花はなぷりんのささやき

わたしのかんさつ日記

菅原道真

2012-03-14 03:53:43 | 日本

もう春ですね。桜がいつ咲くのやら、楽しみです。

各名所で桜の開花を心待ちにしていますが、市内で有名な場所に藤阪ハイツの桜並木通りがあります。山田池公園の近くですが、夏に行った王仁プールの近くでもあります。

王仁プール近くを通りかかったら、そう言えば「菅原神社」が2社、長尾と藤阪にありました。住所や建物にも地名に「菅原」「菅原小学校」と入っています。

長尾史によれば、「当社は、この辺りを拓いた領主・久貝因幡守正俊の子・正世が、慶安3年(1686)、新しく拓いた村の団結を図るべく山城の長岡天神の分霊を氏神として勧請した『天神社』がはじまりとあります。

長岡は、道真公が生前に在原業平らと共に、 しばしば遊んで詩歌管弦を楽しまれた縁深いところです。

菅原道真の天満宮(天神様)は、応神天皇の八幡宮と並んで人が神になったとされる神社で大きな勢力を持ち、数としては全国14000社ほどで神社数のランキングでは第4位になっており、菅原道真は学問の神として知られていますが、16万8千の水火雷電・風伯・毒龍・鬼神などが満ち満ちていて大水害を起こす、その総支配をされる神が天神(道真)で、風雨水火の支配神であったと伝えられています。

道真の天神縁起を調べると、菅原道真は幼い時から神童と称され宇多天皇に重用され、当時は藤原家に強力な人材がいなかったこともあり、宇多天皇は久しぶりに天皇親政を行ってその片腕として博識の道真をよく使いました。

宇多天皇は更に藤原家に政治が牛耳られないようにするためには自分が引退して息子を天皇に立て院として天下に指示した方がよいと考え、寛平9年(897)7月3日、醍醐天皇に譲位します。しかし、これが裏目に出てしまい醍醐天皇は何かと口うるさい道真を嫌い、自分と馬の合う藤原時平に傾斜して行きました。

そしてついに昌泰4年(901)正月25日、醍醐天皇は道真から右大臣の地位を召し上げ、九州の太宰府へ左遷したのです。

驚いた宇多上皇が宮中に駆けつけますが、門の所で待機していた藤原菅根が頑として上皇を中にいれず、宇多天皇は裸足のまま呆然と門の外に夜まで立ちつくしていたといいます。

道真は太宰府で半ば軟禁状態のまま失意の日々を送り、延喜3年(903)2月25日この世を去りました。

道真が追われた後、都では異変が相次ぎ、道真を追放した藤原時平が延喜9年4月に39歳の若さで死去し、4年後には右大臣源光も亡くなり、また宇多上皇を皇居に入れなかった藤原菅根も変死。更に時平の妹穏子と醍醐天皇の間に生まれた皇太子保明親王が21歳で亡くなり、2年後にはその保明親王と時平の娘との間に生まれた幼い新皇太子まで亡くなってしまいます。

これを世の人々は道真公が自分を追いやった時平公の縁者に祟っているのだと噂し、醍醐天皇も恐くなって道真を右大臣に戻す詔を出したりしますが、怪異は収まる気配がありません。

そして延長8年(930)の6月26日、内裏に落雷があって藤原清貫と右中弁平希世をはじめ何人もの殿上人と女官が雷に撃たれて死亡するという事件(清涼殿落雷の事件)が起き、醍醐天皇はショックで病に倒れ、3ヶ月後この世を去ってしまいました。

世の人は道真公は雷神になられたのであろうと口々にいいました。

清涼殿落雷の件から道真の怨霊は雷神と結びつけられ、京都の北野に北野天満宮を建立して道真の祟りを鎮めようとしまた。

以降、百年ほど大災害が起きるたびに道真の祟りとして恐れられ、こうして、「天神様」として信仰する天神信仰が全国に広まることになりました。

やがて、各地に祀られた祟り封じの「天神様」は、災害の記憶が風化するに従い道真が生前優れた学者・詩人であったことから、後に天神は学問の神として信仰されました。

この時、道真は遺言をし、自分の遺体を車にのせて牛に引かせ、牛が立ち止まった所に自分を葬ってくれ、と言い残しました。道真と牛との関係は深く「道真左遷のとき、藤原時平の命をうけて途中で殺そうとした刺客が道成寺近くで追いつき斬りかかったとき、突如現れた暴れ牛が角にかけたこれを殺した。この牛は道真が可愛がっていた牛で、左遷決定後姿を消していた。道真は大変喜んで、この牛に乗って心やすく旅を続けられた」などがあります。

在原業平といい、道真といい、藤原のお陰で闇に追放されてるわ。頭がよくて才能あったりすると、やる気があっても仕事につけないんじゃないかしらー。

天皇は自分を逆臣と決めつけ、弁明の機会すら与えれず、どうしようもない気持ちで過ごすし、道真の健康をも蝕んでゆきます。

そして道真は、無念の気持ちを抱いたまま、死を迎えました。 理不尽な処置で人を死に追いやれば、その怨霊はその罪を犯した人すべてに報復を加え、ついには国の最高責任者をも殺しかねないのだという認識が当時の人々の間にすっかり定着していました。

この時代は、医療も科学も発達していなかったし、怨霊のせいにしちゃうのね。雷が落ちて女官が死ぬって不可思議な話だけど、政権の争いも身内同士で戦う感じ。。。ね。

いつも、闇に葬ったら後で、怖くなって何処かに祀るのよね。権力争いから存在が邪魔でいじわるして、結果いい思いをしたあと、後ろめたくて心苦しくて、怖くなっただけじゃないの?死人に口なしだからって、怨霊扱い。いい加減にしてー・・・って言ってそう。

菅原道真と平将門、崇徳上皇の3人は日本の三大怨霊になった方たちで、有名です。こんなことで有名になりたくないわよね。

道真とYの誕生日が一緒なのは面白かったわ。承 和12年6月25日→平成12年6月25日

ご訪問、ありがとうございます。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿