花はなぷりんのささやき

わたしのかんさつ日記

寿経寺

2011-10-14 11:18:44 | 日本
お茶のお稽古にいくとき、お寺の前をよく通っていました。寿経寺というお寺で、前には「七稲地蔵」というお地蔵さんが安置されています。

安政の泣き一揆(あんせいのなきいっき)の、首謀者を悼んでお地蔵さんとしてお祀りしています。

金沢は一向宗が広く信仰され、農民主体の政治体系でした。前田利家の時代になっても、かなりの間、一向宗が力を持っていたそうです。この一揆は、卯辰山から、金沢城に向かって米の開放を求めて叫んだことが特徴的でした。

安政5年、その年は地震や冷夏、長雨で稲が実らず、飢饉でした。

米の値段が買い占めや売り惜しみで高騰し、庶民の生活は苦しくなっていき、また、この年は、コレラが流行るなど農民には辛い年でした。
番所に願い出ても聞き入れてもらえず、皆で殿様に訴えることになり、7月11日の夜から12日にかけて、老若男女約2000人が卯辰山に登り、城に向かって「ひだるい(ひもじい)わいやー」「食われんー」と大声で泣き叫びました。
卯辰山から金沢城まで直線距離で1.7kmですが、声は山下の重臣屋敷や御城の殿様にも聞こえました。

翌日、藩の御蔵米500俵が放出され、米の値段も下げられる命令が出されました。 

しかし、 卯辰山は金沢城を見下ろす形になるため、防衛上、立ち入りが厳しく禁止されており、また、当時は手続きをふまないで、直訴するのは重罪でした。
そのため、7月26日一揆の首謀者とし、7人が捕縛され、5人が打ち首、2人が獄死しました。

その後、地元の有力者や町の人々が、犠牲になった7人の供養のため、その功績を残そうと、稲穂を抱いた七体の地蔵様を建てました。

卯辰山(うたつやま)は、金沢城から見て東(卯辰の方角、正確には北東なのだそう)に位置することから名づけられ、宇多須山(うたすやま)、向山(むかいやま)、夢香山(むこうやま)と別名があり、七尾城攻めの際、上杉謙信が本陣を置いた際は臥竜山(がりゅうざん)と、名付けています。

この、米騒動の震源地とも言える場所が、卯辰山の、宇多須神社でした。宇多須神社には、以前、前田利家公が祀られていました。江戸時代、徳川家の力が強大になため、加賀藩では公然と利家を祀る神社の建立ができなかった為に、金沢城の鬼門の方向に鬼門鎮護の神社としてあった、卯辰八幡宮(現宇多須神社)を建立しました。
明治に入って1873年に利家は尾山神社の方に祀られ、その後、宇多須神社とよばれるようになったそうです。

今さらだけど、農民を打ち首にしなくても・・・って感じですね。食べるの苦しかったのだからね。

このお地蔵さんは以前は加賀藩に遠慮して「観音坂」というところにあったそうですが、今は寿経寺の門前に並んでいます。
このお寺は、なぜか代々尼さんが守っているそうです。

米の開放を求め叫んだこの一揆は、暴力を伴わなかったことで、現在のデモに通ずるものがあるとか・・・







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