慢、慢心など、慢の字のつく言葉は多くあります。(略)
「慢」は、「他の人と自分とを比較して、自分を少しでも高く位置づけようとする心の働き」をいい、「あいつに比べておれのほうがえらいと思う」心で、「相手を意識すること自体が狂いの元」だとおっしゃっています。その心の深みには「おれが」という我が身可愛い思いが毒蛇のようにとぐろをまいていることを、するどく指摘されておるのです。」

●「いつのまにか仏教というもの、お経というものが、生きた人にはお尻を向け、亡くなった人に向かって読むもの、読んでいる人自身も分からぬようなお経を、呪文めいて読むのがお経のような錯覚を覚えてしまっていることは、残念なことでございます。(略)
どう生きるべきかを問う、人生の道しるべとして読むのがお経であり、今日の私の生きる姿勢の乱れをただす鏡として読むのがお経でなくてはならないのです。死んでからの話ではないのです。」

●一大事(生死)への心構え
「「寝たきりは、本人も大変、看病する方も大変だから、できたら私はコロッと逝きたいです。」という言葉が出てきました。
そこで私はこう云いました。「それは誰しもの願いだけれど、いくら頼んでみても祈ってみても、寝たきりになるかも知れない。どうなるかわからないことを祈ることよりも、もっと大切なことは、いまここの生き方、死に方に、条件をつけないということです。いくら条件をつけたって、その通りになりはしないんだから。(略)」
人生全部、健康も病気も、失敗も成功も、天気も雨も、平等に揃っているのが人生の道具立て。その中で、人間だけが勝手に、失敗はかなわない、病気はかなわない、いい方だけ欲しいと願うわけですが、それは身勝手な話ですね。大事なことは、降っても良し、やんでもよし、寝たきりでもよし、いっさい条件をつけない。あくまで無条件で受けて立ちましょうという覚悟が決まることです。この生き様を私の好きな句で言い換えますと、「投げられたところで起きるかな」ということになりましょうか。(略)
寝たきりになったら、寝たきりを修行する。逃げずにまっすぐに、寝たきりを受けて立ちましょう。寝たきりになってみなければわからない人生の姿を、見せてもらいましょう。味合わせてもらいましょう、と腰を据える。失敗してみなきゃわからないその世界、病んでみなきゃわからないその世界を積極的に学ばせていただきましょうという姿勢。」

真理は一つ、切り口の違いで争わぬ

●僧のあるべき姿
「『法輪転ずるところ食輪転ず』といってな、坊さんは仏法を学び、それを一つでも二つでも実践し、また人々にお伝えする。そのことだけを考えていれば、自分が食べてゆくこと、生活してゆくことなど考えなくとも、自然に授かるものなんだよ。』」

この尼僧さんの自分への厳しさは半端でない。
私はこの方の言葉とまなざしとその振る舞いにいつも自分の愚かさをいつも知らされっぱなしなのだ。

参考サイト孫文侍の世界より

松原泰道老師

2006年10月11日 | 信仰関連

松原泰道老師の言葉
南無の会

●「純粋度を保つためにも、他の宗教思想を理解する寛容性を失うのは、その宗教の自殺行為に等しいでしょう。
純粋と寛容という相反する性格を、より高い場で統一するのが望ましい宗教性だと思うのです。
このことはけっして容易ではありませんが、一つの宗教・宗派を信ずる人は、他の宗教・宗派の思想を家挙に学ぶことにより、自分の信ずる教義が深められるのは事実です。(略)これも業縁のはたらきです。」

●「『餓鬼』は、飢渇で悩むとともに、飢渇が満たされてもなお満足しない欲求不満をいいます。
それどころか、満たされていることに言いようのないいらだたしさを持つ人のことで、現代語のガメツイ・イライラ・ギスギスといった一連のカタカナで象徴される心情が餓鬼です。(略)
人の好意を好意として受け取れず、すべてを悪意に受け取り、真実と反対に理解して自分も苦しみ、他者をも苦しめる自我意識の強い人のことです。(略)
餓鬼は『足るをことを知らない』心情です。
すると、餓鬼の苦から救われるためには、『足ることを知る』叡智を身につけることです。(略)欲望追求は文明を生みましたが、足ることを知る叡智は文化を生みます。」

●「禅の指導者である師家が相手の修行者の程度をはかって、それに相応した説法をすることを対機説法といいます。(略)
現代の教育にはこの「対機説法」の精神がかけているように思えます。
人間は指紋が異なっているように、機根(個性)もそれぞれ違います。
それを掘り起こし、発揮させることが指導者には求められているのです。
機根は誰にでも備わっている能力ですが、しかしそれを発揮する「機会」に恵まれなければ、眠ったままです。
その機会のことを、仏教では「機縁」といいます。『機縁』とは、仏の教えを受ける人間の能力(機)と、教えようとする仏の願いが出会うことです。」


●「自力・他力という考え方があります。仏法の大海の中の生け簀(人間)を外から見れば、仏に抱かれている、仏に生かされている、ということで他力になります。いっぽう生け簀の内側にも仏法は内在するという点にアクセントを置いてみれば、自力になる。しかし、他力も自力も、同じ仏の力であることに変わりはありません。
私は、他力と自力を区別して考えるのは間違っていると思います。それは、『仏力』を、外から見るか中からみるかの違いでしかないからです。仏教の根本は『縁起』の思想です。釈尊は、『すべてのものや事柄は、無数の原因と無数の縁が、相互にかかわり合う上にもかかわり合って生じ、成り立つのである。他と関係無しに、そのものだけで、自分だけで孤立しうるものは、この世には何一つない』と言っています。仏教には、独力という発想はありません。およそこの世にあるもので、他と無関係に存在できるものは何一つとしてない以上、『自力』か『他力』かと分けて考えることは、あまり意味がないのです。」

●「人は、一生の間だれしもが自殺を考えるもので、それは人生の通過駅の一つとも言えるでしょうが、近年はその時点が早まっています。こんなときはピントのあった励ましが人を自殺から救うのです。相手とピントを合わせるには、それまでと違ったさまざまな角度で接してみれば、必ず心の通じ合う角度が発見できるでしょう。相手の持つ美点を見つけて、推賞し励ますことです。小沢有作先生が「生きることを励ますのが教育だ」とおっしゃっていますが、至言だと存じます。」

「正しい宗教は、導き方と教え方の表現はおのおの異なっても、「人間の生き方」を示す点においては一つです
日本人は恥ずかしく悲しいことに、世界に例を見ない「宗教音痴」です。
日本人はとかく「オカルトイコール宗教」と思いこんでいます。こんな宗教知識では、とても日本人は本当の国際人になれないでしょう。
「エコノミックアニマル」と言われるのも、要するに信仰や信心を持たないから、傲慢や利己心のとりこになってしまうのです。(略)
 「こだわらない」のと「無関心」とは違いますから、はっきり区別する必要があります。
現代人の中には、生れたときは氏神様へ参り、結婚式はキリスト教で挙げ、死んだらお寺の墓へ葬られることに違和感を持たない人もあるようですが、これはこだわらないのではなく、正しい宗教知識を持っておらず、無関心であるというべきです。
正しい宗教知識をもって初めて、「こだわらない信心」が得られるのです。
というのは、信心は純粋でなければなりませんが、純粋心が高じると排他的になります。
排他心は宗教心でないことは明らかです。
純粋心と排他心とをより高い立場で統一してこそ、高次の宗教心、こだわらない宗教心と宗教的態度が創造されるのです。」

参考サイト孫文侍の世界より

幸せ

2006年07月10日 | 信仰関連

 
■【進化心理学・人間行動生態学/進化研究と社会】 ■【 EP: end-point 科学に佇む心と身体】より、
幸福を心理学や科学とともに考えてみる。

【幸福ってなんだっけ】

【幸せになるコツとデータ】

 「○○だから不幸なのだ、原因の○○をなんとかすれば幸せになれるのだ、
  そう考えて今が不幸だと感じている人間は、
  その考えのせいで不幸になっていることがある。
  思考の固執が、自分を縛って不幸にしている。

 「○○だから不幸なのだ、原因の○○をなんとかすれば幸せになれるのだ、
  そう欲して今が不幸だと感じている人間は、
  その欲望のせいで不幸になっていることがある。」

 「不幸な固定思考が、自分を不幸にしていることに気づけるか」


【階級差別とスーパーヒューマン】

「「他者との比較で自分をほめる人間」
 「誰かを貶めることによって安心しようとする人間」
  優越感中毒、かな。
 「満ち足りる」が「他者との比較で満足する」ことをいうのであれば、
  それはけして満ち足りることを知らない飽くなき欲望追求の、
  赤の女王*レースになってしまう。

 「他者から蔑まれるのがイヤだと思っている人、
  他者に負けるのがイヤだと思っている人、
  それはすなわち、その人が他者を日頃から蔑んでいることの現れであり、
  他者を負け犬だとみなすことに快感を覚えるような人なのである。
  あなた、優越感なしでこの世の中、生きていける自信はありますか?」

  *赤の女王
  鏡の国のアリスのキャラクター。
  その場に留まる為に常に全速力で走り続けていなくてはならない。
  前に進むには2倍の速さで走り続けなくてはならない。
  一生懸命走っても、まわりの景色は全く変わらない、
  なんともせわしいキャラ。
  赤の女王仮説は生物学にもしばしば引用されるみたい。


【認知不協和理論 】

 「認知的不協和が起きると、人は居心地が悪くなり、
  ・状況から逃げ出す、無視する、逃避する
  ・自分の中の不協和を解消して納得できるように理屈をコジツケる

  自分がやったこと・自分の状態を、自己正当化しようとする。
  自分の行いを強化・正当化・する理屈をあみだして、安住しようとする。
  アレをやった自分は正しかったのだと、自分はいいこなのだと思おうとする。

  どうやって自分をほめるか。

  自分の状態とは相容れない情報
  (自分のほめ方をおびやかすもの)は排除されやすい」

【スキナーボックス】
 「報酬には2通りあり、プラスの報酬とマイナスの報酬で人は矯正されてゆく。」


【人格障害という輸入概念と文化心理学的解釈】

あなたの幸せはなにか。




ジャンク+α

2006年07月10日 | 信仰関連
 
【文芸ジャンキーパラダイス】
内容充実のいろんな意味で濃いサイト発見。
まさにジャンクと呼ぶのがふさわしい。
なにかしら「お!」と思うものが見つかりそうです。
みなさんも探してみては。

個人的にツボをいくつか。

■【仏像イケメンズ】
PUNKに仏像ご紹介。こういう仏像の見方は初めてです。
かなり面白いです。

■【仏像写真集】
こちらはまじめに仏象鑑賞。
それにしても美しい。

■【KODAIJI-TEMPLE】
えらいことシュールな高台寺外国向け禅サイト?
いろんなところをクリックしながらすすみます。
とにかくシュール。

■【あの人の人生を知ろう】
【 釈迦編&仏像の誕生】 【一休編】 【葛飾北斎編】 【千利休編】 【湯川秀樹編】
 
■【世界恩人墓巡礼】
世界中のあの人のお墓&散骨場所。
 【エリック・サティの墓】 (Gymnopedie No. 1 )
 【ビゼーの墓】 (カルメン”ペプシオペラバージョン”)
 【シド&ナンシーの墓&散骨】 ( SexPistols"God Save The Queen")
 【カート・コバーン(NIRVANA)の散骨】  (smells like teen spirit)   (ウクレレバージョン) *NIRVANA(ニルヴァーナ)はサンスクリット語で涅槃を指す。
 【手塚治虫の墓】 【アインシュタインの散骨】 【ガリレオの墓】
 【親鸞の墓】 【日蓮の墓】 【道元の墓】〔*註釈〕
【石川五右衛門の墓】 【宮本武蔵の墓】 【横山やすしの墓】
 【フロイトの墓】
 【みれいの墓】

メニュー豊富で目移りしてしまうほどだけど、
さりげなく表紙下に主さんのひとことがあったのでちょっとだけ抜粋。

 
『人間は国籍、人種、宗教など、自分と「違うもの」を理由にして戦争するけど、芸術を味わうことは他者の中に自分と「同じもの」を見つけることだ。
「感動」とは、相手の気持ちに心を重ね共感すること。
全ての芸術作品が「あなたと私はこんなにも似ている」と語っている。
(中略)
※言葉や口先だけの“人間は素晴らしい”では、僕は納得できない。
僕だって“素晴らしい”という証拠が欲しいんです。
だからこそ、手当たり次第に音楽を聴き、映画や絵画を見、文学を読み漁るのです。確かな証拠が欲しくて!そして
「見つけた!」と思ったものを、このサイトで報告しているのです。』

「科学と芸術は全世界に属する。
それらの前には国境など消え失せてしまう」(ゲーテ)


〔*註釈〕 
【道元の墓】の中で道元の説明が少ない部分を、つらつら日暮しのtenjin95様のほうから正式なご案内をいただきましたので掲載させていただきます。ありがとうございました。みれい九拝。

 
『【原文】
鎌倉時代の禅僧で曹洞宗の開祖。ひたすら座禅をすることで、自身の内部にある仏に出会えと説いた。
総本山の永平寺は山間の巨大寺。どんどん寺内の階段を登って行くと、道元の廟にたどり着く。

【小生案】
鎌倉時代の仏教者で、曹洞宗の開祖とされた。
⇒禅僧という括りが気に入らなかった道元禅師は、自ら一宗の開祖となることも否定したため、「開祖とされた」という表現にしました。

ひたすらに坐禅をする修行そのものが、仏に他ならないという教えを説いた。
⇒「座禅」は勘違いで、正確には「坐禅」と書きます。また、自らの中にある仏(=如来蔵)については、『正法眼蔵』「仏性」巻にて明確に否定しているため、【原文】は誤りになります。

大本山の永平寺は山間に巨大な伽藍を有しています。どんどん寺内の階段を上っていくと、道元禅師の廟にたどり着きます。
⇒曹洞宗に「総本山」はありません。「巨大寺」は表現としておかしいので、「巨大な伽藍」が正確です。一応、一宗の開祖には、それぞれ敬称を付けるべきだと考えておりますので、小生も「日蓮聖人」「法然上人」「親鸞聖人」など、こういった表記には気を遣っています  』