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花はなぷりんのささやき

わたしのかんさつ日記

三男・要蔵

2011-12-27 13:42:39 | 家族

銭屋五兵衛のことを長く書き込んでしまいました。誤字脱字があったと思います。
ここまで、読んでいただいた方、長くお付き合いいただいてありがとうございます。
長くなったのは、松林がいっぱいの金石の集落にひっそりと設けられている、「銭五公園」が私の実家の近くにがあるからです。

町の人が、銭屋五兵衛の偉業を讃えて、高い台座の上に銭五の像があり、今もそびえるように、海岸を見つめています。

私の今の実家は、昔、宮腰と呼ばれた金石です。

幼い頃は、兼六園よりもっと山手の涌波や小立野の方に住んでいて、本多町や香林坊は、中学・高校の時にお庭のようにして、通ってました。でも、その頃は興味なくて金沢城の由縁とか、全く知らずに素通りしてました。

私たち家族は、徐々に、山から海辺へとお引っ越しして行きました。山手に住んでのは、多分、母の実家や妹の家が近かったからだと思います。
父の勤めていた会社が海に近かったので、だんだんと降りていくようになりました。

だけど、今の家は私が関東に行っている間にゴタゴタの末に引越しして半強制的?に入居し、、、関東から帰って来たら家が変わってたのでした。
引越す前までは、もうちょっと町中の8号線の近くの金石街道沿いにいたのです。

なんで引越しになったのかというと、私もよく知らないけど、うちのお母さんは、不動産のブローカーみたい?仲介業のようなことをしていました。
その頃は、バブリーで景気もよかったので、お母さん、いろいろとやって、内縁の妻状態であっても、時代だったのか?家もローンだけど買ったり、家賃収入も見込めるからって、勿論ローンで中古のアパートも買ったりしてました。

だけど、家を買ったことで父の会社が倒産した時に、母の実弟から借りたお金も途中にして買ったので、これが原因で弟と同居していた祖母とは「縁を切る」と言われて疎遠になってしまいました。弟のお嫁さんが銀行員だったこともあり、母のようなどんぶり勘定的な発想の人は、嫌だったのかもしれません(^_^;)

持家に高校生の頃、引越したのだけど、私が勤めて、転勤となり関東に行き、父と三男の兄も、関東で仕事に行ってる間に、お母さんの仕事の資金繰りが悪くなり、騙されたような形で印鑑を押したら、銀行にアパートと家とを押さえられちゃって、出て行くことになったらしいです。
長男の兄と次男も、その頃、家を出てたので事情はよく知らないかもしれない。

この引越しの前後に、一番、辛い思いをしたのは、三男の兄だと思います。


父と三男は、似たところがあって、仕事に集中するあまり、お金の管理は面倒くさいタイプだから、兄は最初、お母さんに安心して預けてました。
最初というのは、うちの兄は、3人とも、定時制の工業高校に通っていたので、15歳でも、私にしたら大金を持っていました。

あ…兄が皆、定時制に行ったのは、勉強が好きじゃなく成績もよくなかったこともあると思いますが、父も高校に行ってないし、家業を早く手伝って欲しかったのもあると思います。でも、それ以前に勉強を落ち着いてできる環境の家庭じゃなかったのもあると思います。

勉強に取り組もうという気持ちは、家庭内が不安定だと、子供の気持ちも、毎日が雑になって、机に向かっても明るいものが見えず、勉強に意味を感じられなかったのじゃないかな…と。
内縁だけど両親がいて、それは、有り難いことなんだけど、子供の心にはやっぱり、抑えられてるようなすんなり行かない気持ちや高校に行ったときの費用とか、親の実情を側にいて、わかる年で知ってるばっかりに考えると、勉強へのやる気は出なかったかもね。
だから、親に負担のかけない定時制に決めたんだと思う。一番上の兄がそうだから、みんな一緒って感じかな…。ある意味仲良し

私だけ、脳天気に昼間の高校に通わせてもらったのでした。ごめんね。兄ちゃん達。ありがとう。

三男の兄の話に戻ると、お金の管理を母に任せてたら、本当はあるはずの貯金が、母も資金繰りのために株関係の友人が茨城にいて、投資話に乗って「今に大きいお金が入る」って言葉に乗ったら、入らなかったという。その資金として、兄の秘かな蓄えを母が勝手に使い込み、三男の兄は、お母さんと喧嘩して、暴れもしてました。そりゃあ、勝手に使われたら怒るよね。
三男の兄だけじゃなくて、私も働きに出て、貯めた定期預金を勝手に印鑑押されて、なかったことがあるんですけど、三男の兄に比べたら可愛い金額です。

長男の兄や次男の兄は、どうだったかわからないけど、この頃のお母さんは、お尻に火が着いてたのか?
三男の兄に頼まれて、私が内緒で通帳作って銀行に預けても、いつの間にかなかったり、もらった高校生時分のお年玉も、引き出しから持っていくほどだったので、ちょっとお金のことで病んでたと思います。でも、そのお年玉も親が他の親戚にあげるからもらえるのですけどね。ようは、親のお金でもあったのだけど・・・

バブリーなご時世もあったのでしょう。
今となっては、昔のことだし、仕事が上手くいかなくなっての大きな火傷と、私は思えます。親も子供のお金を持ち出すなんて、したくないのだろうけど、支払に困ると、見境がつかず、身内はわかってくれると思ってか?手をだしたのかもしれません。若いころは、自分の欲しいものや遊びに行くためのお金や、将来のための蓄えと思って、貯めていたお金がある日、突然に消えて悔しかったりしました。親は謝るだけで、返すの忘れたりしますから。
情けない話、結婚するときの仕度もギリギリだったので、結婚前はお金にギスギスしてて、親にお金を貸してって言われても返って来ないから嫌でした。親に全て用意してもらって嫁いでいく友達を、羨ましいと思うこともありました。

だけど、親になってみると、子供を4人も育てるって大変だとわかりました。多分、私たちにかかった育児のお金の方が、貸したお金よりかかっているだろうし、手間もかかって大変だったと思います。

母の場合、不動産なんて手を出さなければよかったのだけど、父の会社の倒産時の借金があって、お金で大変だった分、儲けてラクになりたかったのかもしれません。だけど、こうして年を重ねて小さくなっていく、親の背中を見ると、それも遠い昔のことのようです。お金のことを根に持っていたら、親との過ごす時間がマイナス的なものとなっていると思います。年老いた親との、今の少しの時間も嫌な気持ちを向けたくないもので、多分、兄もそうだと思います。

親が元気だと甘えみたいな欲もでるのかもしれなくて、くどくど言った時期が兄にもあったかもしれないけど、今の家に越してからは、母も、もう観念したというか大きな話には危険が伴うと学び、憑きものが落ちたかのようにおとなしくなりました。金欠のときは、申し訳なさそうに借りに来るようになって、勝手に持っていくこともなくなりました。

結婚するときも、父はありのまま「事業の失敗があって、嫁に出すにも十分なことはできません。」と、旦那の親に頭を下げてくれて、お金の厳しい中でも、親としてし、できる範囲で精一杯してくれました。今も母はそうで、はっきり言って、比べるのはダメだけど、年金と退職金でゆったり暮らしてる旦那の親よりも、孫に何かと送ってくれるのは、やっぱり情の大きさと、お金に失敗してもそれを越えてきた年輪の多さかな?と思って、親には感謝しかないです。

ですが、三男はいつも、家の尻拭いのような役をうけおって、嫁に出た分、実家にはなくてはならない人となり、あんまり、自分のことを考えようとさえしない気がして、心配してます。結婚しないのかなー。相手いないとできないな^^;

長男は覚えてないかもしれないけど、長男の兄が中学に入る時に、母が近所の新聞販売店に夕刊の配達をしないか言われて、長男はやりたくないと言って断り、すると次男に話が行き、次男も嫌だからと言うことで、結局、三男がすることになり、本当は小学生は働いちゃダメなのに、多分、三男も嫌だったのに、学校が終わってから夕刊を配ってました。
余り記憶がないけど、雪の中、長靴履いて私も手伝ったことがあります。だけど私は毎日、やってた訳じゃないです。三男の兄は毎日して、子供だから間違って違う家に入れ注意されたりで、嫌な思いもしただろうし、小学5年だから、遊びたかっただろうし、手伝ってたときに同級生に会ったことあって、冷やかされたりで、多分、見えないところで苦労してる人です。
定時制を卒業、するときに父の下で働くのやめたいって言っても、長男や次男は辞めて行ったのだけど、三男だけは辞めさせてもらえませんでした。
父には、三男しかいなかったからです。
40代後半の職人堅気の父は、口より手の人で、口で教えることが面倒くさい為に、忙しいと特に言葉が乱暴になって帰って来ます。
だから、忍耐強くて父の動きを阿吽の呼吸でわからないと、側にいるには続きませんでした。

三男の兄は、どちらかと言うと母方の祖父に似ています。私は祖父の記憶はないけど、祖父が生きている時に、孫の中で三男だけ、祖父が膝の上に抱いたことがあるほど、気に入ってたそうです。性格もマイペースながら、忍耐強いですから、仕事となるとせっかちな父に、ついて行けるのは、三男しかいなかったのでしょう。
そして、今の実家は母の仕事の失敗で、不動産を全て手放すことになり、持家も出なくてはならなくて、その際に、父が社長の弟を頼ったようで、今の実家を会社の名義で社宅として借り、そのまま住んでいました。

が、父の退職に伴い、会社から出て行くか自分たちで契約を更新してくれと言われて、しばらくの間は、借家として入居してましたが、家主が今の家を買ってくれないかと言う話が浮かび、父は仕事をやめたところだったし、過去の事故もあるために、ローンを組めないから三男の兄が購入することになり、そのまま、とどまることとなっています。
実家が三男名義になったのは、私が結婚してからの話です。

今は里帰りができる、貴重な私の実家なのですが、何だか流れ流れてついた家で、父や母にしても自ら好んで入居した家でもなかったし、三男にとっていいものかどうかわからず、購入の話は少し迷いもしたようです。

でも、引越しも費用がかかるし、状況的に動くのは無理だったため、三男の兄も「仕方ないやろ」と言って契約してもらったのでした。

三男は、兄弟の中でも粘り強い頑張り屋さんで、口数が多くなく真面目で猫がやたらと好きな兄です。昔っからシャイで感情を出すことに、不器用なところがあって、友達もそんなに多い方じゃありませんでした。頑固で気が強いところもあり、それが男らしい性格とも取れそうだけど、弱みを見せたくないところが子供のころからありました。

それに加えて、中学を卒業した直後に名前を騙られて、申し込していないのに、レンタルビデオの会員なりすまされて借りてもいないのに名前を使われたことが2,3件ありました。

ビデオショップの内の1件は口頭で確認を取っただけで「こちらのミスですね」って言ってくれたけど、もう1件は店まで来てと言われ、三男が一人で行って、最後のレンタルショップだけ「返却しろ!嘘を言うな!警察に言う」と喧嘩ごしで、怒鳴られて、必死に子供ながらに「それは、俺じゃない」と電話口で言ってもわかってもらえなくて、私、電話の隣で泣いてた記憶があります。

最後は、長男の兄と二人で行ったのかなぁ・・・潔白を証明されたから忘れてしまいました。

あの時代は、中学生でも生徒手帳って簡単に名前を書きかえられるものが、身分証明だったので名前を利用されてしまいました。後で、部屋でみつけた住所の載ってた、卒業アルバムを三男、マジックでぐちゃぐちゃに塗りつぶしてました。

悔しかったのだと思います。私だったら、親に言うだろうけど、三男の兄は言わなかったです。母は、そんな事件があったこと最近まで知りませんでした。男の子は、喋らないんですね。心配もかけたくないし、かっこ悪いってあるからかな?

そんなこともあって、三男はちょっと用心深く、思い込んだらカッとなるところがあるかもしれません。

叔父の会社で働いていたのが、従姉の婿の新社長とぶつかってしまい、やめてしまいました。父が亡くなる2か月前のことでした。

会社は、父が興した会社が倒産しそうになった時に弟が建て直して自分の会社にしたりしたことで、父がいるころからややこしかったのですが、ある日、上から経営中心の新社長に、何かと言われてカチンと来たいで、母に聞いたら新社長の売り言葉で「やめろ」と言われて、やめてしまったそうです。
新社長は、従姉のお婿さんで元々は経理が仕事の人でしたが、仕事を覚えて現場も意見するようになりました。

ですが、三男は若くても十代から仕事をしているので、技術は上の先輩で、仕事の準備や流れは自分なりのスタンスが出来ていたところに、急に体調不良から前社長から新社長体制に代わり、最初の内は上手くいっていても、数年経って社長らしく変化して来たのか、喧嘩しちゃったみたいです。

父のように、定年退職なのにクビになったわけではないので、それなりの退職金をもらってやめました。が、その中には会社から天引きされて積み立てていた通帳を、叔母に預けていたら使い込みされたりしたお金も入っているのだそうです。苦笑

父に似て、人がいいのか、利用されやすいのか、心配な三男の兄です。

なんか、銭屋五兵衛から「おつかれさん」って言われそうですね。松の木には、磔になっていませんが、家にはりついているし^^;

まだ、持家だったころ、私が車を買おうとして、両親の言うままに車屋さんにつれていかれたのですが、最初は中古ならどこのメーカーでも扱うと言っていたのに、調べたら欲しい車は見当たらないからって、そのディーラーの新車をすすめられて、親が営業の人と付き合いが長いからって買うことになり、私は「好きな車以外を買うのいや」って言ったら、三男の兄に行ってしまい・・・

当時はもっと、他に買いたい車があっただろうに、三男の兄が乗る羽目にあったのも、マツダのファミリアでした。苦笑

要蔵が磔になった松の場所は、はっきりとはわかりませんでしたが、どうも、今の実家周辺にあったらしいです。実家の住所の歴史をしらべると藩政時代に松林や桑畑だったそうで、明治になってから家が建ちならんだというし、

母に聞くと、隣の隣は火葬場だったと、どっかのおじいちゃんが言ってたと聞いたのでので余計です。あはは^^;

処刑された松の写真は残っていて、とても大きな立派な松でした。要蔵の墓があるという、海月寺も、金沢にいるとき家の側ですから何度も前を通っていました。

三男は、一番親の側にいて、親を経済的にも、父の仕事でも助けた兄です。

親が、困っているときも、親に思いもかけないことをされても、じっと耐えいました。うちは、経済的にいつも親を頼っていけない状況だったので、自分のことにいっぱいいっぱいだったけど、三男は、子供が親を助けるって、普通ならば逆のことをとても幼い頃からやっていました。
それも、兄弟の誰もが親のいうことに応じたくなくても、三男だけは「仕方ない」と言ってやってのけたのでした。
父の面子、母の面子も、三男は立ててたんですね。
最後まで、父の側にいて、空調の仕事を側で学んで、父を助けて技術を一番、受け継いだのは、三男でしょう。ダクトの免許も、仕事が終わって、一人で練習して受かりました。
父も母も、どれだけ三男の兄に助けられたことか。

私も、結局、車を兄に押し付けたことになるかもしれない…ごめんね。

家の要になった、三男は来るものを受けるタイプになってしまって、どちらかと言うと、積極的な行動を起こすのが苦手な癖がついたように思います。それに、家に長く親といるから、独立心も引っ込んだようになったかも…。
それも、家族の穴埋めになった上でのことかな。ごめんね。
父が亡くなったとき、一番、つらかったのは三男の兄かもしれません。
長い間、一緒に仕事をしてて、いいときも悪いときも、ウザイことあったけど、いつもいた父がいないのは、心に穴が開いたようだっただろうし、仕事をやめた後だったから、父のことと、仕事のことと、家のこと考えたかもね。
三男の兄は、猫が好きでいつも猫と遊んでます。あんまり、愚痴も言わない代わりに猫と遊んで気持ちを紛らわしているかのようでした。
一番、肩が重かった時期があったかもしれなくて、ごめんね。兄~としか言えないな。今は長男の兄も家にいるし、仕事も一緒だから、何となく安心。不器用だから、場に溶け込むのに時間がいりそうで・・・でも、素直で子供がそのまま大きくなったみたい。

って、こんなの読まれたらこっぱずかしい。

よく、母が言ったのは年子だから妹じゃなくて同い年の兄弟みたいだって。どーゆことよ(^_^;)

だけど、誰より両親の側にいて、助けてくれてありがとう。
要蔵は、キリストみたいけど
もう、兄も松からはずれてほしいわ(´Д`)あー。車は随分前に、マツダじゃなくなってます。
なんちゃって。

長々とすいません。

今日もご訪問をありがとうございます。 


門中:父系の血縁集団

2011-09-18 09:04:50 | 家族
安室ちゃんの安室は、お父さんの方の苗字なんだそうです。
何でも、離婚はしたけれど、お父さんは沖縄で名家とも言う、いいところのお家の方なんだとか…。

恵美子さんのお母さんは、戦後に基地内で働き、そこで知り合った外国人男性と恋に落ち、結婚せず女手ひとつ、産み育てたそうです。
恵美子さんは、お父さんは最初から「いない」と、言われて育ち戦後に、顔立ちや髪の色など、ハーフであることで、随分と差別も受けました。

また、今と違ってシングルで出産するなど、認められていない時代、世間から白い目で見られる逆風の中、お祖母さんは恵美子さんを育てて来られたようです。
そんな状態でも、お祖母さんが、気丈なしっかりした人で、何て言われようとしっかりと子供を育てて、生きていこうと思う、女性だったのでしょう。沖縄女の生きることに?強い思いを受け継いで来たのが安室ちゃんだと思います。

沖縄は、家族ぐるみ、親戚一族の繋がりが強くて、親戚一同の一族一門のことを「門中」と言い、父系の血縁集団(主に父方の親戚)のことで、沖縄の社会を語る上で、門中を抜きにしては成り立ちにくく、非常に重要な役割を持っているそうです。
門中の主な役割は、共有する門中墓を維持管理し、門中の神人(オコデ)などを中心に、先祖祭祀を定期的に行うなどの他に、一族として、日常的な交際や扶助といった場面でも重要な役割を担っているのだそうです。
また、日本本土では、家の継承においては婿養子による継承も許容されるのに対して、沖縄の門中は父系血縁による継承を貫こうとする強い志向があります。
養子を取る場合にも養子同門制の原則に固執することを特徴とし、そのため、例えば他門中の出身の娘婿が家や位牌(トートーメー)を継承するとタチイマジクイ(他系混交)の禁忌に抵触するとされるのだそうです。

うーん・・・安室ちゃんのおばあちゃんは、やはり只者ではないですね。このような地域の風習が色濃く、父方の血縁集団を重んじる中でシングルマザーで恵美子さんを産み、育てたのは、経済的にも精神的にもとても大変だったと思いますし、恵美子さんも、戦後わずかしか経っていない時、米軍の子供とか、嫌味など言われたかもしれず、嫌な気持ちもきっとしたでしょうね。

恵美子さんは、安室ちゃんのお父さんである人と、就職で埼玉県に住んでいた時に、知り合って結婚したとありました。
タマタマ?沖縄生まれの人と知り合って、恵美子さんは結婚して、3人の子供を授かり安室ちゃんが、一番最後に生まれました。

安室ちゃんの元旦那のサムさんも、埼玉出身の方で恵美子さんの著書にもそのことが書かれていて、サムさんの実家の病院も知っていて「偶然」みたいな内容だったと思います。

著書の「約束」は、随分前に図書館で借りて読んだので、余り内容を全て記憶していませんが、恵美子さんの離婚の理由は、何か曖昧なイメージで、誰かを気遣っているように感じました。
抜け出るように家を出たとあって、でも、子供のことでは何かと連絡を取る…?子供3人もいて、仲が多少縺れても、うむむ…
考えられるのは、安室ちゃんのお父さんの方の家族と上手くいかなかったのかなぁ?とか…。

相手が家柄などを重んじるような、家族であれば、夫婦仲がよくてもちょっとのことで、何かと干渉も入りやすく、それが元でいらぬ噂や誤解から、壊れたりもしそうです。
ハーフで、父親がいないことを、よく思わなかった親類や恵美子さん自身の劣等感もあっての、色々と説明しにくい理由からの離婚だったのじゃないかと思いました。

恵美子さんが晩年に嫁いだ、平良家も土地や湾の地名になるほどですから、歴史のあるお宅だったのでしょうか。

事件を起こした弟さんと彼女には、2人の子供がいました。もし再婚となったなら、その子供たちを連れて家族になるはずでした。事件の半年くらい前、恵美子さん夫婦と弟さんカップルとで、食事にも行き仲はよかったそうです。

それなのに、どうして結婚に反対したのか・・・と考えると、ご主人と恵美子さんは「家柄」を思って力んでしまったのかもしれないですし、お母さん魂が働いて結婚となると、弟の嫁としては迎えたくないみたいな気持ちになったとか・・・。

弟さんも結婚を認めてほしいほど、恵美子さんを長男のお嫁さんとして、信頼して重要に思っていたのだと思います。

どうでもよかったら、大人ですから勝手に結婚してしまえばよかったのでしょうからね。
家や家族を思う余り、色々な感情が絡んでの事件だったように思うのでした。

でも、安室ちゃんのお母さんは、自分の実家や子孫に拘ることなかったのですね。離婚後もお子さんたちの姓もそのままにして、晩年、平良恵美子として生きたのも、そこらへんが切符がいいというか、思い切りがいいというか、結婚したらそこへ身を置くと言う、昔からの妻として嫁としての生き方を感じます。

安室ちゃんは離婚後、当初は、親権はサムさんで、養育権を安室ちゃんが持っていたそうです。それが2005年に親権も移り、姓も安室になったらしいので、ここは、お母さんとは違うのでした。現代風なのかな。

それにしても、この「門中:父系の血縁集団」というのは、皇室典範の「男性皇族にしか皇位継承を認めていない」に似てますね。

でも、父親を尊敬する気持ちは大切ですし、私は子供の頃などは水面下で、社会からの影響を受けてるような気がします。

今日もご訪問をありがとうございます。

おじいちゃん

2011-09-13 14:22:36 | 家族
夏休み、実家に帰り母方の方のお墓参りに行きました。母が実家と疎遠になっていたので本当に久しぶりです。
母の父親、私の祖父は私が一歳の頃に亡くなり、兄たちは覚えているようですが、私は記憶にありません。祖母の家の遺影でしか見たことありませんが、人のよさそうなおじいちゃんです。
母の実家は、一件、しっかりと代々、根付いた家のようですけど、色々と込み入った家であることが大人になってわかりました。

今は余り知られていませんが、昔は「足入れ婚」と言われる「お試し期間」結婚がありました。
嫁いだらそのまま、普通は嫁として迎えられるはずですが、曾祖母と嫁いだ先の姑の仲が悪かったようで、「足入れ」期間中を理由に祖父を妊娠中で、紛れもなく実の子供でありながら、実家に帰されてしまい、祖父は生まれながら、家に父親のいない子供になってしまいました。
この時代、親の言うことは絶対で、婚家の姑の力は絶大だったこともあって、曾祖母は出戻り、その後、勧められて再婚し、祖父を置いて他家行き、祖父は実家でじいちゃんとばあちゃんと、長男夫婦に育てられたそうです。

認知はされていたものの、曾祖母は嫁いで名前は変わっているし、祖父は宙ぶらりんな感じです。
村の中には、父親がいて本当ならばその家の長男だったけど、お母さんが気にならなれなかった為に、親の意思が働いて、婚外子になっちゃいました。
曾祖母もなかなか生まれなかったところの一人娘ということもあり、気が強かったから、姑と上手くいかなかったのでしょうが、妊娠したまま帰されてしまって…。
その後、追い出された家に嫁が来て子供が生まれ、祖父は本当はその家の長男なのに、同じ村に異母兄弟がいたり、現代なら「足入れ婚」って結婚もせずに離婚するみたいな、変なこと認められないでしょうけど…昔の田舎の村の中では、ポツポツあったようです。

昔、女性は男性や家の世継ぎの為の道具というか、この女がダメだったら、次、また跡継ぎ生む、元気な女を後妻にもらえばいい的な発想が同じ女でも、姑の中にも使い捨てのように思ってる人も、結構、いたようです。
また、男にしてみたらやっと自分の好きなようにできる、性欲を発散できる、夜の相手する嫁が来たってことで、性的な捌け口の対象を旦那に期待されての結婚生活を強いられたお嫁さんもいたりしたようです。

婚家は、強いから嫁は一緒に食事させてもらえないとか、夜の相手はして、子供は作っても、姑から叱責されてようが、息子は庇ったり口出ししない、出来ない、嫁は産後の体であろうが働かなくてはいけない虐げられたような環境もありました。
昔は、楽しみ、お酒と女しかない中で、家長である親が強いと息子は、夜しか楽しみなかったんでしょうか?こう、書くととても動物的ですね。
しかし、父の祖父の兄弟にも、キミさんと言う方がいるのですが、この人も大阪に嫁いで子供ができず、体を壊してしまい、実家に戻され、その後に亡くなったそうなので、女は消耗品みたかったのですね。
女性の立場を主張する、ワイドショーの人は、こんなふうに惨めな思いをしたくないと、代わりに主張をしてくれてるのでしょうか…

ひとつも、愛情がなかったわけでもないだろうけど、自分のお嫁さんなんだから、何とかして守ってほしいもんです。
親を大事にしなくっちゃって思いは、わかるのだけど縁があって夫婦になったのだし、親より夫婦の方が長く一緒にいるのですからね。

祖父は、どういう気持ちでいたのか、わからないですけど、同じ村に父親や異母兄弟がいて、どんな気持ちで受け止めて、子供時代を過ごしたのか…と、思うとつらいものがあります。
曾祖母も、気は強いと言っても、こんな目に遭うなんて思ってなかっただろうと…。
婚家の姑の一存で、認知はされても、そんな問題なのか…我が身内の話ですが、気の毒です。

先日、実家に帰り、母が祖母の遺品を整理していたら、軍服姿の祖父がいました。第二次世界大戦前の戦争に行ってたらしいです。

伯母が言うには祖父は「細かいことに拘らない、観音様みたいな人」って言ってました。
確かに、寡黙そうだけど優しそうです。
母が算盤を習いたいと言って、家計を理由に、祖母に反対されても、行きなさいと言って習わせてくれた話を聞くと、優しかったのでしょうね。

祖父は、実の親と別々に生活して寂しい日があっても、優しそうな人だから、きっと、じじばばと長男夫婦の下で、よくしてもらったんだろうなぁと思います。

また、自分の出生に嘆くことなく、その事情を受け入れて、新しく家庭を築いて命を繋いで、この世を去った祖父の思いを大事にして行こうと思います。

出生を苦にされる方も、時々、いらっしゃるようですが、親に縁のなかった方ほど、その寂しさを理解できて、人や家族に優しくなれる方なんじゃないかと思います。

うちの父は、早くに父親を亡くしたせいか、男親が珍しくて、義父でも一緒に話をするのが嬉しかったようで、亡くなる、数日前に話の流れで母を「頼むよ」と、言われてから亡くなったので、ショックの余りメソメソ泣き「葬式出たくない」と、母に言って手こずらせたらしいです。
祖父は、父にとって父親を早くに亡くして、父のいない気持ちを理解してくれた、良い義父であったのでしょうね。

今日もご訪問をありがとうございます。

夏休み~

2011-07-29 00:24:44 | 家族

そう言えば、夏休みですね。
チビ雄は、今日、近所のお友達と一緒にむしとりに行き、蝉を22匹も捕まえたよ~と、自慢してました。
虫かごの中に22匹…。見てないけど、想像しただけで寒い光景(;^_^A
捕まえたあと、逃がしたからよかったけど。
「だって、1週間の命だから、可哀想だもん」だって。よくわかってるね。そうそう、キャッチ&リリースで楽しんでください。


LUNA SEA、さいたまアリーナで大規模チャリティライブ

2011-07-14 08:48:50 | 家族

ルナシーは、今年10月22日に大宮の[さいたまスーパーアリーナ]で、チャリティライブをするそうです。収益金は日本赤十字社を通じて全額が被災地に寄付されるそうです。すごいなぁ。
大宮は、転勤で埼玉にいた頃、金沢に電車で帰省する際に出たなぁ…そう言えば。

埼玉の思い出は、あまり覚えてない…。
一人暮らしをしていたアパートと、会社の往復で休みの日は、何をしてたのだろう。休みを使って、大昔の彼氏のところに遊びに行こうと思っていたけど、転勤して2ヶ月で色々とあったので、計画が崩れまくってました。
大昔の彼は、当時、日立市にいたので志木から東武東上線に乗って、池袋で山手線に乗り換えて上野まで行き、常盤線特急「スーパーひたち」に乗って行ってたような…。
日立って「この木~何の木、気になる木~」って歌が有名だけど、土地に名前が付くほどだから、電気メーカーとしては、大きいですね。
他に電気メーカーで土地の名前になってるところは思い浮かびません。
今、振り返ると、元彼は年が離れてて、結婚を早くして落ち着きたい気持ちがいっぱいだったのでしたが、私は、まだ若かかったし、こんなにすぐに結婚って迷いがあったので、転勤して付き合いを継続できる手段!?を選んだのでしょう。意識してないところが甘いですなぁ(;^_^A
また、迷いの中には、何かしら不安があったからかもしれないです。
不安の中身は、自分はこの人と一緒になって大丈夫だろうか?相手にとって自分でいいのだろうか?と、自分に自信がなかったり、自分は幸せになれるのか?と、自問自答したときに、答えが出なくて、でも別れるのは寂しいから、都合のいい方法を取ったように思います。
埼玉まで行って2ヶ月、持たなかったには色々と理由はあったけど、今、冷静に思えば、結婚したわけじゃなく、子供もいたわけじゃなかったから、よかったんだろうなーと思う。
ただ、元彼のために来た…とか、支えが元彼だったこともあり、遊びに行ったら女の人がいた現場を見たのがショックで、仕事のために転勤したなどの貢献的な気持ちもなく、その後は自分の身の置き所がなくて、埼玉で生活をする意味を見失ってしまったので、新座市は精神的に辛い日を過ごした場所になってしまいました。
このことで、すぐにダメになったとかではなくて、修復も試みたりして、私が不安な時に、彼はやり直そうと言ったり、私が気持ちが落ち着いた時には、やり直すのは、やっぱり考えさせてくれと言われたり、元彼のその考える時間がすごく長くて、何だかんだ言ってキレイに別れるまで1年以上かかりました。金沢に戻ってからも続いて、私からやっと別れようと言えました。埼玉にいる間は、何だか蛇の生殺しのような、苦しい日を過ごした記憶がある場所です。
元彼は、責任を感じてか?自殺でもされたら困ると思ってたのか?自分から別れようとは言わなくて、私が別れを言うの待っていたのかな…と。
真面目に待ってた私は馬鹿だ…って思うのだけど、その方が相手も私にも、恨みツラミもない、いい方法だったのかと、今は思います。
ただ、仕事中のふとした時や仕事が終わって家に一人でいるとき等は、不安と悲しいのが、よく襲ってきて新座にいることが嫌で仕方なくて、大袈裟だけど生き地獄のようでした。

この頃のプライベートは、暗かったけど、仕事は会社のメンバーの平均年齢が若くて仲のいい友達もいたので、すごくやりやすかったです。でも、この頃はそういう、普通のことにも感謝する視点を持っていませんでした。

若くてただ、ただ、感情のままに動いて、壁に衝突した感じです。

私的に、この場所の思い出は開かずの間・パンドラの箱にしたいくらい、惨めな日々だったから話すなんて考えもしなかったのだけど…。
女の19歳は厄年で、重苦とも言うそうですw。違う人もいるだろうけど。

この頃に元彼と付き合ったのですけど、本当に「役」があったようです。
でも、あのとき、ツギハギいっぱいのまま、無理に結婚しなくてよかったと思うので、今は本当にこれでよかったんだろうと思います。
そう言う意味で、彼の未練を残らせないお別れの方法は、苦しくて辛くていっぱい泣いたけど、憎むことなかったので、苦しさはまだ軽減されてよかったし、今となっては有り難いです。

ルナシーのライブ、関西ではやってくれないのかしら~?ルナシーファンのお友達が喜んで参戦するんだけどなぁ。でも、贅沢はいっちゃいけないですね。
LUNA SEAがライブを行うのは昨年12月の東京・神戸公演以来約10カ月ぶりで、チケット一般発売は8月14日からだそうです。

今日もご訪問、ありがとうございます。