チビ雄の一週間前に自転車でこけた傷と打撲が、嘘のように治り、24日に8針縫ったところの抜糸となりました。
そして、病院に行ったあと、買い物のついで寄ったペットショップでチビ雄、カブトムシ

やクワガタ

を観察しました。結構、広いペットショップだったので、色々な生き物がいました。カメレオンやヤドカリなどもいて、動きをじっと見てたら面白かったです。
そして帰ろうとすると、チビ雄くんあるものの前で足が止まりました。「メキシカン・レッドニー・タランチュラ」毒々しい毒蜘蛛で有名な赤と黒のカラー目立つ、体調約8センチほどある蜘蛛でお値段14800円。そういえば2週間ほど前、チビ雄はタランチュラに触って噛まれる夢を見たと言っていたなぁ。タランチュラを何処で知ったんだろう?
「でっかい蜘蛛やな~」チビ雄くんの感想です。本当、こんな蜘蛛はナカナカ見る機会はなかったので、親子でマジマジとみました。
「メキシコって何処?」うーん、地理が得意じゃない母は即答できませんでした。なのでちょっとお勉強してみます。
メキシコは、北アメリカ南部に位置するラテンアメリカの連邦共和制国家で、北にアメリカ合衆国、南東にグアテマラ、西は太平洋、東は大西洋とカリブ海のメキシコ湾に面す首都はメキシコシティです。メキシコはラテンアメリカ最北に位置し、ブラジル、アルゼンチンに次いて面積は3番目の大きさです。
現在のメキシコに当たる地域では2万年前の遺跡が発見されており、それ以前から人間が住んでいたと考えられています。
先古典期中期の紀元前1300年頃、メキシコ湾岸を中心にオルメカ文明がおこりました。オルメカの人々は、自然の丘陵を利用してサン=ロレンソ(ベラクルス州)、後にラ・ベンタ(タバスコ州)という祭祀センターを築きました。
オルメカ文明は、彼らの支配者の容貌を刻んだとされている
ネグロイド(黒色人種)的風貌の巨石人頭像で知られています。
先古典期の終わりごろ、メキシコ中央高原のテスココ湖の南方に、円形の大ピラミッドで知られるクィクィルコ、東方にテオティワカンの巨大都市が築かれたその後も後期
マヤおよび
アステカのような複数の高度な先住民文明の拠点として繁栄を極めました。
国名のメキシコは、独立戦争の最中の1821年に決定したものであり、アステカの言語
ナワトル語で、「メシトリの地」という意味で、メシトリは、アステカ族の守護神で「太陽・戦い・狩猟の神」である
ウィツィロポチトリ(Huitzilopochtli)の別名で、「神に選ばれし者」という意味があり、アステカで最も信仰されたこの神の名に、場所を表す接尾語「コ」をつけて、この地における国家の独立と繁栄に対する願いを込めたそうです。
メキシコと日本の関係は昔から友好そうで、江戸時代の初めの1609年、フィリピン総督ドン・ロドリゴの一行がマニラからの帰途に、大暴風のため房総(現在の
千葉県)の御宿海岸に座礁難破したところを地元の漁民達に助けられ、時の大多喜藩主・本多忠朝がこれら一行をもてなし、徳川家康が用意した帆船でメキシコへ送還したことから、日本とメキシコとの交流が始まったとされています。
そして1874年には、太陽、金星、地球が一直線に並ぶ130年に一度の天文学上重要な年とされ、先進国は国の威信をかけて世界各地に観測隊を送り出しました。開国後間もない日本にもアメリカ、フランス、メキシコが観測隊を送り、このとき
横浜でメキシコ観測団の団長だったコバルビアスは、野毛山に観測場を設置し観測して後に「日本旅行記」という見聞録をまとめて当時の日本事情を紹介、日本に魅せられたそうです。
これが日本とメキシコの国交樹立にもつながり、日本が開国して諸外国と通商条約を結んだ中で、1888年(明治21年)メキシコと締結した日墨(ニチボク)修好通商条約は日本にとって初めての平等条約(アジア除く治外法権が無く、関税自主権のある条約)であり、諸外国の駐日大使館のうちでメキシコ大使館のみ東京都千代田区永田町にあるのはそういう意味もあるようです。
19世紀末にはメキシコへの移住が始まり、第二次世界大戦後まで続きました。移民者の数は総計10,000人余りに達し、その子孫が現在でも日系メキシコ人としてメキシコの各地に住んでいます。
1777年アメリカ合衆国の成立前後は、国境線が確定していなくて、各国植民地などの周辺諸国との紛争が絶えませんでした。
特にスペインの影響を色濃く残すメキシコとは
アラモの戦いのような大きな戦争が起きることがよくあり、メキシコ系住民を敵国の野蛮人として扱った経緯がありました。
1846年から1848年の間、テキサスの所属をめぐって衝突したアメリカ合衆国とメキシコの間で戦争(
米墨戦争)は、北部の侵略戦争 (War of Northern Aggression) として知られています。
スペインの植民地支配から独立革命を経て独立したメキシコは、第1次メキシコ帝国と共和国の時代を通じて、メキシコ北部の領地一帯を保持していたが、16世紀から続くネイティブアメリカンの群発する反乱が継続し、また1803年のルイジアナ買収によって西部への開拓を開始しやすくなった多くのアメリカ人が、メキシコ領北部に流入していました。
しかし、長期戦になった独立革命で弱体化したメキシコには、
北方の領地を統治する余裕が人的・金銭的になく、アントニオ・ロペス・デ・サンタ・アナによる中央集権体制は、メキシコ各地での反発を招き、各地で独立の機運が発生し、1836年にテキサス共和国がメキシコからの独立を宣言すると、1839年にフランス、1840年にオランダとイギリス、1841年にベルギーがテキサス共和国を承認。
そして1845年にテキサス共和国はアメリカに併合されましたが、メキシコ政府はアメリカ合衆国のテキサス併合は勿論、テキサス共和国の独立さえ未承認でした。
そこへ太平洋岸のカリフォルニアに自国の港を持ちたかったアメリカがメキシコ領カリフォルニアおよびニューメキシコを購入したいと申し出ましたが、世論から猛反発を受け交渉団は引き揚げましたが、1846年4月24日国境紛争から開戦し、圧勝した米国は、カリフォルニア・ニューメキシコを得ました。
1848年2月2日に調印されたグアダルーペ・イダルゴ条約は戦争を終結させて、アメリカにカリフォルニア、ネバダ、ユタと、アリゾナ、ニューメキシコ、ワイオミング、コロラドの大半にテキサスと同様の管理権を与えました。アメリカはこれに対し18,250,000ドル(現金15,000,000ドルと債務放棄3,250,000ドル)を支払い、このメキシコ割譲により、メキシコは国土の 1/3 を失いました。
不毛の砂漠地帯だったこれらの土地でしたが、その一年後(1849年)カリフォルニア州サクラメントでゴールドラッシュが起こり、さらにずいぶん後の20世紀前半には、テキサス州に無尽蔵といわれた油田が発見されて石油ブームが起こることになるのでした。
現在では、このような歴史に加え、不正就労目的で入国を企てる者や、既に不正に入国しているメキシコ系住民が多くなっているため、周囲の人々と軋轢を生んでいるそうですが、先祖が旧メキシコ領に住んでいて、テキサス併合や米墨戦争によって居住地がアメリカ合衆国領に組み入れられたため、アメリカ合衆国に代々住み着いている人々もいます。スペイン語圏諸国からアメリカ合衆国に渡って来た移民とその子孫は
ヒスパニック、ヒスパニック系アメリカ人と呼ばれています。
あの
マヤってここのところだったのですね。知らなかった。でも、「メシトリ」って日本語のようでメシトリコからメキシコ??
面白い言葉の変化です。ウィツィロポチトリは「左(南)の蜂鳥(ハチトリ)」の意味もあり、トリはそのまま鳥ですから、また日本語?不思議な感じです。そして、ゆくゆくはアメリカと戦っている。。。近いからだろうけど。
メキシコの治安が現在も悪いとされる理由は、先祖が旧メキシコ領にいたことから自国という思いが強いから不満が未だにあるからなのでしょうか。
ペットショップ内の「メキシカン・レッドニー・タランチュラ」がいた近くに「マメ知識」という紙が貼ってあって
「クモの体は、胴体がふたつに分かれ、前の方の体は頭と胸が一緒になっていて、8個の目と8本の足があり、後ろの膨らんだ腹の部分に、糸をはきだす管がるよ。」と書いてありました。「目が8個ってすごいね。そんなにいっぱいどこ見てるんだろね」なんてチビ雄と話して帰りました。
帰って調べると、クモの祖先は、多足類のように足が多く、進化していくうちに、栄養を蓄えるお腹が膨らみ、足が8本に退化、糸を出して巣を張ることができる体のつくりになったと考えらているそうです。
クモは、取り巻く環境の変化の中で子孫を作って生きのびていくために、長い時間をかけてそのすがた形になっていき進化していったそう。
なるほど。あの大きさで巣を張ったら大きそうだもんね。。。
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