花はなぷりんのささやき

わたしのかんさつ日記

島原・天草の乱

2011-10-14 15:25:11 | 日本
農民一揆で有名なものに、島原・天草の乱があります。この乱は、1637年~38年にかけて島原・天草地方でキリシタンの農民が中心となって、領主の圧政やキリシタン弾圧に反発して起こした一揆でした。大坂の陣から22年の後に起きたできごとでした。

3万7千人の一揆軍は、16歳の天草四郎を大将に、島原半島南部にある原城に立てこもり、幕府と諸藩の連合軍12万5千人と、激烈な戦いを繰り広げました。

1614年にキリシタン大名の有馬氏が転封となり、代わって松倉重政が入部しました。
重政は幕府への忠誠を示すため、江戸城改築の公儀普請役を受けたり、独自にルソン島遠征を計画し先遣隊を派遣したり、島原城を新築したりして、そのために領民から年貢を過重に取り立てました。
また厳しいキリシタン弾圧も開始し、年貢を納められない農民や改宗を拒んだキリシタンに対し残忍な拷問・処刑を行ったとされています。

江戸時代初期は幕府は諸大名の力を抑えるために、諸藩に本来より多い石高を設定していました。高い石高認定は、結果的にはそれだけの年貢を納める必要が出てくるため、最終的には農民にずっしりと重い負担が掛かってきます。

島原・天草の農民たちはこの重い年貢にたえかねていました。そして年貢を完納できない農民に対してしばしば見せしめにひどい刑罰が加えられました。
有名な「蓑踊り」とは、年貢を納められなかった百姓を蓑(みの)でしばりあげ、生きたまま火を付けるというもので、熱さのあまりもだえる様が踊っているように見えるということでこの名前がついています。

加えてこの地方は元々キリスト教信者が多い場所で、この追求も厳しいものでした。島原では改宗を拒否した信者を雲仙の火口に放り込むなどの虐殺がおこなわれています。

このようにして農民の不満が爆発寸前になっていた折りもおり、34年~37年までひどい凶作が続き、凶作でも年貢の量は変わらず、餓死者が相次ぎ、農民たちはもう進退窮まる状態に置かれていきました。

その不満を抑えていたのが、1613年にマルコス宣教師が追放される時に残した「25年後に神の子が出現して人々を救うだろう」という予言でした。
人々は神の子の出現に懸けていたのでした。予言の年、長崎留学から帰った四郎が様々な奇跡を起こし、神の子の再来と噂され、四郎の熱心な説教は人々の心をとらえ、評判は天草・島原一帯に広まり、遂には一揆の総大将に押し立てられたのでした。


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