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生かして生かされて生きる

日々感じる事 気になる言葉
宗教問わず信仰について考える
ほとんど私用メモ帳化してます

宗教研究所シンポジウム

2006年11月30日 | 信仰関連
 
12月2日に

財団法人国際宗教研究所 主催の 公開シンポジウムが東京でひらかれるようです。
定員80人らしい。

テーマは『宗教文化をどのように伝えるか?』
「今日の日本社会において、
宗教文化をめぐって数多くの問題が浮上してきており、
このシンポジウムでは、「宗教文化をどのように伝えるか」というテーマのもとに、
教育、医療、メディア、観光という全く異なる四つの領域に焦点を当てながら、
宗教文化をめぐる様々な問題を幅広く議論してみたい。(一部抜粋)」


同研究所の宗教情報リサーチセンター「RIRC」(ラーク)



僕が毎日のように修行前に心で念じてるお経

2006年11月28日 | 信仰関連


『老いることは当然のことであり
 私は老いを逃れることは出来ない

 病むことは当然のことであり
 私は病を逃れることはできない

 死ぬことは当然のことであり
 私は死を逃れることはできない

 私の、いとしく思うもの
 楽しく思うもののすべては
 私から別れ、離れ行くものとなる

 私は自分のカンマ<業>を持っている

 私のカンマ<業>を引き継ぎ

 私のカンマ<業>を因として生まれ

 カンマ<業>に従い

 カンマ<業>を拠り所として

 私の為すであろう事柄が

 善であろうと

 悪であろうと

 私は、自らそれを引き継ぎ

 自らその果を引き受けて行くのである

 このことを、いつも覚えておかなくてはならない

 すべてのものは有限の存在である
 死を超えることは絶対できない
 すべての生きものは朽ち、そして死ぬ
 これは何人も超えることのできない真実である』

  (僕が毎日のように修行前に心で念じてるお経)

テーラワーダ仏教実践者ナマズさんご紹介。
タイトルもそのまま。



ダライ・ラマ、日本にて

2006年11月20日 | 信仰関連
 ちょうどテレビにダライ・ラマが映っていた。
広島国際平和会議で来日していた時にインタビューされたようである。
ちょこちょこっとメモしながら観ていた。

●いじめについて大人はどうするべきか
・家庭での愛を育みましょう。
・慈悲の心、おもいやりのこころを伝えましょう。
・非暴力を伝えましょう。


●キリスト教イスラム教の対立について
・イスラム教にもっと敬意を払いましょう。
・イスラム教のすべてがああいったわけではないのです。
・お互いを認め合う事が大事だということです。


●ダライ・ラマご本人の帰国について
・変化は訪れています。
・中国側との話し合いについて、直接対話ができます。
・国の独立は求めないのです。
・チベット人がある程度自治できることが大事だと思っています。

・私の事を、中国人の敵 チベット人の敵という人もいるよ。
なぜそう思うのか、そういっている本人に聞いてみるといいですよ。

ダライ・ラマ14世
ダライとはモンゴル語で大海、ラマは僧侶。
4歳で即位
23歳で亡命
現在71歳

【ダライ・ラマ公式HP】

今気付いたけど、クリックするたびに表紙のダライ・ラマのメッセージが変わります。

【平和の祈り】(広島国際平和会議2006)

関連
【中観派】

キリストな映画

2006年11月09日 | 信仰関連
  【パッション】
メル・ギブソン監督作品。
イエスキリストが弟子達に裏切られ、世間に迫害され、虐げられ、磔にされ、それでも彼らへの赦しを神に願う姿をリアルに映像化。
新訳聖書に基づいているそうだ。

私は「ゴルゴダの丘」がなんなのかもよくわからずに観た映画。
ところが迫力に圧倒されて目が離せない。
衝撃シーンの連続に涙とまらず。
これが十字架の意味なのだ、と痛感させられた。

迫害され罰を受けるシーンが衝撃的過ぎて、人によって意見がかなり分かれる作品。
キリスト役にジム・カヴィーゼル
マグダラのマリアにモニカ・ベルッチ。彼女はどこでも美しい。

(写真は映画と関係ありません)

仏教話あれこれ

2006年10月11日 | 信仰関連

アラカルト

【山田無門老師】
●「今日、「自我を尊重せよ」とか「個性を尊重せよ」ということがよくいわれますが、わたくしは、自我は尊重しなければならないかも知れませんが、けっして尊厳ではないと思います。
自我は未完成な、恥ずかしいものだと思うのであります。
個性も尊重しなければなりませんが、そんなに権威のあるものだとは思います。それはわずかな経験と知識と出積み上げたものであって、ひとりびとり違うものであります。
ひとりびとりが違うようなものは、普遍的真理ではないと思うのであります。自我の奥に、個性のもう一つ奥に、自我を越え、個性を越えた、人間だれでもそうなくてはならない、普遍的な人間性というものがなくてはならんと思うのであります。」

【葉上照澄(天台宗)】
●下座のこころ
「法華経の第七巻、第二十品にな、「常不軽菩薩品」というお経がある。
回峰行の創始者相応和尚も、この菩薩に深く帰依していた。(略)
仏になるためには、この「下座」を欠いてはならないということです。
下座とはあらゆる人間を尊重する、人間礼拝や。(略)
この自覚は人間自身を謙虚にする。人間を礼拝する心を植え付ける。
菩薩はそれを実行した。(略)
下座のこころとは、なにものにも代え難い積極的人生を生む。
傲り高ぶった人間にはそれがない。
宗教心とは下座心や。宗教とは何ぞやというて議論するインテリには、この心がいつまでたってもわからん。
なんぼ知識をひけらかしたって、この心がなくては人間は幸せになれん。
私は「もし自分の子どもや下のものに手を合わせてもらいたかったら、黙ってあなた自身が手を合わせなさい」という。手を合わせる心が仏心です。」

【久保田正文(日蓮宗)】
●「よく折伏行といいますね。これは改宗、改心を要求することではなく、苦悩に停滞している人々に、まことの救いの道がここにあるのですよ、ともに成仏し、無上等覚の世界に入ろうではありませんかと、肩を叩き、進める行なのです。(略)
けっして物理的な強圧でも、無理に引き込むことでもない。自分もあなたもそれぞれの苦しみに於いて救われるのだという、その発心を持つことなのです。」

●「アメリカの宗教学者がよく私にいいます。日本の外交官はどうして無宗教であることを誇らしげに語るのだろうか。アメリカでは無宗教であることを決して尊敬しない。なぜなら、宗教心をもたぬ人間は、相手の心が分からぬからだ。」

●「現世安穏とは、世の中の苦がなくなるということではない。
他からは苦しいように見えても、正しい信仰のある人の心の境地は安穏であり、後の生活もまたやすらかであるということです。(略)
苦は相対的であるとともに、なかなか人間の浅い智慧ではのぞき知ることができない。いいかえれば、人知を越えた知、仏智というか宗教的叡智を得なくては、現世安穏の真の意味も把握できないし、他人の苦しみも分からぬ。分からなければ、その苦が救いとなりうる相対性を教えた宗教、仏教に帰依し、苦楽一如、外と内の一体性、仏心不二に目覚めねばならない。」

【ひろさちや氏】
●「仏教には多数の入口(門)があるのですね。もちろん、仏教の教えは一つです。中にはいると一つだけれども、その入口は一杯用意されているというのが仏教なのです。ところでその点に関して、現代日本の仏教は大丈夫ですか・・・?(略)
(経済評論家から)現代日本人はどうも宗教への、アクセス(接近)の方法がわからないで困っているようだ。それは日本の宗教家の怠慢ではないか。そういう発言がありました。たしかにその通りですよね。庶民は仏教とはどういう教えなのか知りたいと思っています。でも、どこに行けば仏教の話がきけるのか、その場がないのです。一方、インチキ宗教のほうは、手を変え品を変え、人々を誘惑しています。だから、ついついそういうインチキ宗教にアクセスしてしまうのですね。」

【石原慎太郎氏】
●「人間の心は自由とか、永遠性とか、神々しさとか、それぞれ個々にある観念、言い換えればある確かなイメージとして捉えることの出来ぬもの(略)の実在を強く信じるという不思議な態度を持つことが出来るのです。(略)
だから人間はあたかも神が存在するかのように祈ったり奉仕も出来るし、あたかも人間が不滅であるかのように計画を立てることが出来る。だからこうした目に見えぬもの、不可知なものが存在するという人間の五官を超えた心の働きは、他の五官による認識に則った行為が対象にするもの(略)と、まずは同列の意味を備えている。だから、あいつは見ることも出来ない神さまをしきりに信じているとあざ笑う人間は、信仰を持つ持たぬは別にしても、人間についてつまり自分について、迂闊に知らずにいるとしかいいようがない。」

●「神さまはいると思うし、そう感じていもいるが、どこまでどう信じていいか解らないとか、信じようとすればするほど逆に信じられなくなるという人は大勢います。
そしてそれは結局、人間の知恵でしかないインテリジェンスのもたらす不幸ともいえる。
インテリほどそれこそが普通の意識と思っている合理的な意識は、実はたかだか人間の意識のただ一つでしかありはしません。」

【美輪明宏】
●「私はかねがね、特定の教団のメンバーになることと信仰を持つということは別ですと申し上げております。というもの信仰はあくまでも個人のものであり、仏教でいうならば、それは釈尊の教えを直接、自分個人の人生に反映させていくことだと思うからです。そして釈尊の教えと私とを結びつけてくれる手助けをするのが教団であったり寺であったりするわけですが、悲しいことに教団にはどうしても自教団中心のエゴがつきまとい、それが人々をかえって仏教から遠ざけてしまうという皮肉な結果をもたらしているのが現状です。」

●「あれだけ信じていたのにあの人はひどいことをした。私を裏切った」とお怒りになったり、嘆かれたり、人を一切信じられなくなったりということをよく言われます。
 でも、それは信じて頼った、つまり信頼した方がおかしいのであって、相手にべったり寄りかかっていたから、そういう結果になったのです。
 そもそも人間というものは、顔が違うように、考え方も生き方も思想も別々の人間の寄り集まりで、一つの家庭といっても違う人間の寄り集まりにすぎないわけです。
みんな別々なのに「私の子供なのに・・」とか「オレの女房なのに・・」などと言いますが、自分の女房だからと言って、全く同じ思想、同じ性癖、同じ好みでないといけないと思うと言うことはファシズムであってヒトラーと同じです。(略)
「もう人が信じられなくなった」という人がおりますが、自分を信じられない人が他人を信じることが出来るわけもないのです。」

孫文侍の世界より