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南英世の 「くろねこ日記」

徒然なるままに、思いついたことを投稿します。

教育と愛国

2022年05月30日 | 日常の風景

 

『教育と愛国』 斉加尚代著  岩波書店 を読んだ。長年教育の最前線で働いてきたが、その世界にどっぷりつかっているとかえって見えづらいこともある。この本は10年、20年かけてゆっくりと進んできた教育現場の変化を客観的にとらえており、面白かった。

まず、興味を引いたのは教科書検定の調査官と出版社のやり取りである。調査官が部屋に入ってきて出版社の人に「意見書」を渡し、すぐその場を立ち去る。意見書には教科書原案(白表紙本)に対する文科省の意見がつけられている。意見書には細かな指示はない。該当箇所が示され「生徒が誤解をする恐れのある表現である」などと抽象的な指摘がなされているだけである。教科書会社の担当者はそれを見て、調査官に対する質問事項を考える。何しろ質問時間は2時間と決められているから、全部について細かく聞くゆとりはない。

こうして調査官とのやり取りを終えると、後日、その内容が執筆者に伝えられて修正作業が開始される。万が一検定に合格しなければ教科書として販売ができなくなる。だから教科書会社にとって教科書検定はいわば「関所」みたいなものである。関所の番人たる調査官の検定基準は、当然にその時の政治勢力の影響を受ける。

1997年に「新しい歴史教科書をつくる会」が発足した。ところが、この会がつくった歴史教科書は2001年の教科書検定に合格したもののほとんど採択されなかった。採用されないのでは意味がない。もっと売れる教科書を作るべきだ。「つくる会」は「自由社」と「育鵬社」に分裂してしまった。もっと売れる教科書にすべきだとしたのが育鵬社である。

育鵬社の採択を増やすために動いたのが「日本会議」であり「日本教育再生機構」である。育鵬社の採択を増やすために採択現場にどのような政治的圧力があったのか。この本はかなり詳細に踏み込んで記述している。

一方、「考える歴史」を目指して編集された教科書として「学び舎」の中学校歴史教科書がある。豊富な資料を提供し、重要語句のゴシックを排除するなどの工夫を凝らしたユニークな教科書である。ただ、この教科書には当時は「下火」になっていた従軍慰安婦問題の記述があった。そのため保守派から狙い撃ちされることになった。採択しないようにと様々な圧力が加えられた。

この教科書を採択していた私立灘中学校の和田校長の話が印象に残る。「この教科書は文科省の検定に合格している。文句があるなら文科省に言え」。立派な校長である。

学び舎の歴史教科書

2008年、大阪で橋下知事が誕生した。この後「教育に対する政治介入は大阪から始まった」といわれるようになる。知事は2011年に「教育基本条例案」を提出した。柱となったのは次の3つである。

① グローバル人材の育成

② 学力テストの学校別結果公表

  3年間定員割れした府立高校の廃校

③ 教員に対する新たな人事評価の導入

簡単に言えば、第一に教育の目的を政治家が決め、第二に教育の世界に市場原理・競争原理を導入し、第三に、私的企業のマネジメントを教員にも適用しようとしたのである。ちなみに教員の人事評価は S、A、B、C、Dの5段階でなされ、基準は次のようなものとされた。

 S・・・学校全体の5パーセント。大阪府全体によく貢献した教員。

 A・・・学校全体の20パーセント。所属校によく貢献した教員。

 B・・・学校全体の60パーセント

 C・・・学校全体の20パーセント

 D・・・学校全体の5パーセント。ダメ教員。2回連続D評価を受けると免職対象となる。

(注)これは当時のものでその後変更されているやに聞きますが、基本的な考え方は変わらないものと思います。

評価は管理職によってなされる。そこには当然管理職の好き嫌いが入り込む余地がある。その結果、管理職の権限が強化され、管理職に対して誰も意見を言えない息苦しい雰囲気が職場に出てきたのは当然である。ちゃんとした授業をやっているのにCの評価をされた教員の無念さは想像するに余りある。「なんで私がCなの・・・」

おまけに、人事評価の対象の一つにテストの成績が加味され、それが給料に反映されることとなった。大学センター試験(共通テスト)の点数が0.1点刻みで各校比較がなされ、点数が悪かった教科担当者が校長室に呼ばれたという話も聞いたことがある。その結果、自分の教科の点数にのみ関心を持つ教員が増えた。教科時数の奪い合いが起き、各教科から膨大な宿題が出されるようになった。かわいそうなのは生徒である。

教育は本来何のために行われるのか。その目的を定めるのはだれか。その効果をどうやって測るのか。戦前の反省から、教育の中立性を保つために「教育委員会」が設置され、そこで教育目的が定められるシステムが完成した。しかし、2008年以降、教育目的を政治が決めて何が悪いという風潮が強まってきている。従来「教育委員会事務局」と呼ばれてきた組織が「教育庁」と名称変更したのもこの流れに沿ったものといえる。

もちろん、良い政治家がよい方向に教育改革を進めることは当然ありうる。しかし、逆のことも考えられる。民主主義の下で悪い政治家が選ばれ、悪い方向に教育改悪することも当然想定されるべきである。教育の中立性は、教育が政治の道具に使われて悪い方向に行くことを阻止するためにつくられた制度である。政治家はこのことを肝に銘じておく必要がある。

そもそも教育学原理の本を読んだこともない人間が教育界のトップになったり校長になったりすること自体おかしな話である。これでは医師免許を持たない人間が病院長になり、執刀医を指導するようなものではないか。冗談ではない。こんなバカな話がなぜまかり通るのか?

努力すれば人間は何でもできる? そんなことはない。世の中には努力してもできない人がたくさんいる。自分ができても、自分と同じように他の人もできると思うのは間違いである。成功体験しか持たない人間には弱者の気持ちはわからない。あまりに頭のいい人は小・中・高の先生には向かない。挫折体験こそがいい教師を生む。

教育に競争原理を持ち込めば本当にいい教育になるのか? 学区を撤廃し教員同士を競争させた結果、一部の学校のテスト成績がよくなったとしても、果たしてそれで大阪府全体に教育効果があったと言えるのか? たしかに北野や天王寺の進学実績は伸びた。しかし、それはほかの学校から優秀な生徒を引き抜いただけの話ではないのか。そのあたりの検証は全く示されていない。

効果が上がったというエビデンスが得られないから出さない? そうではないことを祈りたい。

 

(追記)
1980年代以降の日本の教育の移り変わりについては、次のブログに書いています。

教育行政を振り返る - 南英世の 「くろねこ日記」 (goo.ne.jp)

 

 


国策捜査

2022年05月28日 | 日常の風景

2002年 佐藤優氏が逮捕された。罪状は「背任」と「偽計業務妨害」容疑である。東京拘置所での勾留生活は512日に及んだ。3年後の2005年、第一審判決として懲役2年6カ月、執行猶予4年が下された。(その後、この事件は最高裁まで争われ有罪が確定している)。

佐藤は公判中、一貫して「国策捜査」を主張した。佐藤によれば「冤罪はある人が偶然犯人にされてしまう」が、「国策捜査は狙いを付けた特定の人物を、国家が検察を道具に使って断罪すること」だという。この事件の背後にどういう政治力学が働いたのか。

国策捜査で大切なことは、「逮捕が一番大きいニュースであり、初公判はそこそこの大きさで扱われ、判決になると小さく、時間がたったらみんな忘れてしまう」のが一番いいやり方だそうである。それも実刑判決ではなく執行猶予を付けるように持っていくのだそうだ。なぜなら国策捜査の対象となるのはもともと能力のある人なので、うまい形で再出発できるように配慮するのである。それが「いい形」での国策捜査というものだそうである。

たしかに、当時、テレビは連日、北方4島のディーゼル事業で入札が三井物産に落ちるように鈴木宗男氏が画策したらしいというニュースを流していた。「ムネオハウス」という言葉を覚えている人も多いのではないか。その鈴木氏と親しかった佐藤氏も巻き込まれた。鈴木氏が逮捕されるとマスコミはこのニュースを大々的に取り上げ、国民は拍手喝采した。

ところが、ほとぼりが冷めた今、逮捕された罪状が何であったかを思い出すことすらできない。もちろん佐藤優氏も鈴木宗男氏も大活躍している。セオリー通りである。

当時、田中真紀子外相と鈴木氏は犬猿の仲だった。また、小泉純一郎総理は新自由主義へ舵を切ろうとしていたのに対して、鈴木宗男氏は公平分配論者だった。そんなことが関係していたのかいなかったのか。この本を読んでいてふと、小泉竹中政策を「売国政策」と批判して痴漢事件の犯人にされてしまった人を思い出した。

検察は都合の悪い証拠は提出しない。だから、狙いを付けた人物を罠にはめるのは難しいことではない。誰が「やれ!」と号令をかけ、誰が「撃ち方止めー」といったのか。同じ人なのかそれとも別の人なのか。真相は闇の中である。


日月さん 百貨店デビュー

2022年05月25日 | 日常の風景
 
日本画家の日月美輪さんの個展が阪神デパート梅田本店(8階)で開催されている(5月25日~31日)。日月さんは岸和田高校OGである。直接教えたことはない。しかし、廊下のどこかではすれ違っていたはず。
 
私が日月さんの存在を知ったのは、日本画教室に通っていたころ、偶然に日月さんの動画をYouTubeで見たことがきっかけだった。岸和田高校出身ということもあり、機会があれば一度お会いしたいと思っていた。
 
個展初日、気に入った作品があったら買おうと思って、サイフに少しばかりお金を詰め込んでデパートの開店に合わせて家を出た。阪神本店は家から歩いてでも行ける距離である。
 
会場につくと、真っ先に紫陽花を描いた作品が目に飛び込んできた。作品、サイズ、価格、どれをとっても申し分ない。幸いまだ売約済みにはなっていない。すぐ購入を申し出た。ところが、この作品、前日にネットですでに予約が入っているとのことである。ザンネン・・・
 
でも、日月さんに初めてお会いし、いろいろおしゃべりできたので満足できた。作品の解説や裏話も聞けた。今回はご縁がなかったが、また気に入った作品があれば購入を考えたい。日月ファンの一人としてこれからの彼女の成長を影ながら応援したい。
 
 
 
 
 

半独立国家日本

2022年05月24日 | 日常の風景

私が生まれたのはサンフランシスコ平和条約が結ばれた年である。それから71年がたった。しかし、日本はいまだにアメリカの統治下から完全に独立したとはいいがたい。

たとえば、米軍基地がいまだに存在している。現在日本には、沖縄、横田、厚木、座間、横須賀、三沢、岩国、佐世保などに米軍基地がある。日本が独立してから71年もたつというのに、いまだにアメリカ軍が日本に駐留している。

日本人の多くはアメリカが日本を守ってくれていると思っている。しかし、果たしてそうか。本当は冷戦下で、日本列島が地政学的に重要だから、日本を利用してきただけではないのか。かつての中曽根総理は「日本列島を不沈空母にする」といったが、その言葉がアメリカにとっての日本の地位を端的に物語っている。(それとも、中曽根首相はアメリカによほどの弱みを握られていたのか。)

日米安全保障条約で一番の恩恵を受けているのはアメリカ自身ではないか。アメリカの核の傘を恩に着る必要など全くないのではないか。片務的な共同防衛の条約を結んだ理由は日本を守るためではなく、日本に駐留するアメリカ軍を守るためではなかったのか。そう考えるとすべてのつじつまが合う。

しかし、日本人の多くは日本はアメリカの傘の下で守られている信じている。いや「信じ込まされている」。そして安保条約の片務性を理由に、「安保ただ乗り論」が展開され、それでは申し訳ないからといって年間2000億円の「思いやり予算」までつけている。これは駐留米軍経費の8割以上に当たる。なんとも気前のいい国、というかお人よしの国である。本来はアメリカが日本政府に基地使用料を払うべき筋合いのものである。

今回、バイデン大統領がエアーフォースワンに乗って横田基地に着いた。横田基地は東京の立川市に近いところにある。下の地図でいえば「あきる野」と書かれたすぐ右側の赤色で囲まれた部分である。もし横田基地を日本に返還させてここを羽田、成田に次ぐ第3の国際空港にすれば、関東圏の複雑な航空路線は緩和され、東京の利便性はますます高まる。しかし、誰もそんなことを言い出さない。

戦後77年、いまだに日本は半植民地状態から脱却できていない。アメリカに言いたいことも言えない状態が続いている。日本政府は米国債を1兆ドル(130兆円)保有しているが、それはアメリカに対する上納金みたいなもので、売却したいと口にすることさえ許されない。このまま後何十年、アメリカのイエスマンであり続けるのか。

一部に安保条約の片務性を解消し、集団的自衛権の行使をできるようにすることが独立国家の条件だと考えている人がいる。しかし、これは危ない。アメリカの軍隊の一部にされてしまえば、アメリカが間違った戦争をするときにも日本は戦争協力しなければならなくなる。

日本が真の独立国となるための条件とは何か? 日本国民はその条件をうまくコントロールして平和を維持し続けることができるのか。もし、自信がなければ・・・、今のままのほうがましともいえる。


有罪率99.9%

2022年05月22日 | 日常の風景

周防正行監督の映画を見るのはこれで3本目である。「シコふんじゃった」「Shall we ダンス?」。いずれも面白かった。「それでもボクはやっていない」が公開されたのは2007年である。

朝の満員電車の中で「やめてください!」という声がして、若い男性が痴漢容疑で捕まった。刑事の執拗な取り調べが行われ、調書が「作文」されていく。

当番弁護士が接見に来てくれた。「裁判は大変だ。判決が出るまでに1年はかかる。罪を認めて示談にすれば、誰にも知られず明日か明後日にはここを出られる」。しかし被疑者は「僕はやっていない」と突っぱね、4か月勾留された挙句に起訴された。長期間勾留し検察に有利な状況を作る。これを「人質司法」というらしい。

刑事裁判の大半は被告人が罪状を認めた案件であり、有罪率は99.9%であるといわれる。ただし、否認事件に関して言えば97%である。無罪となるのは100件のうち、たったの3件である。被告人が無罪を主張していても、裁判官としては「被告人のウソに乗ってはいけないという強い意識が働くものらしい。

周防監督の言葉は容赦ない。

「都合の悪い証拠は隠す。起訴したからには絶対に有罪をとる。それが検察官の仕事です。」

「裁判所が無罪に臆病なのは、今に始まったことじゃない。僕たちが相手にしてるのは、国家権力なんですよ。」

「無罪を出すということは検察と警察を否定することです。つまり、国家に盾をつくことです。そしたら出世はできません。裁判所も官僚組織ですから組織の中で評価されたいというのが人情でしょう。被告人を喜ばしたって何の得にもなりゃしない。無罪判決を書くには大変な勇気と能力がいるんです。」

「裁判官は常時200件以上の事件を受け持っている。裁判官の能力は処理件数で測られる。だから早く終わらせることばかり考える。」

「怖いのは99.9%の有罪率が裁判の結果ではなく、前提になってしまうことなんです。」

「99.9%の有罪率ってのは弁護士さんにとっても便利なんですよ。有罪で当たり前だから誰からも非難されないし、無罪取ったら英雄だ。」

「無実であるなら裁判で明らかになる。裁判官はわかってくれる。そんなふうに考えていたらとんでもないことになる。」

結局、被告人は執行猶予付きの懲役3月を言い渡される。判決理由を聞きながら、被告人の独白が続く。

「僕は初めて理解した。裁判所は真実を明らかにする場所ではない。裁判は被告人が有罪であるか無罪であるかを、集められて証拠で、とりあえず判断する場所に過ぎないのだ。それで、ぼくはとりあえず有罪になった。」

被告人はもちろん控訴する。しかし、否認事件で無罪が言い渡される確率は3%。その後の裁判でも無罪を勝ち取る可能性は小さい。


今すぐやる!

2022年05月21日 | 日常の風景

 

上の色紙は高校の文化祭で出品したものである。300円だったかな。結局売れ残ってしまった。当然か(笑)。捨てようと思ったがもったいないので家にそのまま飾っている。

「今すぐやる」ことを心がけるようになって40年がたつ。おかげで人生がばら色に変わった。20代のころは「やらなければいけない」と思ってはいても、最初の一歩が踏み出せないことが多かった。30代になってようやく「今すぐやる」ということが習慣化した。

昨日、紀伊国屋書店に行ったら1冊の本が目に留まった。平積みされており2022年3月第9刷発行とある。よく売れているらしい。すぐ購入した。

別段新しいことが書いてあるわけではない。でも、こういう本がよく売れるということは、世の中には「先延ばし」で悩んでいる人が多いのかもしれない。要点をいくつか抜き書きすると

① とりあえずとっかかりとして「小さなアクション」を起こす。

② やるべきことを紙に書き出し、ToDo リストを作る

③ 締め切りを設定する

④ 仕事内容を細切れにして、達成感を味わう

⑤ 「ぶっ飛んだ目標」も時には有効

個人的には①が一番大切だと思う。うじうじ悩んでいるより、とりあえず第1歩を踏み出すことである。最初の第一歩さへ踏み出してしまえば、もう半分以上できたようなものである。

たとえば勉強しなければならないのにその気になれないとき、私は「とりあえず10分だけやってみよう」と自分をだますことにしている。10分だけやるつもりでも、やり始めると調子が出てきてあっという間に30分や1時間が過ぎる。

⑤の「ぶっ飛んだ目標」というのが面白かった。何かとてつもない夢を持っていると、それが強力なエンジンとなる。確かにその通りだと思う。今書いている本を出版すれば、日本の教育の足りないところを補えるのではないか・・・などと夢想するのも悪くはない。

目新しいことは何もなかったが、役には立った。

10分で読めた。

読み終わってメルカリに出品したら1100円(定価1540円)でモノの数分で売れてしまった。

 


大岡越前のテーマ

2022年05月20日 | 日常の風景
 
大岡裁きは有名だが、果たしてそうか?
「実母継母の子争い」では手を離した方を本当の母親としたが、「引っ張り合いに勝った方を母親とする」と宣告しておいてこの結論はないのではないか。泣き叫ぶわが子に心を痛めながら、それでも心を鬼にして子を取り戻そうとして必死に手を離さなかったほうこそが母親ではないか。
 
などということはどうでもいいので、とりあえず「大岡越前」のテーマ曲のお耳汚しです。
 
 
次は「悲愴」に挑戦します。結構難しそうなので1ヵ月はかかるかも。
 
 
 

なんでも官邸団

2022年05月19日 | 日常の風景

作家・城山三郎が書いた小説に『官僚たちの夏』という作品がある。主人公のモデルになったのが“ミスター通産省”と呼ばれた佐橋滋なのはつとに知られている。彼は外交的で親分肌の異色の官僚だった。相手が大臣だろうが、財界の大立者だろうが、歯にキヌきせず直言した。

1960年代初め、政治家たちが資本・貿易の自由化に前のめりになる中で、佐橋は自由化は時期尚早だとして抵抗した。「おれのしていることは絶対に国のため、国民のためになる」という強烈な自信を持っていた。

2000年代に入ると潮目が変わった。官僚から主導権を奪い、政治主導ということが言われるようになった。小泉内閣のときである。その後安倍内閣は2014年に内閣府人事局を作り、官僚の人事権を握った。政府に直言する官僚は露骨に出世コースから外された。その結果、官僚は国民ではなく首相の顔色を窺い、忖度行政を行うようになった。森友学園に9億円の土地1億円で売却したのは好例である。

本来国民から選挙で選ばれた国会議員が、選挙で選ばれたわけでもない官僚を自由にコントロールすることは理にかなっている。しかし、それには政治家が国民のために働く「まともな政治家」ということが前提である。

しかるに、今の政治家は「個人の利益」を中心に動いているように見えて仕方がない。例えば、アメリカに逆らえば首相の座から追い落されると考えれば、日本国民の利益よりもアメリカの主張を受け入れるかもしれない。私たちが知る背後にどういう政治力学が働いているのか。

元外務官僚の孫崎亨は、「いまの政治主導のほとんど90%以上は個人または政党の利益で動いている」と書いている。また、官僚が国益を主張してアメリカと交渉していると、日本の政治家によって背後から「矢」が飛んでくるとも書いている(『出る杭の世直し白書』)。

今の日本は「なんでも官邸団」である。官僚は官邸の言うことを聞いていれば出世できる。いまや「官邸官僚」はエリートコースである。その結果、国民のために仕事をしたいと思っている若手官僚がどんどん辞めていく。「アベノマスクを作って配れ」だと? やってられるかあ!

せっかくの官僚の能力を活かしきれないのは政治家の責任である。かつて田中角栄が新人のキャリア官僚を前にしていった。

「頭は君たちのほうがいい。ワシを使って日本をよくしてくれ。責任はワシがとる。」

かつてのように政治家に物言う佐橋のようなタイプの官僚は絶滅危惧種となってしまった。


自由権と公共の福祉

2022年05月18日 | 日常の風景

憲法改正に関連してもう一つ気になることがある。それは「公共の福祉」の考え方である。

自由権には、精神的自由、身体的自由、経済的自由の3つがある。このうち「公共の福祉」が問題になるのは経済的自由に関してであり、精神的自由(憲法第19条、20条、21条、23条)および身体的自由(憲法第18条、31条、33,34,35、35,36,37,38条)の規定に公共の福祉は出てこない。

つまり、日本は基本的に自由な国なんだけど、こと経済的自由に関しては「その自由には制限があるんですよ」「あなたの自由はここまでですよ」というのが公共の福祉の意味である。要するに、ほかの人の人権との衝突を調整する原理が公共の福祉なのである。だから「財産権は、これを侵してはならない」(憲法第29条第1項)とあっても、累進課税が認められるのである(同第2項)。

ところが、自民党の改憲案では「個人の権利」に対して、それを上回る「社会全体の利益」「公益」というものが存在しており、それが公共の福祉ととらえられている。つまり、

  国家の利益 > 個人の利益

と考えられているのである。だからこの考え方は「国家のために個人は我慢せよ」ということであり、全体主義にもつながるものである。戦後、私たちがせっかく築き上げてきた「個人の尊重」という基本的人権思想を根底から覆すものといってよい。

そもそも、政治家は憲法というものが国家権力を制限するためにつくられたという歴史も知らないで、憲法を改正しようとしているのだから無茶苦茶な話ではある。第二次世界大戦中に、

  「ぜいたくは敵だ!」

という標語をある人が書き換えたという。

  「ぜいたくは素敵だ!」

日本が北朝鮮や中国、ロシアにならないことを切に願う。


憲法改正と社会契約説

2022年05月17日 | 日常の風景

 

自民党は2012年4月「日本国憲法改正草案」を発表した。この狙いを一言でいうなら

「国民のための国家」から「国家のための国民」への転換

すなわち明治憲法への回帰である。

現在の憲法の核心部分はジョンロックの社会契約説である。ロックは「国家権力は国民の自由、生命、財産を守るためにつくられた」と主張した。わかりやすく言えば、「人のために国があるのであって、国のために人があるのではない」。このロックの思想を一番反映しているのは憲法第13条である。

 「すべて国民は、個人として尊重される」(憲法第13条)

すなわちここで示されていることは、次のように表すことができる。

  国家 < 国民

 

ところが、自民党の中にはこの社会契約説が気に入らない人が多い。彼らは主張する。「国家があって初めて国民の幸せがある。その逆ではない。今の憲法はあべこべだ」。ウクライナを見てみろ。国家がなくなれば個人の幸せなんかぶっ飛ぶぞ!というわけである。

  国家 > 国民

だから、社会契約説全否定の憲法こそが彼らの理想なのである。そのうち、社会契約説は有害な説として学校で教えられない時代が来るのではないか。お国のために喜んで死んでゆけ。またそんな時代が来るのか。その前に教員をやめてよかったと思うこの頃である。

 

 

 


財務省の力

2022年05月16日 | 日常の風景

財務省(大蔵省)がすごいところだというのは小さいころから何となく聞いていた。私が初めてその権力の大きさを目にしたのは高校教員になってからである。財務省官僚による講演があり、講演会場に入るまでの「大名行列」がすごかったのに驚いた。そうか、これが財務官僚というものか。ずらりとお供を従える行列は、まるでドラマで見る大学病院の教授総回診である。

彼らの働きぶりは猛烈である。予算編成期になると1か月の「残業時間」は300時間にも及ぶ。国家公務員だから給料は高くはない。それでも頑張るのは「日本のため」であり、将来天下りが約束されているからである。大学教授、会社社長、特殊法人など多くの天下り先がある。社長になりたければ民間会社に入るよりも官僚になったほうが社長になれる確率が高いと聞いたこともある。

しかし、こうしたことはあくまで「外」から見た財務省である。つい最近、財務省の本当の力の源泉を知った。財務省はその権力を使って「合法的」にさまざまなことをできる。財務省は予算配分に大きな決定権を持っているだけではない。国税庁も財務省の管轄だ。さらには金融庁を傘下に従えており、銀行、証券、生保などの金融機関をもコントロールできる。

これらの権力を使えばどういうことができるか?

たとえば、国税庁は脱税を取り締まることができる。もし脱税がばれたら「修正申告」で済ますか、それとも「刑事告発」して所得税法違反などで犯罪人にするかは彼らの自由である。もし、財務省に敵対的な行動をしている人物であれば、犯罪人に仕立て上げることだってありうるかもしれない。その結果、誰だって財務省を敵に回したいと思わなくなる。

また、予算配分の権力を使えば、大学教授を取り込んで財務省に協力させることなど簡単にできる。財務省に協力すればその大学には多くの予算がつけられ、その教授の大学における発言権が強まる。そうすれば大学の副学長などのポストにありつけるかもしれない。大学の教師といっても学究肌ばかりの人ではない。ニンジンをぶら下げられれば話に乗ってくる人は少なからずいるはずだ。

閣議における席順を見ていると面白いことに気が付く。御覧のとおり、財務大臣(大蔵大臣)の席は総理大臣の二つとなりである。

(写真は小泉政権時代の閣議の様子)

 

また、総理の隣が法務大臣であることも注目だ。法務省も大きな権限を持つ。検察庁を通して基本的人権の根幹にかかわる決定ができるからである。同じような事件でも「不起訴」や「起訴猶予」になったり、反対に「起訴」されて有罪判決を受けたりすることがある。日本には「起訴便宜主義」といって、起訴するかしないかは検察官の判断に任されている。政府に協力的な人は不起訴にし、敵対する人は起訴して刑務所にぶち込むといった政治力学は働いていないのか。

「自由とは、国家権力を批判できる自由のことである。国家権力に賛成する自由はいつの時代にもある」。大学の憲法の授業で習った野中俊彦先生の言葉が忘れられない。

 

 

 


「小さな政府論」心に響く?

2022年05月15日 | 日常の風景

 

消費税がどんどん引き上げられる中で、「小さな政府」を求める声が高まっている。

無駄を削れ、公務員を減らせ!

よほど心地よく響くのだろう。

しかし、消費税が導入された1989年以来、27年間で消費税が14兆円増えた裏で、法人税と所得税がほぼ同額減少している。何のことはない。企業と富裕層の税金が安くなって、そのツケが消費税に回ってきただけの話である。消費税を導入して社会保障を充実させるなんて、昔どっかの政治家が言っていたのはあれは何だったのか。

政治家の言うことは広告代理店の宣伝文句と同じである。商品のいいところだけを強調し、ネガティブなことは絶対に言わない。「小さな政府」にすれば、社会保障が削られ貧富の差が拡大し、また19世紀に逆戻りすることは明白である。小さな政府とは「無駄を削る」ことだけだと思ってはならない。


経済成長と財政再建

2022年05月14日 | 日常の風景

 

累積公債残高が1000兆円を超えた。これをどう返済するか?政府が言うのは「経済成長による自然増収」である。これが実現できれば誰の腹も傷まない。理想である。

経済成長と税収の関係は、木の「幹」と「枝葉(果実)」の関係にたとえることができる。もちろん経済成長は「幹」であり「枝葉」は税収である。幹が丈夫に育てば枝葉も茂る。

問題は幹の育て方である。安倍内閣は「3本の矢」の一つとして「成長戦略」を打ち出した。中身は法人税減税、労働規制の緩和による賃金コストの削減、農業の自由化などである。しかし、こんな政策は単に大資本の利益拡大を狙っただけであり、成長戦略の名に値しない。

経済学的には、長期的な経済成長率は次の関数で定義される。

  長期的な経済成長率=F(人口増加率、資本ストック、技術進歩)

短期的な景気変動と長期的な経済成長を図示すると下図のようになる(図は松尾匡立命館大学教授作成)

 

問題は、財政赤字でねん出したお金を長期的な経済成長率を高めるために投資しているかどうかである。覚えるばかりの教育を施し、大学の予算を削り、少子化に何ら有効な対策をとっていないなど、どう見ても長期的な戦略は見当たらない。赤字予算は単に目先の不況をしのぐためだけに使われている。いってみれば、道路を掘り返してまた埋める作業を繰り返しているようなものである。

目先の不況を何とかするために財政赤字を重ね、「経済成長」によって「増収を図る」というのだから、根本的に考え方が間違っているとしか言いようがない。だいたい政治家というのは、次の選挙で自分が当選することしか頭にはなく、今日明日のことしか考えていないと思って間違いない。ある政治家が言っていた。「その先のことは、そのときの政治家が考えればよい」。

経済成長による財政再建。なんと心地よい響きか。財政赤字は今日も拡大する。


おかしなこと

2022年05月11日 | 日常の風景

おかしなことも、それが長年続けば普通となる。今日はそんなお話をいくつか書いてみたい。

① 党議拘束

 国会議員は法案の採決にあたっては所属する政党の決定に従うのが「党議拘束」である。違反すると次の選挙で公認を受けられなかったり、刺客を放たれたり、場合によっては党から除名処分を受けることもある。しかし、当たり前だと思っているこの慣行も、先進国の中でここまで締め付けがきついのは日本くらいである。党議拘束がなぜいけないか。

第一に、国会議員の自由な発言が封じられ、国会における活発な議論を困難にする。いくらその政党に属しているとはいっても、すべての案件で自分の意見が党と一致するということはあり得ない。

第二に、国会議員が採決における単なる「駒」扱いされる。要するに数合わせの一人でしかなく、知名度があって当選しそうな人なら「誰でもいい」ということになる。だから、政治のことも、憲法の「ケ」の字も知らなくても国会議員になれる。実際、次の選挙で当選できるかどうかが最大の関心事である国会議員は少なくない。だからこそ「党の顔」が重視されるのである。

第三に、党の決定に従っていればいいのだから、自分は政策について勉強をする必要がない。そのことは党トップの意向が党の方向性を決めることになり、「政治の暴走」「独裁」につながる。とりわけ、小選挙区制のもとでは、公認権を党が持っていることから、この傾向は特に強くなる。これでは中国やロシアと大差ない。

そのほかにも、選挙で「あんな人に政治家になってほしい」と「人で選ぶ」ということができなくなるという弊害もある。党議拘束は百害あって一利なし。即刻廃止すべきである。

② 三権分立なんて嘘のウソ

 小学校から大学まで、日本の権力は3つに分割され、互いに「抑制と均衡」を保っていると教えられる。そして、テストでは国会、内閣、裁判所が互いにどのようなチェック機能を持っているかが問われる。

しかし、これなども茶番である。法律の原案の8割は内閣提出法案であり(すなわち行政官たる官僚が作っている)、国会議員は法律をほとんど作らない。安倍元首相がかつて「私は立法府の長でもあります」と国会で発言したが、それは本音だったに違いない。マスコミも「政府与党」とひとくくりに表現してはばからない。行政権と立法権がほとんど一体化し、仮に行政が暴走しても立法権を持つ国会がそれを阻止できない構造になっている。

一方、行政権は司法権をも支配下に置いている。なぜなら、最高裁長官を内閣が指名することになっているからである(憲法第6条)。そのため、裁判所は政府寄りの判決しか出さない。もし下級裁判所が国策に反するような判決を書けば、当該裁判官は人事面で報復される。日本には現在約3000人の裁判官がいるが(簡易裁判所を除く)、彼らの人事を一手に握っているのが最高裁の事務局である。特に、原発や自衛隊に関して反政府寄りの判決を出すと次のような制裁がなされるといわれる。

 ・今後、裁判長には昇進させない

 ・降格人事として家裁送りにし、生涯を家裁巡りで終えさせる。

 ・給料を上げない。普通に出世した人とくらべて生涯賃金で1億円以上の損をする。

だから、これまで反政府寄りの判決を書くのは定年目前の裁判官が多かった。「その良心に従い独立してその職権を行う」(憲法76条第3項)という、せめてもの最後の抵抗である。

③ 教科書検定

これも家永訴訟で争われたものの、検定制度そのものは「合憲」とされた。その結果、小・中・高で使う教科書はいまだに国の学習指導要領に基づいて作られ、検定で合格しないと教科書として使えないことになっている。

では、ほかの国の制度はどうなっているのか? たとえば、ある研究者の論文に次のような記述があった。

イギリス、フランスでは検定制度はない。教科書を使用する義務もない。手元にアメリカの高校の教科書があるが、アメリカでも検定制度はない。民間の教科書会社がおかしな教科書を作っても、売れなければ生き残れない。だから、検定制度は不要だという論理である。

一方、隣の韓国では「国定教科書」が使われている。手元に韓国の中学校及び高校の教科書があるが、国が教科書を使って反日政策を煽っている記述がある。そんなこともあるためか日韓関係はなかなかうまくいかない。

教育は最大の思想統制手段である。北朝鮮・中国・ロシアを笑ってはいられない現実が日本にもある。(ちなみに今回書いたようなことは授業では一言もしゃべっていない。念のため申し添える。)


本当の主権者教育とは?

2022年05月10日 | 日常の風景

18歳以上が有権者となり、高校生にも主権者教育をしろというお達しが当時あった。教育現場では各政党の政策の違いを調べさせたり、選挙管理委員会から投票箱を借りてきて模擬投票を行ったりさまざまな工夫をしていた。しかし、今になって思う。それで政治に対する関心が果たしてどれだけ高まったか?

これまでの教育の基本方針は、露骨に言えば「子どもには政治に関心を持たせるな」ということであった。日本の社会では職場で政治の話をするのはタブーである。同じように、学校にも政治の話をタブー視する風潮があった。たとえそれが「政治・経済」という授業の中でも「教育の中立性」を盾に、センシティブな話題は避ける傾向がみられた。

しかし、本当に政治に関心を持たせる気なら、政治の制度や仕組みよりも、政治を動かしているダイナミズムを理解させることが大切なのではないか。

人間には「食欲」「性欲」「金銭欲」という三大欲がある。このうち政治を動かしているのはもちろん「金銭欲」である。日本の大企業は政治献金を通じて政治を動かし、アメリカのグローバル企業はロビストを通じてアメリカの政治を動かしている。

さらにアメリカは日本をはじめ世界の多くの国に影響を与えることによって、アメリカの国益・企業益を最大化している。必要があれば軍事力も行使する。もちろん、その多くは水面下にあって国民が知ることはほとんどない。

本当の主権者教育とは、表面には表れてこないこうした政治のダイナミズムを考えさせることではないだろうか。その際にポイントとなるのは、「この政策によって得をするのはだれか」という視点である。そうした視点から考えると、マスコミが伝える報道とは全く別の世界が見えてくる。

■ 新自由主義の下で競争促進政策ををとれば「得をするのはだれか?」

■ 非正規雇用を拡大させて「得をするのはだれか?」

■ 原発を稼働させることによって「得をするのはだれか?」

■ 行政権と立法権が一体化することによって「得をするのはだれか?」

■ 党議拘束をかけて締め付けることで「得をするのはだれか?」

■ 北方領土問題、尖閣問題、竹島問題など東アジアで緊張が高まれば「得をするのはだれか?」

■ TPPに加盟することによって「得をするのはだれか?」

■ ウクライナで戦争を長引かせることによって「得をするのはだれか?」

 

現役の教師だった頃、教室では可能な限り「ギリギリ」のところまで踏み込んで話をしてきたつもりである。しかし、今から思えば、まだまだ踏み込み不足だった気がする。進学校であるがゆえに、受験対策上仕方がなかったというのは単なる言い訳に過ぎないだろう。力量不足であった。

「その政策によって誰が得をするのか?」。もしそうした視点から授業を展開すれば、もっともっと面白い授業が可能だったのではないか。少なくとも生徒へのメッセージとしてその言葉を印象付けることができたら、政治というものにもっと関心を持ってもらえたのではないか。悔やまれる。

(ただし、そうした授業をすれば、私は確実に潰されていたような気もする。これはリタイアーしたからこそ言えることかもしれない。)