銭屋五兵衛のことを長く書き込んでしまいました。誤字脱字があったと思います。
ここまで、読んでいただいた方、長くお付き合いいただいてありがとうございます。
長くなったのは、松林がいっぱいの金石の集落にひっそりと設けられている、「銭五公園」が私の実家の近くにがあるからです。
町の人が、銭屋五兵衛の偉業を讃えて、高い台座の上に銭五の像があり、今もそびえるように、海岸を見つめています。
私の今の実家は、昔、宮腰と呼ばれた金石です。
幼い頃は、兼六園よりもっと山手の涌波や小立野の方に住んでいて、本多町や香林坊は、中学・高校の時にお庭のようにして、通ってました。でも、その頃は興味なくて金沢城の由縁とか、全く知らずに素通りしてました。
私たち家族は、徐々に、山から海辺へとお引っ越しして行きました。山手に住んでのは、多分、母の実家や妹の家が近かったからだと思います。
父の勤めていた会社が海に近かったので、だんだんと降りていくようになりました。
だけど、今の家は私が関東に行っている間にゴタゴタの末に引越しして半強制的?に入居し、、、関東から帰って来たら家が変わってたのでした。
引越す前までは、もうちょっと町中の8号線の近くの金石街道沿いにいたのです。
なんで引越しになったのかというと、私もよく知らないけど、うちのお母さんは、不動産のブローカーみたい?仲介業のようなことをしていました。
その頃は、バブリーで景気もよかったので、お母さん、いろいろとやって、内縁の妻状態であっても、時代だったのか?家もローンだけど買ったり、家賃収入も見込めるからって、勿論ローンで中古のアパートも買ったりしてました。
だけど、家を買ったことで父の会社が倒産した時に、母の実弟から借りたお金も途中にして買ったので、これが原因で弟と同居していた祖母とは「縁を切る」と言われて疎遠になってしまいました。弟のお嫁さんが銀行員だったこともあり、母のようなどんぶり勘定的な発想の人は、嫌だったのかもしれません(^_^;)
持家に高校生の頃、引越したのだけど、私が勤めて、転勤となり関東に行き、父と三男の兄も、関東で仕事に行ってる間に、お母さんの仕事の資金繰りが悪くなり、騙されたような形で印鑑を押したら、銀行にアパートと家とを押さえられちゃって、出て行くことになったらしいです。
長男の兄と次男も、その頃、家を出てたので事情はよく知らないかもしれない。
この引越しの前後に、一番、辛い思いをしたのは、三男の兄だと思います。
父と三男は、似たところがあって、仕事に集中するあまり、お金の管理は面倒くさいタイプだから、兄は最初、お母さんに安心して預けてました。
最初というのは、うちの兄は、3人とも、定時制の工業高校に通っていたので、15歳でも、私にしたら大金を持っていました。
あ…兄が皆、定時制に行ったのは、勉強が好きじゃなく成績もよくなかったこともあると思いますが、父も高校に行ってないし、家業を早く手伝って欲しかったのもあると思います。でも、それ以前に勉強を落ち着いてできる環境の家庭じゃなかったのもあると思います。
勉強に取り組もうという気持ちは、家庭内が不安定だと、子供の気持ちも、毎日が雑になって、机に向かっても明るいものが見えず、勉強に意味を感じられなかったのじゃないかな…と。
内縁だけど両親がいて、それは、有り難いことなんだけど、子供の心にはやっぱり、抑えられてるようなすんなり行かない気持ちや高校に行ったときの費用とか、親の実情を側にいて、わかる年で知ってるばっかりに考えると、勉強へのやる気は出なかったかもね。
だから、親に負担のかけない定時制に決めたんだと思う。一番上の兄がそうだから、みんな一緒って感じかな…。ある意味仲良し
私だけ、脳天気に昼間の高校に通わせてもらったのでした。ごめんね。兄ちゃん達。ありがとう。
三男の兄の話に戻ると、お金の管理を母に任せてたら、本当はあるはずの貯金が、母も資金繰りのために株関係の友人が茨城にいて、投資話に乗って「今に大きいお金が入る」って言葉に乗ったら、入らなかったという。その資金として、兄の秘かな蓄えを母が勝手に使い込み、三男の兄は、お母さんと喧嘩して、暴れもしてました。そりゃあ、勝手に使われたら怒るよね。
三男の兄だけじゃなくて、私も働きに出て、貯めた定期預金を勝手に印鑑押されて、なかったことがあるんですけど、三男の兄に比べたら可愛い金額です。
長男の兄や次男の兄は、どうだったかわからないけど、この頃のお母さんは、お尻に火が着いてたのか?
三男の兄に頼まれて、私が内緒で通帳作って銀行に預けても、いつの間にかなかったり、もらった高校生時分のお年玉も、引き出しから持っていくほどだったので、ちょっとお金のことで病んでたと思います。でも、そのお年玉も親が他の親戚にあげるからもらえるのですけどね。ようは、親のお金でもあったのだけど・・・
バブリーなご時世もあったのでしょう。
今となっては、昔のことだし、仕事が上手くいかなくなっての大きな火傷と、私は思えます。親も子供のお金を持ち出すなんて、したくないのだろうけど、支払に困ると、見境がつかず、身内はわかってくれると思ってか?手をだしたのかもしれません。若いころは、自分の欲しいものや遊びに行くためのお金や、将来のための蓄えと思って、貯めていたお金がある日、突然に消えて悔しかったりしました。親は謝るだけで、返すの忘れたりしますから。
情けない話、結婚するときの仕度もギリギリだったので、結婚前はお金にギスギスしてて、親にお金を貸してって言われても返って来ないから嫌でした。親に全て用意してもらって嫁いでいく友達を、羨ましいと思うこともありました。
だけど、親になってみると、子供を4人も育てるって大変だとわかりました。多分、私たちにかかった育児のお金の方が、貸したお金よりかかっているだろうし、手間もかかって大変だったと思います。
母の場合、不動産なんて手を出さなければよかったのだけど、父の会社の倒産時の借金があって、お金で大変だった分、儲けてラクになりたかったのかもしれません。だけど、こうして年を重ねて小さくなっていく、親の背中を見ると、それも遠い昔のことのようです。お金のことを根に持っていたら、親との過ごす時間がマイナス的なものとなっていると思います。年老いた親との、今の少しの時間も嫌な気持ちを向けたくないもので、多分、兄もそうだと思います。
親が元気だと甘えみたいな欲もでるのかもしれなくて、くどくど言った時期が兄にもあったかもしれないけど、今の家に越してからは、母も、もう観念したというか大きな話には危険が伴うと学び、憑きものが落ちたかのようにおとなしくなりました。金欠のときは、申し訳なさそうに借りに来るようになって、勝手に持っていくこともなくなりました。
結婚するときも、父はありのまま「事業の失敗があって、嫁に出すにも十分なことはできません。」と、旦那の親に頭を下げてくれて、お金の厳しい中でも、親としてし、できる範囲で精一杯してくれました。今も母はそうで、はっきり言って、比べるのはダメだけど、年金と退職金でゆったり暮らしてる旦那の親よりも、孫に何かと送ってくれるのは、やっぱり情の大きさと、お金に失敗してもそれを越えてきた年輪の多さかな?と思って、親には感謝しかないです。
ですが、三男はいつも、家の尻拭いのような役をうけおって、嫁に出た分、実家にはなくてはならない人となり、あんまり、自分のことを考えようとさえしない気がして、心配してます。結婚しないのかなー。相手いないとできないな^^;
長男は覚えてないかもしれないけど、長男の兄が中学に入る時に、母が近所の新聞販売店に夕刊の配達をしないか言われて、長男はやりたくないと言って断り、すると次男に話が行き、次男も嫌だからと言うことで、結局、三男がすることになり、本当は小学生は働いちゃダメなのに、多分、三男も嫌だったのに、学校が終わってから夕刊を配ってました。
余り記憶がないけど、雪の中、長靴履いて私も手伝ったことがあります。だけど私は毎日、やってた訳じゃないです。三男の兄は毎日して、子供だから間違って違う家に入れ注意されたりで、嫌な思いもしただろうし、小学5年だから、遊びたかっただろうし、手伝ってたときに同級生に会ったことあって、冷やかされたりで、多分、見えないところで苦労してる人です。
定時制を卒業、するときに父の下で働くのやめたいって言っても、長男や次男は辞めて行ったのだけど、三男だけは辞めさせてもらえませんでした。
父には、三男しかいなかったからです。
40代後半の職人堅気の父は、口より手の人で、口で教えることが面倒くさい為に、忙しいと特に言葉が乱暴になって帰って来ます。
だから、忍耐強くて父の動きを阿吽の呼吸でわからないと、側にいるには続きませんでした。
三男の兄は、どちらかと言うと母方の祖父に似ています。私は祖父の記憶はないけど、祖父が生きている時に、孫の中で三男だけ、祖父が膝の上に抱いたことがあるほど、気に入ってたそうです。性格もマイペースながら、忍耐強いですから、仕事となるとせっかちな父に、ついて行けるのは、三男しかいなかったのでしょう。
そして、今の実家は母の仕事の失敗で、不動産を全て手放すことになり、持家も出なくてはならなくて、その際に、父が社長の弟を頼ったようで、今の実家を会社の名義で社宅として借り、そのまま住んでいました。
が、父の退職に伴い、会社から出て行くか自分たちで契約を更新してくれと言われて、しばらくの間は、借家として入居してましたが、家主が今の家を買ってくれないかと言う話が浮かび、父は仕事をやめたところだったし、過去の事故もあるために、ローンを組めないから三男の兄が購入することになり、そのまま、とどまることとなっています。
実家が三男名義になったのは、私が結婚してからの話です。
今は里帰りができる、貴重な私の実家なのですが、何だか流れ流れてついた家で、父や母にしても自ら好んで入居した家でもなかったし、三男にとっていいものかどうかわからず、購入の話は少し迷いもしたようです。
でも、引越しも費用がかかるし、状況的に動くのは無理だったため、三男の兄も「仕方ないやろ」と言って契約してもらったのでした。
三男は、兄弟の中でも粘り強い頑張り屋さんで、口数が多くなく真面目で猫がやたらと好きな兄です。昔っからシャイで感情を出すことに、不器用なところがあって、友達もそんなに多い方じゃありませんでした。頑固で気が強いところもあり、それが男らしい性格とも取れそうだけど、弱みを見せたくないところが子供のころからありました。
それに加えて、中学を卒業した直後に名前を騙られて、申し込していないのに、レンタルビデオの会員なりすまされて借りてもいないのに名前を使われたことが2,3件ありました。
ビデオショップの内の1件は口頭で確認を取っただけで「こちらのミスですね」って言ってくれたけど、もう1件は店まで来てと言われ、三男が一人で行って、最後のレンタルショップだけ「返却しろ!嘘を言うな!警察に言う」と喧嘩ごしで、怒鳴られて、必死に子供ながらに「それは、俺じゃない」と電話口で言ってもわかってもらえなくて、私、電話の隣で泣いてた記憶があります。
最後は、長男の兄と二人で行ったのかなぁ・・・潔白を証明されたから忘れてしまいました。
あの時代は、中学生でも生徒手帳って簡単に名前を書きかえられるものが、身分証明だったので名前を利用されてしまいました。後で、部屋でみつけた住所の載ってた、卒業アルバムを三男、マジックでぐちゃぐちゃに塗りつぶしてました。
悔しかったのだと思います。私だったら、親に言うだろうけど、三男の兄は言わなかったです。母は、そんな事件があったこと最近まで知りませんでした。男の子は、喋らないんですね。心配もかけたくないし、かっこ悪いってあるからかな?
そんなこともあって、三男はちょっと用心深く、思い込んだらカッとなるところがあるかもしれません。
叔父の会社で働いていたのが、従姉の婿の新社長とぶつかってしまい、やめてしまいました。父が亡くなる2か月前のことでした。
会社は、父が興した会社が倒産しそうになった時に弟が建て直して自分の会社にしたりしたことで、父がいるころからややこしかったのですが、ある日、上から経営中心の新社長に、何かと言われてカチンと来たいで、母に聞いたら新社長の売り言葉で「やめろ」と言われて、やめてしまったそうです。
新社長は、従姉のお婿さんで元々は経理が仕事の人でしたが、仕事を覚えて現場も意見するようになりました。
ですが、三男は若くても十代から仕事をしているので、技術は上の先輩で、仕事の準備や流れは自分なりのスタンスが出来ていたところに、急に体調不良から前社長から新社長体制に代わり、最初の内は上手くいっていても、数年経って社長らしく変化して来たのか、喧嘩しちゃったみたいです。
父のように、定年退職なのにクビになったわけではないので、それなりの退職金をもらってやめました。が、その中には会社から天引きされて積み立てていた通帳を、叔母に預けていたら使い込みされたりしたお金も入っているのだそうです。苦笑
父に似て、人がいいのか、利用されやすいのか、心配な三男の兄です。
なんか、銭屋五兵衛から「おつかれさん」って言われそうですね。松の木には、磔になっていませんが、家にはりついているし^^;
まだ、持家だったころ、私が車を買おうとして、両親の言うままに車屋さんにつれていかれたのですが、最初は中古ならどこのメーカーでも扱うと言っていたのに、調べたら欲しい車は見当たらないからって、そのディーラーの新車をすすめられて、親が営業の人と付き合いが長いからって買うことになり、私は「好きな車以外を買うのいや」って言ったら、三男の兄に行ってしまい・・・
当時はもっと、他に買いたい車があっただろうに、三男の兄が乗る羽目にあったのも、マツダのファミリアでした。苦笑
要蔵が磔になった松の場所は、はっきりとはわかりませんでしたが、どうも、今の実家周辺にあったらしいです。実家の住所の歴史をしらべると藩政時代に松林や桑畑だったそうで、明治になってから家が建ちならんだというし、
母に聞くと、隣の隣は火葬場だったと、どっかのおじいちゃんが言ってたと聞いたのでので余計です。あはは^^;
処刑された松の写真は残っていて、とても大きな立派な松でした。要蔵の墓があるという、海月寺も、金沢にいるとき家の側ですから何度も前を通っていました。
三男は、一番親の側にいて、親を経済的にも、父の仕事でも助けた兄です。
親が、困っているときも、親に思いもかけないことをされても、じっと耐えいました。うちは、経済的にいつも親を頼っていけない状況だったので、自分のことにいっぱいいっぱいだったけど、三男は、子供が親を助けるって、普通ならば逆のことをとても幼い頃からやっていました。
それも、兄弟の誰もが親のいうことに応じたくなくても、三男だけは「仕方ない」と言ってやってのけたのでした。
父の面子、母の面子も、三男は立ててたんですね。
最後まで、父の側にいて、空調の仕事を側で学んで、父を助けて技術を一番、受け継いだのは、三男でしょう。ダクトの免許も、仕事が終わって、一人で練習して受かりました。
父も母も、どれだけ三男の兄に助けられたことか。
私も、結局、車を兄に押し付けたことになるかもしれない…ごめんね。
家の要になった、三男は来るものを受けるタイプになってしまって、どちらかと言うと、積極的な行動を起こすのが苦手な癖がついたように思います。それに、家に長く親といるから、独立心も引っ込んだようになったかも…。
それも、家族の穴埋めになった上でのことかな。ごめんね。
父が亡くなったとき、一番、つらかったのは三男の兄かもしれません。
長い間、一緒に仕事をしてて、いいときも悪いときも、ウザイことあったけど、いつもいた父がいないのは、心に穴が開いたようだっただろうし、仕事をやめた後だったから、父のことと、仕事のことと、家のこと考えたかもね。
三男の兄は、猫が好きでいつも猫と遊んでます。あんまり、愚痴も言わない代わりに猫と遊んで気持ちを紛らわしているかのようでした。
一番、肩が重かった時期があったかもしれなくて、ごめんね。兄~としか言えないな。今は長男の兄も家にいるし、仕事も一緒だから、何となく安心。不器用だから、場に溶け込むのに時間がいりそうで・・・でも、素直で子供がそのまま大きくなったみたい。
って、こんなの読まれたらこっぱずかしい。
よく、母が言ったのは年子だから妹じゃなくて同い年の兄弟みたいだって。どーゆことよ(^_^;)
だけど、誰より両親の側にいて、助けてくれてありがとう。
要蔵は、キリストみたいけど
もう、兄も松からはずれてほしいわ(´Д`)あー。車は随分前に、マツダじゃなくなってます。
なんちゃって。
長々とすいません。
今日もご訪問をありがとうございます。