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花はなぷりんのささやき

わたしのかんさつ日記

一号機が運転を開始した年のこと。

2011-03-29 08:55:13 | 世界

今、福島第一原子力発電所の原子力事故のことでニュースも国民の関心も持ちきりですね。関東のことですけど、巡り巡って漏れてる放射能は日本海側にも、達する日もあるかもしれないし、人間もですが海の水や山の植物、自然にも負担がかかりそうで心配です。

特に自然は、一度、汚れると元に戻すのに時間もかかり、受け継いでいく子供たちに大きな負債になるのだと思うと心苦しいことです。

福島第一原子力発電所の一号機が運転を開始したのは、昭和46年3月26日のことです。

全ての原子炉は米国ゼネラル・エレクトリック社(GE)によって設計され原子炉1号機・2号機・6号機はGE、3号機・5号機は東芝、4号機は日立によって製造・供給され、全ての施工工事は鹿島建設によって行われました。

昭和46年にあったことは、日本では 「ザ・タイガース」が1月24日に、日本武道館でのコンサートを最後に解散。同日、 横綱・大鵬が32回目(最後)の優勝しました。

一号機の運転開始となる3月26日の前日はバングラデシュ独立戦争を経て 、東パキスタンでパキスタン軍による組織的な住民の殺害が始まり、翌日、地下ラジオにより東パキスタンの分離とバングラデシュ建国が宣言され、12月16日にバングラデシュの独立が確定された年です。

バングラデシュ独立戦争は、東パキスタン地域の独立を主張するベンガル人を西パキスタンを中心とする中央政府が鎮圧を目的に武力行使を開始し、東パキスタン住民が大量に難民となり、インドに亡命したことから、インド政府が介入(第三次印パ戦争)しパキスタン軍が撤退、東パキスタンは「バングラデシュ」として独立しました。

元々バングラデシュは18世紀末にイギリスの東インド会社により植民地化され、東インド会社によってイギリスは支配をインド全域に拡大。インドの他地域同様、バングラデシュもインド独立運動に参加し、1947年には独立を達成しましたが、宗教上の問題から、ヒンドゥー教地域はインド、イスラム教地域はインドをはさんで東西に分かれたパキスタンとして分離したのでした。

昭和46年の干支はイノシシですが、この年は干支の組み合わせで48番目、西暦年を60で割って51が余る年が辛亥の年となります。

辛亥といえば、、1911年中国で起きた辛亥革命が思い起こされます。この辛亥革命は、300年ほど続いた清(しん)朝が滅び、2000年来の専制政治が終わりを告げ、中華民国が生まれ、民主共和政治の基礎がつくられました。

別名を民国革命、第一革命ともよばれますが、干支である辛亥に因んでいます。

昭和46(1971)年というと、兄が生まれた年です。昭和29年12月から昭和48年11月までの19年間である高度経済成長期が一段落し、第二成長期とも言える期間に移行する年でした。

そういえば、うちのお父さんはこの年代は超、忙しくビルのダクトを設置していたようです。この頃の我が家の写真、極端に少ないです。特に私は、4人兄弟の一番下なのに一人娘でも、私と末の兄の写真は少ないです。

父は当時、親方で、家で見習いさんを下宿させて一緒に仕事をしていたそうで、母はその人たちの炊事、洗濯や経理などと子育てなどしてたので、写真を撮るなんて余裕はなかったのだろうなぁと思います。

流れが、日本の発展と開発、便利さを追求していた頃に私たちも生まれました。今の便利さは、慣れてしまうと普通になって、それができなくなったとき、不満にもなります。今回の事故と停電により、色々と学んだこともありました。私たち、電気がないと生活ができなくなりそうです。

でも、戦前は電化製品は、そんなに各家庭になかったですよね。

文明が発達すると、自殺者が増えると言われています。人口 が多く、餓死者を出しているアフリカでは、自殺者は極端に少ないそうです。 それは、どうしてなのでしょうか?

この機会に考えることは、たくさんありそうです。

今日もご訪問、ありがとうございます。

 


イースター島~復活祭の島~

2010-07-12 06:14:16 | 世界
昨日、Kちゃんがテストの答案を嬉しそうに私に見せてくれました。100点でした。
そのテストの内容は「イースター島には、なぜ森林がないのか~鷲谷いづみ~」という教科書に基いたテストなのですが、私が読んでもとても興味を惹きました。今の小学生の勉強は、現代に沿った内容で刺激になります。私も勉強してみようとつい思ってしまいました。

チリのイースター島は、首都サンティアゴから西に約3800km離れた、太平洋に浮かぶ絶海の孤島で、モアイ像で有名なこの小さな島は、無数の火口が残る火山島です。現在、この島に森林は殆ど見られません。しかし、化石や花粉の研究からポリネシア人たちが初めてこの島に上陸した西暦400年頃には、島全体が森林に覆われていたことが明らかとなりました。
ポリネシア人が上陸する前、大陸から離れていたこの島は鳥類が数多く住み着いていました。哺乳動物がいなかったのは、火山の噴火により出来た島であり、泳いでイースター島に辿り着くことのできる哺乳動物がいなかったからです。ポリネシア人がこの島で初めての哺乳動物だったとも言えます。イースター島の森林は、なぜ、どのようにして失われてしまったのか?
下記、内容を引用しまとめました。
①上陸し生活を始めたポリネシア人は、食糧を生産を行うために農地が必要で森林がを切り開かれた
②農作物だけでなく、島から離れた無人島に漁へ出かける、丸木船を作るため森林から太い木が切り出された。
③部族社会を営むポリネシア人にとって、偉大な祖先を敬うために神格化された王や勇者達の霊を象徴する火山岩の巨石に彫刻を施すモアイ像の製作がさかんだった。モアイ像の製作には、島の石切場から出される巨大な火山岩をときには、10km離れた所まで運び、重さが何トンもある巨大な像を運んで行くのに必要なコロを作るために、森林から木が切り出された。
④長い船旅の間の食糧とするために船に乗せていたラットが、ポリネシア人の上陸に合わせて船から逃げ出してしまい、生態系を崩してしまった。
ラットは島で野生化し、他に餌を奪い合う競争相手も天敵もいない島で爆発的に繁殖、瞬く間に島じゅうに広がり、そのラットが椰子の実を食べてしまって、新しい木が芽生えて育つことができなかったようである。

このようにして、3万年もの間自然に保たれて来た森林は、ポリネシア人が上陸後わずか1200年ほどで、ほぼ破壊されてしまったのである。1722年の、オランダ海軍提督のヤコブ・ロッゲフェーンが、この島を訪れたとき、島の繁栄も豊かな森も過去のものとなっていた。
木は切りつくされてむき出しになり、地表の土が雨や風に流され畑はやせ細って行った。そのため農業生産がふるわず、漁に必要な丸木船を作る材木もなくなり、魚や海鳥を捕ることもできず、島は深刻な食糧不足に陥って行った。
そこに人口爆発が起こる。当時の島には、7千人~1万人を超える人々が、暮らしていたと言われているが、数十年の間に、人口が約4倍にも膨れ上がり、食糧を奪い合う村同士の争いが絶えず、モアイ倒し戦争も起き、島の人口も最も栄えていた頃の1/3にまで減少して行った。
ひとたび自然の利用を誤り、健全な生態系を傷つけてしまえば、文化も人々の心もあれ果ててしまい、悲しい運命をたどる。祖先を敬う文化は様々な民族に共通であるが、数世代後の子孫の幸せを願う文化は一般的でないのかもしれない。
今後の人類の存続は、子孫に深く思いをめぐらす文化を早急に築けるどうかにかかっているのではないだろうか。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
↑という、内容を読み終えて、感じたことは、自然は偉大でこの恵みは利用することと同じくらい守っていかなければいけないということではないかと思いました。
自然は壊すのは簡単だけど、治すに時間と労力がかかる。「いつまでもあると思うな親と金」ではないけれど、豊かな自然が常にあるものだと自由にしていると、取り返しのつかないことになると、イースター島の歴史から学べます。
ポリネシア人は利用は上手に出来たけれど、自分たちの子孫と同じくらいに自然を愛し守り育てることが出来ていれば、森林がなくなることはなかったでしょうね。

人間は頭でわかっていても、忘れてしまい行動に定着するまでに時間がかかることがよくあります。例え気づいていても実際に森林を意識することがなければ、守り育むことはいい加減になっちゃいそうです。それが、話のできる人間の子供なら理解はできますが、相手は自然ですから、思い遣る気持ちを話のしない自然に向ける想像力を持つことができていたらよかったのになぁ。。。
自然は与えてくれる一方の存在ですね。私たちが自然に与えることはあまり多くないと思います。人間同士のように会話しないから、思い遣りがないと何が起こっているのか気がつきにくいです。
会話できていたら「ちょっと!ラットが椰子の実食べるから、子供の木が育たないのよ!」って言えたでしょうから、森林もなくなることがなかったですね。
また、ポリネシア人がラットの生態の知識を持ち繁殖と増加、森林の被害に早く気がつけば、対処もできてたかもしれません。
ポリネシア人の食糧として持ち込まれたラットですが、豊富な魚と海鳥へと食文化も変わっていったのでしょうかね?このラットの異常な繁殖を考えると自然界における食物連鎖は、理にかなったものですね。
この島で人間以外の哺乳動物であったラットは、草食動物でラットを食べる肉食動物がいないために増加を辿る一方となりました。ここが絶海の孤島でなければ、ラットを餌とする動物が森を救うことができたのかもしれませんが、持ち込んだラットにより自然界のバランスを崩してしまったのですね。

自然には、どちらかと言うと負担をかけることが多いのかもしれないです。こちらが、与えてもらうばっかりで恩返しができることはないのなら、せめてその自然の恵みに感謝して子供のように守り育むことが、人間のできることだと感じます。
このことから、自然は生命を与えてくれた先祖と同じくらいに、自然を敬うことは大切なんだなーと感じます。敬うとは「相手を尊んで、礼を尽くす」ということですね。

この著者が提唱している今後の人類の存続を、子供たちに託す私たちができることとは何でしょうか?また、「数世代後の子孫の幸せを願う文化」を一般的なものにするにはどうすればよいでしょう。
私なりに考えてみましたが・・・・
自然を人間の思いのままにできるという考えを正して、与えられる資源を尊く思い有難く利用させてもらっているという気持ちと、自然界の掟を神から任されている人間が守ることが、次の世代へ生きて行く子供たちへの貴重な財産になるのだと思います。
幸せを願う文化として大切なことは自然界を神とする、「神」に畏敬の念を持ち、頂いた恩恵に感謝することだと思います。「神」といっても新興宗教の神ではなく私たちの生活に基いた神様です。例えば太陽とか。。。

日本には古来から自然[太陽・地球(水・木・大地・)]を神として敬い、収穫・豊漁などの際には感謝の意味を込めて行う儀式があり、今でも続いています。
ポリネシア人は自分たちの祖先を大切にすることはできたけど、自然を敬うことはしなかったのかもしれないです。
このイースター島の衰微を教訓にすると、子孫の繁栄を望むなら先祖を大切にすることと同じくらいに、自然を神として敬うことができていればよかったのに。。。と思います。
農業に携わっていない人でも、陽の光や水・買って来た野菜や果物から自然の恵みは届いていますから、そのことに感謝できるようになる習慣が大切でしょうね
自然環境を大切にしようという運動の奥に必要なのも、意識の奥にある地球や自然への愛情や敬う気持ちがなければ続けることは大変だと感じます。
人間には敬い感謝する対象が必要なのではないか~?と思います。でなければ、ときに傲慢になり人間さえ良ければいいという考えに傾く危険がある人もいるでしょう。
そうならないように、神や先祖を大切にする存在を意識することで感謝がスムーズに出来て、それが子供たちへの未来にも繋がるのだと思います。
つまり、子孫の幸せを願う文化の究極の答は「与えられたことに感謝する」ことだと思います。
自然を神として、敬うことで自然を大切に守ることが昔からできている日本という国は素晴らしいですね。
この魂は日本人にDNAとして受継がれていると思います。

日本人に生まれたこと。それだけでも誇りが持てます。

イースター島の名前の由来は、復活祭の夜、ヤコブ・ロッゲフェーンにより発見された日がイースター(復活祭)であった為、「イースター島」と名前が付いたと言われています。

今日も読んで頂いてありがとうございます。


※復活祭=キリスト教の典礼暦における最も重要な祝い日で、十字架にかけられて死んだイエス・キリストが三日目によみがえったことを記念する日




パラグアイ

2010-06-30 23:41:08 | 世界
ワールドカップが終わりました。とても心に残る試合でしたね。負けは負けですけど、パラグアイと互角の戦いで選手の皆さんは、延長の末によく頑張ったと思います。他の国でこのような負け方をすると、熱狂的なファンから責めを負う場合もあるのですよね。それがない日本は、安全でいい国だなーと思います。
日本が負けたパラグアイには、日系の方も多くいらっしゃいます。今回の試合も日系の方にとってはもちろん、自国を応援されたかと思いますが、日本人にも思いを寄せてる方もいたのではないでしょうかね。

パラグアイの日系人には不思議なほど日本語が通じるそうです。昔、パラグアイは周辺諸国との戦争で疲弊して人口が激減し、60~85万人いた人間が1886年には26万人にまで減りました。パラグアイの面積は日本よりも少し大きく、それでこの人口だから経済的社会的な状況は深刻だったそうです。そこでまずヨーロッパ諸国からの移民が受け入れられ、さらに1936年から第二次世界大戦までに、700人余の日本人が移住をしました。
第二次世界大戦後でいったん打ち切られたものの再開されて、50年代から60年代初頭にかけてパラグアイへの農業移住は盛況を極めイグアスへの移住も1961年から始まりました。
その後日本が高度経済成長の時代を迎えると、移住の動機は薄くなり入植者も減っていきましたが、戦前、試験的という厳しい条件の中、日本人移住者達がラ・コルメナにおいて数々の困難に立ち向かい、原生林を切り拓いた実績は、パラグアイ国において「勤勉な日本人」という印象を与え、日本人移住者に対する大きな信用を与えました。
また農業分野での貢献は大きく、ほとんどパラグアイでは摂取されていなかった野菜を栽培し、パラグアイ人食生活の改善に大きく貢献しています。現在のパラグアイにおける日本人移住者は約7千人、人口から見ると0.14%の少数民族ではありますが、パラグアイの主要農産物の一つである大豆の全生産高の7%は日系農家で生産されており、今では同国の輸出総額の約40%を占め、世界でも第4位の輸出国となりました。
特に日本人移住者によって取り入れられた「不耕起栽培(水田や畑を耕さないまま農作物を栽培する農法)」は、非常に高い生産性を誇っています。
また、それまでは輸入に頼っていた小麦も、現在はその29%が日系農家によって生産され、国内の自給だけでなく、輸出により外貨獲得にも貢献しています。日本人移住者たちは原生林であった土地を切り拓き、生産性の高い耕地へと変え、高い農業技術を持ってパラグアイの農業経済を支えてきたといえます。現在は、農業のみならずあらゆる分野においても、日系人は勤勉で正直であるという高い評価を得ています。
ワールドカップがなければ、パラグアイのこともここまで興味を持ちませんでした。日本人って本当に素晴らしいと思います。
日本人の入植当時、ラ・コルメナは一面原始林に覆われ、いくつもの困難に立ち向かいながらも力を合わせて開拓していったのですからね。これは、昔から農耕で生活していた故の粘り強く、真面目な遺伝子が日本人にあるからじゃないでしょうかね。
当時、入植された方たちは言葉も気候も日本とは違う環境の中で、よくここまで働かれたなーと、本当に感心します。この地には、2006年11月2日パラグアイ日本移民七十周年を記念して秋篠宮さまがラ・コルメナをご訪問されています。
日本にとってのワールドカップは終わってしまいましたが、この際だからパラグアイには勝てるところまで頑張ってほしいです。
強い国に負けたなら、負けても何となくすっきりもしますよね・・・って浅はかですかね。
今日もありがとうございます。  

ナット・キング・コール~ L-O-V-E (日本盤)~

2010-06-28 10:22:50 | 世界
nat king cole L-O-V-E (Japanese)


いよいよ、はじまりますねW杯。今回は現地時間・16:00日本時間・23:00スタートです。
場所は南アフリカ共和国ハウテン州プレトリアにある球技場でロフタス・ヴァースフェルド・スタジアムです。『ハウテン』は、ソト語で『金がある場所』を意味していてヨハネスブルグに金鉱が発見されてから言われるようになり、同州の州都で南アフリカ最大の都市です。南アフリカのみならず南部アフリカ経済の中心都市ともなっていて、国内最大の都市で、人口は3,888,100人で世界第31位のメトロポリスを形成しています。近年は経済や治安の悪化、貧困、エイズ問題などの不安材料も多く、外務省からは南アフリカに対しては危険情報が出されています。
ヨハネスブルグは特に、ダウンタウンやヒルブロウ地区について「可能な限り公共輸送機関の利用は避け、同地区には立ち入らないように」という勧告も出されています。地元警察は「いかなる理由があろうとも、車外に出るとは非常識で、何かあれば携帯電話で警察の救援を求めるべき」と警告しています。観光客が駅周辺を歩くことは、昼間でも危く空港・商店・ホテルなどの建物内から移動するときは、必ず車を使用することが身の安全の為には気をつけなくてはいけないそうです。
日本のような安全な場所に住むことができるのは、実はスゴイことなのかもしれませんね。
このように治安が悪化しているのも、アパルトヘイト政策の廃止後の爪跡からだと言われています。
黒人が殆どを占める場所では、体も力も大きいから圧倒はされそうで、アパルトヘイト政策は居住地区条項を制度的に確立することで白人の安全を確保し、また、黒人に白人の生活をみせないことにより、格差感情を和らげるのが目的であったのがはじまりだそうです。当初は「差別ではなく、分離発展である」と主張していました。
格差により、心がすさんで今も現地は、国民の感情のままに荒れているのかなー?と思ってしまいます。日本でも士農工商以外での職業で差別がありましたね。そのなごりで、現在でも差別を受ける集落もあるそうです。そのような立場にもし、なったら・・・と思うと差別は同じ人間である以上、生まれた地域や肌の色・お金の有る無し、職業などでしたくないですね。
でも、何処に意識をもって何を思うかで変わって来ると思います。差別をする方には妬まれているという危機感と自分の方が優位であるという優越感があると思います。
差別をされる方は、人と生活を比較して私もほしいといった妬みや生活の不満を抱えた気持ちがあり、自分を卑下してしまうコンプレックスみたいな感情があると思います。中には、こんな感情と無関係な方もいると思うけど、荒れている原因はこうなんでしょうね。
差別は実は、自分が自分でしているのかもしれません。生まれた時からの環境で無意識にすることになっているのかもしれないけど、まずは「自分で自分を」差別をしないでありのままを有難く受け入れることが大事なのかなぁ?と思います。そうすることで、自信もつき生きることにも希望を持っていけます。
差別をする方も、自分のことだけに意識を向けず他を思い遣る心を考える時代じゃないかと思います。
そして、このふたつの感情は、ひとりの人間の心に同居していることがあったりします。時と場合によって都合よく、理由をつけて不満に思ってみたり時には人と比べて優越感に浸ってみたり。。。。自分で自分を信じて今を生きていることは、生きている限り大切なことだと思います。
微々たることですが、ひとりひとりの気持ちが大切かなーと思うので、”小さなことからコツコツと~”西川きよしさんみたくを心がけます。
韓国が負けてしまったので、アジアで残ったのは日本だけになってしまいました。サッカーが強い国も残ってるように見えますけど、フランスもイングランドも、メキシコも負けています。この展開はどうなるかわかりません。
日本人のいい所は、「人がいい」ところだと思います。人に優しくて礼節を大切にすることを何となく、潜在的にもっているのじゃないかと思います。だから、犯罪などの発生率も少なくて治安もいい生活しやすい国でもあります。
スポーツでもとてもスポーツマンシップのある気持ちのいいプレーをするので印象はすごくいいように思います。
パラグアイのサポーターは日本をからかい気味に「ポンハたち、もうここまでだ!」と言っているそうです。ボンハって何かというと、日本をひっくり返した言い方だそうです。
この強気な言葉に押されることなく、自分たちのプレーに集中して「勝つ」には強気な姿勢でゴールすることを先に思い描いてほしいです。
日本人は、相手チームのことを悪く言ったりしないし、礼儀礼節のある国だと思います。
「今回のW杯は拮抗(きっこう)した大会で、強豪国の信じられないような敗退が続いている。」とメディアで言われています。だったら日本が最後まで進むっていう夢を見るのもあり?と、私なんかは、軽く思ってしまいます。でも、本当にベスト4意識して頑張ってほしいです。

ナットキングコールが日本語で歌っている歌は、はじめて聞きました。歌詞の内容は簡単で、聞いていて明るくなります。「LOVEは世界の言葉」が印象的です。サッカーの勝利と共に日本の愛も世界に届いて~。。。

今日もご訪問、ありがとうございます。





日本とW杯・開催地の南アフリカとの関係

2010-06-22 15:42:10 | 世界
先日のサッカー盛り上がりましたね。次も応援しよう~と思っています。今大会は南アフリカ共和国で開催され、南半球での大会は1978年アルゼンチン大会以来32年で、7月11日まで出場32チーム開催されますね。今度のデンマーク戦は25日(金)午前3時半です。眠い目を擦りながらでも見とこう。
南アフリカは治安が悪いとされ、本当に開催できるか懸念されました。ヨハネスブルク、プレトリア、ケープタウン、ダーバンの4都市については特に注意とのことで南アフリカでの殺人事件の発生率は、日本の35倍となっており南アフリカ国民もネットで、観戦に来る際は注意するようにと警告しています。

現在の気候は南アフリカの冬期にあたり(南半球は北半球とは季節が逆)、平均最高気温18℃、平均最低気温6℃で6月の気温は各都市によって異なるそうですが1年を通じて太陽に恵まれています。高原部などでは1日の寒暖の差が大きいので、今度の試合は夜ですし気温も下がるでしょうから、日本選手の皆さんは体調管理を万全にしていてほしいです。

南アフリカ共和国とは、どういった国なのか、日本とのこれまでの関係も知りたくなりました。

日本はアパルトヘイト政策に反対し昭和60年以来、対南アフリカ経済制裁を強化してきました。【アパルトヘイト】とは、南アフリカ共和国で行われてきた、白人支配者層による有色人種に対する人種差別・隔離政策です。1948年に法制化されて以来、強力に推進されましたが、国内の差別撤廃闘争の激化と激しい国際的非難を浴び91年、法的には廃止されました。

人種の割合が黒人 (79.3%)、白人 (9.1%)、混血(9.0%)、インド系(印僑)(2.6%) 国内には、周辺国からおよそ500万人(300万人がジンバブエ出身)におよぶ不法移民が流入しており、治安悪化の原因となっています。そのため、未だに人種差別もあり、エイズの蔓延も多く国民の約4~5人に1人の割合でHIVに感染しています。

IMFの統計によると、2008年の国内総生産(GDP)は2767.64億ドル(約25兆円)であり、神奈川県の県内総生産(約31兆円)よりやや小さい規模とされています。

W杯の日本対デンマーク戦が行われる南アフリカのバフォケン王国「ロイヤル・バフォケン・スタジアム」のある地域はプラチナ生産量の世界シェア60%を占めます。プラチナからの利益によって政治家の発案で建設されました。
治安が悪い、貧しいなどのイメージのある南アフリカですが、人種差別をなくして多民族同士でも人々がお互いを認め合い、よりよい国づくりを目指して協力すれば、治安もよくなり住みやすくなることでしょう。金やダイヤモンドの世界的産地でもありますから、人々の心にも宝石の原石となるものが必ずあるのだと思いたいです。今は原石の状態で、人種差別などから傷ついて生きて来た思いから荒々しくなっているかもしれませんが、その心が穏やかになり落ち着いて行き、皆が豊かで安心して生活ができればいいですね。
地価資源も豊富なことですから発展するところがたくさんある為、政治さえまとまっていけば、W杯を機に経済効果も得られ、これから社会的にも豊かになっていくことも可能だろうと思います。

アフリカ諸国をはじめとする国際社会から孤立していた当時の制裁下でも、日本は、アパルトヘイトの犠牲者である黒人に対して、平成2年以降、草の根無償資金協力などを実施し、1994年5月の新政権の成立に伴い、南アの国づくり・人づくりに協力し、同年7月に今後2年間に13億ドルの対南ア支援策を実施。
その後、1999年まで延長され、総額15億ドル、2007年度までの累計援助実績は、有償資金協力201億4500万円、無償資金協力128億7000万円、技術協力72億2700万円となっています。

また、1995年7月には大統領マンデラが国賓として来日し、1996年4月には当時の池田行彦外相が南アを訪問、1998年には副大統領のムベキ氏(1999年大統領就任)が2回にわたって訪日するなど経済・文化を含めた幅広い交流が行われています。
1999年1月には前年まで首相であった故、第82代・83代 内閣総理大臣・橋本龍太郎氏が南アを訪問しムベキ氏と会談、日・南ア・パートナーシップ・フォーラムが発足し、2003年には日・南ア科学技術協力協定が結ばれました。

日本は額にするとかなりの金額を援助しています。そのお金は税金からです。
このスタジアムに関わる方にも、様々な形で行きわたっているかもしれません。南半球のあまり馴染みのない国と思いがちですが、親が子に仕送りしているような関係の国?と思って、南アフリカ共和国は日本を応援している「ホーム」のつもりで、また、賑やかなブブゼブ?の音は日本の動きで音が出でいると思って日本の選手の皆さんには、頑張ってほしいです。

今日も読んで頂いてありがとうございます。