青山俊董老師の言葉
紹介文
●「宗教なんて大嫌いだ、人間が作ったものに縛られるか、」という方に対して。
「宗教は人間が作ったものではありません。人間が見つけ出そうと出すまいとにかかわらず、行われている天地悠久の真理です。
そのことに、気づき、目覚め、その中で私どものいのちは、このように生かされている。だから、こう生きていこうじゃないかと教えられた。それが宗教というものであって、誰かが作り出したものではありません。
ないものから作り出したというのなら、どんなにお釈迦様がご立派であっても、あるいはキリスト様がご立派でも、二千五百年前という、二千年前という時代的制約、あるいは、インドとか、イスラエルという地理的制約から、一歩も出ることはできなかったでしょう。
誰かが見つけ出そうと見つけ出すまいとに関わらず、発見しようとしないとにかかわらず、行われている天地悠久の真理そのものが「宗教」の一番の元になっているのです。」
●「人生という土俵にあって、我々はとかく負け状態になるとダウンしてしまいがちです。そういう人は逆に勝ったとき、高慢になります。高慢になるのと劣等感で落ち込むのとは、同じ心の構造の裏表ですから、勝って奢らない修行、負けて落ち込まない修行の方が、勝ち負けの技を磨くよりもっと取り組みがいのある人生修行と申せましょう。(略)
「負けるが勝ち」といいますけれど、負けることができるというのは、精神的に大人でなければできません。(略)これは心が柔らかで、大きくなければ出来ることではありません。(略)
小人にとって大切なことは私のメンツであり、従って勝ち負けが大問題なのですが、精神的に円熟した大人にとって問題なのは、そのことが是か非かであって、私が勝つか負けるかなどということはどうでも良いことなのです。」
●仏道でいう善悪は超時代・超国境性を備えるもの
「立場が変わると善悪が逆転するような善悪は、ほんとうの善でも悪でもない。時と所を超え、立場を超えて変わらぬものがほんとうの善であり悪であるべきものです。
私どもの善悪はどこまでも自分の都合中心で、そこを良寛様は「人間の是非一夢の中」とおっしゃり、道元禅師は、凡情や凡眼でみたり考えたりしてはならない、とお示しになりました。(略)
お金や名誉、役に立つとか立たぬとか、そういうものさしを当ててつまるとかつまらんとかいう序列をつけるのが、凡眼であり凡情なのです。凡眼凡情では、計算に合うこと、名誉になることが価値あることとされます。そのようなことをはなばなしくやるのは誰にだって出来ることです。」
●「生き甲斐を持つ」ということについて
(女性タクシードライバー曰く)「私、少しでもじっとしているのがいやなんです。とにかく身体を動かして働くことがたのしいので、朝晩、それから日曜には畑仕事をやり、その合間を縫ってタクシーの運転手にも傭ってもらっているんですよ。毎日がとても生き甲斐があって、たのしいです」(略)
(老師曰く)「身体を張ってバリバリと仕事に取り組む、そのことから生き甲斐をちょうだいして、いきいきと生きることは素晴らしいことだけれど、それだけを生き甲斐としていたら、動けなくなったとき、目も当てられないほどみじめになりますよ。
身体を張って仕事をする、結果がどんどん出る。子どもを育てる。野菜作りをする。やっただけは正直に答えが出て、たのしく、やりがいもあるでしょう。
けれども、ほんとうの生き甲斐や人生の取り組みというのはね、気に入ったことだけに向かって、身体を張って剃れと取り組むということだけに生き甲斐や喜びを感ずるのではなく、病気になったら、病気に取り組み、寝たきりになったら寝たきりという、今ここの一歩にいのちがけで取り組むことをもって生き甲斐とする、というのでなければ本物じゃないのよ。
夢中になって働き、働くことにのみ生き甲斐を感じていた人ほど、病気になったとき、はたらけなくなったとき、一気に生き甲斐を失い、虚脱したようになってしまいがちですからね」
身体を動かすことによって生き甲斐を感ずることの方が楽なことなのです。(略)
ほんとうの生き方、ほんとうの生き甲斐というのは、自分に与えられたそのことが、我が心にかなうことか、かなわなぬことかを問うことなく、今出会っているそのことを、全力を尽くしてつとめあげる、そういう生き方自身よりいただくというものでなければなりません。(略)
「こうなったら幸せ」という条件付ではなく、「どうなっても幸せ」という在り方とは何なのか、を心にきちんといただいておかないといけないと思うことです。」
●慢心を戒める
「仏教の深層心理学「唯識」の権威であられる太田久紀先生は「慢の心所のやっかいなのは、慢心を克服したと想う瞬間、慢心を克服したという慢心が起こる」と語っておられます。(略)
ことわざに「自慢高慢馬鹿のうち」などというのがあったり、驕慢、我慢、増上慢、傲慢、慢心など、慢の字のつく言葉は多くあります。(略)
「慢」は、「他の人と自分とを比較して、自分を少しでも高く位置づけようとする心の働き」をいい、「あいつに比べておれのほうがえらいと思う」心で、「相手を意識すること自体が狂いの元」だとおっしゃっています。その心の深みには「おれが」という我が身可愛い思いが毒蛇のようにとぐろをまいていることを、するどく指摘されておるのです。」
●「いつのまにか仏教というもの、お経というものが、生きた人にはお尻を向け、亡くなった人に向かって読むもの、読んでいる人自身も分からぬようなお経を、呪文めいて読むのがお経のような錯覚を覚えてしまっていることは、残念なことでございます。(略)
どう生きるべきかを問う、人生の道しるべとして読むのがお経であり、今日の私の生きる姿勢の乱れをただす鏡として読むのがお経でなくてはならないのです。死んでからの話ではないのです。」
●一大事(生死)への心構え
「「寝たきりは、本人も大変、看病する方も大変だから、できたら私はコロッと逝きたいです。」という言葉が出てきました。
そこで私はこう云いました。「それは誰しもの願いだけれど、いくら頼んでみても祈ってみても、寝たきりになるかも知れない。どうなるかわからないことを祈ることよりも、もっと大切なことは、いまここの生き方、死に方に、条件をつけないということです。いくら条件をつけたって、その通りになりはしないんだから。(略)」
人生全部、健康も病気も、失敗も成功も、天気も雨も、平等に揃っているのが人生の道具立て。その中で、人間だけが勝手に、失敗はかなわない、病気はかなわない、いい方だけ欲しいと願うわけですが、それは身勝手な話ですね。大事なことは、降っても良し、やんでもよし、寝たきりでもよし、いっさい条件をつけない。あくまで無条件で受けて立ちましょうという覚悟が決まることです。この生き様を私の好きな句で言い換えますと、「投げられたところで起きるかな」ということになりましょうか。(略)
寝たきりになったら、寝たきりを修行する。逃げずにまっすぐに、寝たきりを受けて立ちましょう。寝たきりになってみなければわからない人生の姿を、見せてもらいましょう。味合わせてもらいましょう、と腰を据える。失敗してみなきゃわからないその世界、病んでみなきゃわからないその世界を積極的に学ばせていただきましょうという姿勢。」
●真理は一つ、切り口の違いで争わぬ
●僧のあるべき姿
「『法輪転ずるところ食輪転ず』といってな、坊さんは仏法を学び、それを一つでも二つでも実践し、また人々にお伝えする。そのことだけを考えていれば、自分が食べてゆくこと、生活してゆくことなど考えなくとも、自然に授かるものなんだよ。』」
この尼僧さんの自分への厳しさは半端でない。
私はこの方の言葉とまなざしとその振る舞いにいつも自分の愚かさをいつも知らされっぱなしなのだ。
参考サイト孫文侍の世界より