祖父の故郷の、京都府久美浜湾の西部に突き出した大明神岬には、11の古墳があり、その中に、丹波道主命の墳墓があるといわれています。
丹波道主命は、四道将軍のひとりで、丹後平定を命じられ丹波に派遣され、12代景行天皇の外祖父にあたります。
『日本書紀』によると、崇神天皇10年(紀元前88年?)に北陸道に大彦命、東海道に、たけぬかわわけの命、山陽道に吉備津彦命、山陰道に丹波道主命が、派遣され、天皇の教えに従わない者があれば兵を挙げて伐つようにと四将軍を遣わしたと言われています。
大和朝廷より命じられ、丹後に入るのですが、平定に際し、前途の平安と大和政権の安泰を祈願して、丹後と但馬の国境である神谷の里、明神谷に、八千矛命(大国主命の別名)、天神玉命(賀茂一族の祖)、天種子命(天児屋命の子)三座の神々を出雲の国より迎え、神谷神社を創建されました。
丹波道主命の亡きあと、久美谷川の清流に沿う久美浜小谷の清地に社殿を造営し、常に腰につけていた神剣「国見剣」(くにみのつるぎ)を神魂(かみのみたま)とし、三座の神々を合せてお祭りし、以後「神谷太刀宮大明神」「厄除・方除の太刀宮(たちのみや)」と言われ、祀られているそうです。
また、丹波道主命の御剱「国見剣」から起こって「国見」が「久美」と訛り、久美浜の地名となったと言われていて、近畿一円を見ても、丹波道主命を主祭神として鏡座する社は外になく、この神谷神社が主祭神として丹波道主命をお祭りしている全国唯一の社であるとされています。
神谷神社の境内の一角には巨岩、奇石がならび、これが古代に崇敬された「磐座(いわくら)」で、社殿祭祀以前に神様をお祀りし女人禁制とされた磐座もあったそうです。もとは、神谷小字明神谷に祀られていたが中世の頃、戦乱のため社屋が破壊されたので現在地の太刀宮(たちのみや)に合祀されました。
祖父は昭和22年に亡くなっていて、父も当時はまだ14歳でした。父には戸籍上、3っつ上の兄がいましたが、5歳で亡くなっています。祖母は、京都が好きだったようで、お墓は京都がいいと、皆、金沢にいるのに、こっちに建てることになりました。当時は、父も京都が恋しくて本籍はずっと、京都の久美浜になっていました。
私が結婚するときまでずっと、本籍はそのままだったので、結婚するときは取り寄せたりで、ちょいと面倒でしたね。田舎だから・・・。
私の結婚のときに、もういいよねって、やっと、本籍を金沢にしたくらいです。何処かに自分と京都をつなげておきたかったのかな?って思うケド。
でも、お墓に参るのは、子孫だから買うときに「金沢に買ったら」と言った、母や母の祖母の言葉に祖母はすごく怒ってたらしく、怒り方が尋常じゃなかったので、間に挟まれた父母は大変だったそうで、夫婦喧嘩も多かったようです。
結局、揉めたけど、京都にお墓を建てることになりました。本当は母は父の名前で建てたかったそうだけど、祖母の名前で建ててしまいました。隣には、祖母の妹の家のお墓があります。姉妹で一緒に買っていたかったのかなぁ。気持ちはわかるけど、子孫は年に何回しか来れません。ばぁちゃん、時の流れを大切にできたらよかったねって思います。
お墓は、女の名前でなく、男の名前で建てた方がいいと母は言ってました。その家の当主となる者が墓守をして、先祖を敬い代々に受け継いでいくことで、祖先の霊が鎮まり、栄えるって。母の考えで、どうかはわからないけど、私もそう思います。
だから、本当は父の名前にしたかったけど、祖父は京都市内で、タクシーがまだないころ、人力車で稼いでいて、ギャンブルしたり、飲み歩いたりして、祖母をよく泣かせることしていたらしく、祖母も裁縫の内職でやりくりしていたました。祖父は叔母が、お腹にいるときに、胃潰瘍から体を壊して亡くなって父親らしいこともせず、死んじゃったから、無責任だと思ってたのかもしれませんね。胃潰瘍なのに、お酒をやめられず、消毒用のアルコールまで飲んでいたのだそうです。
祖母は、旦那が死んで、出産し、乳飲み子抱えて、上の3人を食べさせてって、大変だったと思う。だから、自分がこの墓を建ててあげたよって思いたかったのかも。
なんか暗いかな?今日の記事。すいません、読まないでいいです。
人間は生まれて来るときは、何も持たずに生まれてきて、あの世に帰るときも何も持たずにいくのだから、この世に死んだあとの自分のことについて、執着は持たない方がいいかなぁって思います。
だから、できたら、子孫に任せるか相談して決める方がいいでしょう。。。ね。
今は自然に帰りたいという意味でか?自然葬もされてる時代ですからね。
今日もご訪問をありがとうございます。