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花はなぷりんのささやき

わたしのかんさつ日記

白人至上主義とキリスト教

2011-10-24 15:23:53 | 世界
これは、この続きでもあります。遅くなってしまいました。

キリスト教は十字軍など、あらゆる侵略や弾圧に利用されました。

十字軍とは、ヨーロッパのキリスト教国が、聖地エルサレムをイスラム教国から奪還するために派遣した遠征軍で、1096年から200年にわたって聖地エルサレムをめぐる戦いが繰り広げられました。
キリスト教国側から見れば義軍(異教徒に対する正義の戦い)でしたが、それは美化された歴史で、イスラム諸国や東方正教会諸国から見ればこれは、残忍な侵略軍で白人による侵略と言われたりしています。

エルサレムはユダヤ教、キリスト教、イスラム教の共通の聖地です。これら三つの宗教は同じ根っこを持った、いわば兄弟のような関係だそうです。

当時のエルサレムは、イスラム教を国教とするセルジューク・トルコ王朝の支配下に有りました。
この聖地エルサレムを西ヨーロッパのキリスト教諸国が、イスラム教諸国から取り戻す、というのが表向きの遠征理由でした。しかし、実はヴァイキングの延長のようなものでした。

セルジューク朝の圧迫に苦しんだ、当時の東ローマ帝国皇帝の依頼により、1095年にローマ教皇ウルバヌス2世がキリスト教徒に対し、イスラム教徒に対する軍事行動を呼びかけ、参加者には免償(罪の償いの免除)が与えられると宣言し、騎士たちは途上、イスラム教徒支配下の都市を攻略し、虐殺、レイプ、略奪を行いながらエルサレムを目指しました。

第1回目の十字軍遠征でエルサレムが十字軍の手に落ちると、大虐殺、大略奪が行われ、大勢のイスラム教徒やユダヤ教徒は生きながら焼き殺されたりしました。
そして、7回にわたる十字軍の東方遠征でも、その沿道での略奪、暴行、殺りくを繰り返し、その様子はまるで野蛮人そのものでした。

参加した兵士たちは宗教的信念と言うよりも、イスラム社会で略奪した戦利品の山分けや土地の分配など、財産を得たい欲求にあおられた人々だったのです。
ヨーロヅパ人が、中世東方に侵略した十字軍の侵略の残虐行為も、近世、世界中を荒し回った植民地帝国主義の暴挙も、このような、罪の意識を持たないですむ彼らに「都合のよい宗教的信念」で進められたので、キリスト教は、彼らの侵略や悪の隠れみのに利用されたのでしょう。

「神、それを欲し給う」という宗教的信念に訴えれば、キリスト教者のどのような罪の深さも、神の名によって帳消しにされ、罪が罪として意識されず、イスラム教徒やユダヤ教徒やキリスト教の神を信じない異教徒は何万人殺しても、神がその罪を許してくれるという、都合のいい解釈をされました。

このように十字軍とは、宗教(キリスト教)に名を借りた侵略と略奪の軍隊で、この白人の十字軍魂は、現在でもアメリカのアフガンやイラク攻撃などに表れていると、言われたりもしています。

イエス・キリストは、このようなつもりで教えを広めたとは思いませんが、結果として世界で侵略や略奪や殺りくに利用されてしまいました。

また、中世のヨーロッパでは、ローマ・カトリックの異端審問(魔女裁判)が行われ、カトリック以外の異端者をお互いに密告させ、神の名による(いい加減な)裁判と拷問で自白させ、教皇イノケンティウス8世が魔女裁判を公認してから、200年で無実の罪で殺された犠牲者は最大900万人と言われています。
神の名において、端審問や魔女狩りで多くの人が殺されました。

人間を幸せにするはずのキリストの教えが、白人の手により、人間を不幸にするための道具にもなりました。

キリスト教という盾を使って、殺人を正当化?汝の隣人を愛せ、や、右の頬を打たれたら、左の頬も向けなさい?とか、逆だなぁ。

そしてそれは、1492年(コロンブス)から、その輪を世界中に広めることになって行くのです。

十字軍が一段落した後、15世紀になると、複数の帆や羅針盤を備え外洋を航海出来る大型船が発明されました。

十字軍で中東のイスラム圏を侵略、略奪した白人は、世界中に出かけて行き、平和に暮らしていた先住民たちの国々を次々と自分たちのものにしてようとしました。

そしてそれは、ついに戦国時代の日本にも迫ったということのようです。




キリシタン

2011-10-24 13:53:19 | 世界
天草四郎が恨みを抱いていたとしたら、それは当時、執権を握っていた幕府へということで、過酷な税金の取り立てやキリシタンが受けた弾圧への恨みからってことになります。

天草四郎は16歳ですから、自分の意志で洗礼を受けたというより、家族や土地柄から影響を受けて信者になったんだと思いますが、そもそもはキリシタン大名の小西行長が信者になったから、家臣のお父さんもなったんでしょうね。
子供の善悪の判断をつけにくい頃から、宗教にふれてたら自然に思想も感化され生き方もコントロールされそうです。

それにしても、なんで、こんなにキリシタンを弾圧したんでしょう?

キリシタンとは、もともとはポルトガル語で「キリスト教徒」のことですが、キリスト教(カトリック)の信者・伝道者またその働きをする者をキリシタンと言ったらしく、江戸時代以降は禁教令等による弾圧に伴い侮蔑を込めて切死丹、鬼理死丹という当て字も使われるようになりました。

島原の乱があったのは、3代将軍徳川家光で鎖国体制の完成しつつある頃でした。
鎖国政策に関しては宣教師を工作員とした欧州各国の内政干渉と植民地化を予防し、日本の独立主権を保持することが目的で、政策面から国の将来を考えて行なったとする肯定的な評価もあります。

キリスト教が日本に伝わったのは、1549年イエズス会の司祭フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸して、日本で布教が始まりました。
そういえば以前、5月8日の記事にしてました。
当初は殆ど抵抗なく布教が許され、時の権力者である将軍・足利義輝、次の織田信長また、豊臣秀吉にしても、また多くの大名も宣教師を手厚く保護し、ほぼ40年にわたる自由な布教の結果、各地に多数の信徒が誕生しました。

信長も秀吉にしてもキリシタンに対しては最初は好意的でした。

しかし、信長は信者を増やし、キリシタン大名を操る宣教師たちの動きに次第に危機感を抱き、秀吉は宣教師たちのの野心を見抜き、だんだん危険視するようになり制限を設け始めたりもしました。

キリスト教という教義の下に何が隠れていたのでしょう。。。


山田良政のしんがい革命?

2011-10-12 07:00:21 | 世界

今年は辛亥革命から100周年の記念の年です。中国で清朝が倒された辛亥革命を祝う「双十節」が10日、横浜中華街(横浜市中区)で催されました。今年は「建国百年」に当たるとあって、例年にも増して盛大な祝賀行事が行われそうです。

辛亥革命に貢献した日本人としては、山田良政がよく知られています。

山田良政は、青森県出身の津軽藩士の家系で、北海道昆布会社の上海支店員となり、語学の才能を買われて陸軍通訳をし、辛亥革命の恵州起義【けいしゅうほうき】に参加し、孫文にも「中国革命に尽くして終生怠らざりし者に、山田兄弟、宮崎兄弟、菊池、萱野がある」と、はっきりと書き残され、評価された人です。

孫文と良政の初対面は、1899年でした。良政が一時帰国した時、孫文自らが、神田三崎へ良政を訪ねて来ています。 

良政は、孫文の祖国中国に寄せる愛国の情熱、アジア復興に対する崇高な理念、その情熱の滲み出るような人柄に深い深い感銘を受け、そして1900年2月には南京同文書院の教授兼幹事として、 南京に赴任していたその8月、孫文と再度、会談しました。

良政は、弟純三郎を連れて会談し「孫文がいよいよ台湾の対岸の恵州で、清朝打倒の旗揚げをしたいというから、自分の叔父菊池九郎と、台湾の民政長官後藤新平とは特別な関係がある。その後藤 に革命援助のことを頼んでみよう」という事を約束したのだといいます。

記録によると「予は、良政と向後の計を議す。 君(良政)いわく男児、事を謀る。 中道にして廃すべからず。 まさに最後の一齣(セキ) を演じてやむべし」概然として職をなげうって福建 章州に向うとあり、良政は南京同文書院の職を投げうって台湾に向かい、孫文に引き合わせた後藤の計らいにより、児玉台湾総督府長官は、「武器の供給と将校数名を貸与してやるから、革命軍は台湾対岸の海豊、陸豊まで進撃して来るように」と、孫文と確約しました。

孫文は直ちにその旨を指令し、挙兵にふみ切りました。しかし、9月26日山県内閣は総辞職し、10月19日伊藤博文内閣に変わり、新内閣は、革命軍に対する武器の援助と将校の支援を厳禁してしまいました。 

 良政は同志数名をともに、孫文の解散命令を軍に伝えるべく大陸へ潜行し、結局、革命軍は涙を飲んで解散となり、良政は少数の同志と共に退散の途中、三多祝で洪兆麟の率いる清兵と出遇い激戦となり、捕らえられて斬に処されてしまいました。

自らの口利きで日本が革命援助を約して孫文らが立ち上がったのに、政権交代とは言え約束を裏切る結果となってしまい、密使として解散を伝えることで役割は終了してたにも関わらず、三多祝において、良政はしんがりとなって戦う最中でした。

 孫文が1917年9月10日、大元師に就任、広東政府を樹立していた時のある宴席で、洪兆麟師団長に対して弟、純三郎に眼鏡をかけさして「君の殺した者の中に、こういう人相と似た者は、いなかったか」と尋ね、洪兆麟は「貴君の兄さんを殺したのは、この私です。どうか存分にして下さい」と申しでたと純三郎は語っています。

洪兆麟の語るところによると「私が殺した人は、弁髪で、眼鏡をかけ、支那服にわら帯をしめた外国人で、メリヤスのシャツを 着ていた 」 ことから、当時メリヤスは、中国人は着用していない時代だったので外国人ということが分かってしまいました。それでも、「お前は外国人だろう」と、何回も聞き返したが、良政は最後まで淡々として中国人だと答えて10月22日斬に処されました。33歳でした。

遺骨は孫文が探させたのですが見つかりませんでした。

しかし、1912年に孫文が辛亥革命に成功し、翌年、準国賓として来日し、東京谷中の全生庵に「山田良政之碑」を建設しています。

この時に孫文は「恵州の失敗は決して戦いの失敗ではない。日本政府がもしも前内閣の方針を守ったならば、児玉氏も依然その方針を改めずに我々を援助し、武器の輸出と将校の従軍とを禁じなかったであろう。」と追悼の辞を述べています。

また、国民革命忠烈祠(こくみんかくめいちゅうれつし:戦没した英霊を祀る祠)に、日本人でただ一人、良政が祀られています。

弟・純三郎は、兄の遺志を継いで、長く孫文に付き従ってその革命運動を助け、孫文は不撓不屈の革命家生涯を閉じました。享年58歳でした。

遺書の「革命未だ成功せず」という文は有名な話だそうです。

中国のために影で奔走し、中国革命を吾がことの様に挺身した日本人、山田良政。 寡黙であまり無駄口は言わず、人一倍の情熱を秘めながらも、己れに対しては、あくまでも厳しく、人には心裕かで温く、驕るようなことはなく、津軽藩士らしく、堂々たる風格と気品をそなえた青年だったそうです。

今日もご訪問をありがとうございます。


白人至上主義って肉食系?

2011-05-28 22:17:44 | 世界
スペイン語圏諸国からアメリカ合衆国に渡って来た移民とその子孫はヒスパニック、ヒスパニック系アメリカ人と呼ばれています。
2007年米国の国勢調査によると、約4527万人のヒスパニックが在住しておりヒスパニックの人口が全米人口の18%以上を占め、黒人を抜いて米国最大のマイノリティー集団に浮かび上がりました。さらに最近の毎回国勢調査で行われる「先祖の出身地」の自己申告では中南米(ヒスパニック)が断然の多数を占めるようになり、減少傾向にあるドイツ、黒人、アイルランド、イングランドがこれに相次いでいます。
ヒスパニックは高い出生率と移民を背景に、2050年までに1億3,300万人に上ると予測されています。これは2010年~2050年の間に増加する米人口のほぼ3分の2を占める確率です。
また、将来的には北欧系を抜き、マジョリティ(過半数)になることも予測されていて、彼らはその数の多さから、政治の分野においても無視できない存在となり、近年の大統領選挙においてもヒスパニック有権者の動向が注目されるようになりました。
ヒスパニックとは、スペイン語を母国語とする中南米系のアメリカに住む住人のことで、実質上は白人、黒人、黄色人種、混血と横断的な人種を意味し、そのため、ヒスパニックと答えた米国人のうち、人種的には白人と回答したものが48%になっているそうです。

アメリカに住んだことはないので、わからなかったのですけど、自由の国アメリカでも差別はありアメリカには「白人至上主義」という言葉があるのそうです。
「白人至上主義」とは、白人がそれ以外の人種(インドなどの肌の色が濃いコーカソイドを含む「有色人種」)より優れている、もしくはコーカソイドが他の人種より優れているという主張で、「肌の色が黒や黄色い者たちは、それだけで神への冒涜である。」「我々は先天的に優れているので、彼ら有色人種を奴隷にしたり、収奪しても神はお許しになるし、同じ人間としても認めなくてもよい。」という思想があるようです。

中でも、オーストラリアは白豪主義と呼ばれる強烈な白人至上主義で知られ、過去には先住民アボリジニに対する虐殺や、第二次世界大戦時における日本軍兵士捕虜に対する虐待やアメリカの黒人部隊の上陸の拒否などで知られています。

この差別の歴史の始まりは、近世以降、ヨーロッパ人による海外進出が進むと、これまで直接的には関与しなかったアジアやアフリカを支配下に収め始めたことからのようで、欧州諸国では自分達が同じ人類である植民地の住人を奴隷化したり収奪の対象とすることを正当化するため、その地の住民は自分達(白人)とは異なる劣った人種であり、対等に扱う必要性はないと考える白人優越思想が広まりました。

ヨーロッパの土地は日本よりもはるかに北に有ります。例えばイギリスの位置は、日本のはるか北の千島列島の、さらに北のカムチャッカ半島と同じ緯度になります。大地は大昔、氷河により地表の土壌が削り取られ、岩石や砂利が地表を覆っていました。
冬の長いヨーロッパでは、天候不順は致命的な飢饉を招き、来年の種用にとっておいた穀物まで食用にしなければ飢え死にしてしまいます。そういった理由で農業には適さず、昔は日本などに比べると同じ面積で採れる作物は数分の1だったと言われています。
このような過酷な風土では、コツコツと農業で作物を収穫するよりも、略奪によって食糧を奪う方が手っ取り早い)ということになったようです。土地が農業に向かないので、狩猟や牧畜や酪農が生活の基本になり、狩猟は動物を盗るために罠や囮を仕掛け、獲物を騙したりおびき寄せたりします。
捕まえた動物を食べる為には殺して皮をはいで血を抜き、料理する必要がありますが、動物が可哀そうなどと憐れみをかけていては、ヨーロッパでは生きて行けなかったのでした。この様に何千年にもわたる厳しい環境の中で、ヨーロッパの白人たちがどう猛な肉食動物の如く残虐性を持つようになりました。

この残虐性によって、その後の歴史で世界中の有色人種が、白人から虐待されたり奴隷にされたのは、人類にとって大きな影響を与えて行ったようです。

中世までのヨーロッパでは、普通の庶民でさえ略奪や防御のために自宅に武器を持ち、バイキングの発生ともいえる荒っぽい者は、船でヨーロッパ中を駆け巡って略奪をして回りました。

日本などでは泥棒や強盗は昔から悪い、というのは当たり前の感覚ですが、ヨーロッパの白人にとっては、略奪は勇ましく勇敢で頭が優秀な証拠でした。今でも一部のヨーロッパの人は、先祖が勇敢なバイキングだったことを誇らしげに語るのだそうです。
そして、バイキングでヨーロッパ内を侵略、略奪した白人は、イスラム圏への侵略もはじめました。

当時の白人社会は隙さえあれば略奪、強盗が当たり前で、自分のものは鍵をかけて守らなければなりませんでした。

日本では戦前までは家に鍵をかけないのが普通でした。
春夏秋冬、四季折々を感じながら汗をかき、コツコツと苗を植えて稲にして米作りをして農業に勤しんでいた日本人とは、生き方が全くちがうようです。土地柄、仕方名の無いことだとしても、略奪や侵略は限りがあることですけど。。。

白人のイメージが変わりますね。略奪・侵略がはじまりで自分たちを優れてると思ってる人たち???
でも、人種で決めつけちゃいけないですよね。争いは昔から日本でもあったことですものね。大きく分けて例えてるだけですからね。

白人の歴史を調べていたら、こんなことになって。。。今日はこの辺で。また、つづきを書きます。

今日もご訪問をありがとうございます。

メキシカン・レッドニー・タランチュラ

2011-05-27 03:58:28 | 世界
チビ雄の一週間前に自転車でこけた傷と打撲が、嘘のように治り、24日に8針縫ったところの抜糸となりました。
そして、病院に行ったあと、買い物のついで寄ったペットショップでチビ雄、カブトムシやクワガタを観察しました。結構、広いペットショップだったので、色々な生き物がいました。カメレオンやヤドカリなどもいて、動きをじっと見てたら面白かったです。
そして帰ろうとすると、チビ雄くんあるものの前で足が止まりました。「メキシカン・レッドニー・タランチュラ」毒々しい毒蜘蛛で有名な赤と黒のカラー目立つ、体調約8センチほどある蜘蛛でお値段14800円。そういえば2週間ほど前、チビ雄はタランチュラに触って噛まれる夢を見たと言っていたなぁ。タランチュラを何処で知ったんだろう?
「でっかい蜘蛛やな~」チビ雄くんの感想です。本当、こんな蜘蛛はナカナカ見る機会はなかったので、親子でマジマジとみました。
「メキシコって何処?」うーん、地理が得意じゃない母は即答できませんでした。なのでちょっとお勉強してみます。

メキシコは、北アメリカ南部に位置するラテンアメリカの連邦共和制国家で、北にアメリカ合衆国、南東にグアテマラ、西は太平洋、東は大西洋とカリブ海のメキシコ湾に面す首都はメキシコシティです。メキシコはラテンアメリカ最北に位置し、ブラジル、アルゼンチンに次いて面積は3番目の大きさです。

現在のメキシコに当たる地域では2万年前の遺跡が発見されており、それ以前から人間が住んでいたと考えられています。
先古典期中期の紀元前1300年頃、メキシコ湾岸を中心にオルメカ文明がおこりました。オルメカの人々は、自然の丘陵を利用してサン=ロレンソ(ベラクルス州)、後にラ・ベンタ(タバスコ州)という祭祀センターを築きました。
オルメカ文明は、彼らの支配者の容貌を刻んだとされているネグロイド(黒色人種)的風貌の巨石人頭像で知られています。
先古典期の終わりごろ、メキシコ中央高原のテスココ湖の南方に、円形の大ピラミッドで知られるクィクィルコ、東方にテオティワカンの巨大都市が築かれたその後も後期マヤおよびアステカのような複数の高度な先住民文明の拠点として繁栄を極めました。

国名のメキシコは、独立戦争の最中の1821年に決定したものであり、アステカの言語ナワトル語で、「メシトリの地」という意味で、メシトリは、アステカ族の守護神で「太陽・戦い・狩猟の神」であるウィツィロポチトリ(Huitzilopochtli)の別名で、「神に選ばれし者」という意味があり、アステカで最も信仰されたこの神の名に、場所を表す接尾語「コ」をつけて、この地における国家の独立と繁栄に対する願いを込めたそうです。

メキシコと日本の関係は昔から友好そうで、江戸時代の初めの1609年、フィリピン総督ドン・ロドリゴの一行がマニラからの帰途に、大暴風のため房総(現在の千葉県)の御宿海岸に座礁難破したところを地元の漁民達に助けられ、時の大多喜藩主・本多忠朝がこれら一行をもてなし、徳川家康が用意した帆船でメキシコへ送還したことから、日本とメキシコとの交流が始まったとされています。
そして1874年には、太陽、金星、地球が一直線に並ぶ130年に一度の天文学上重要な年とされ、先進国は国の威信をかけて世界各地に観測隊を送り出しました。開国後間もない日本にもアメリカ、フランス、メキシコが観測隊を送り、このとき横浜でメキシコ観測団の団長だったコバルビアスは、野毛山に観測場を設置し観測して後に「日本旅行記」という見聞録をまとめて当時の日本事情を紹介、日本に魅せられたそうです。
これが日本とメキシコの国交樹立にもつながり、日本が開国して諸外国と通商条約を結んだ中で、1888年(明治21年)メキシコと締結した日墨(ニチボク)修好通商条約は日本にとって初めての平等条約(アジア除く治外法権が無く、関税自主権のある条約)であり、諸外国の駐日大使館のうちでメキシコ大使館のみ東京都千代田区永田町にあるのはそういう意味もあるようです。
19世紀末にはメキシコへの移住が始まり、第二次世界大戦後まで続きました。移民者の数は総計10,000人余りに達し、その子孫が現在でも日系メキシコ人としてメキシコの各地に住んでいます。

1777年アメリカ合衆国の成立前後は、国境線が確定していなくて、各国植民地などの周辺諸国との紛争が絶えませんでした。
特にスペインの影響を色濃く残すメキシコとはアラモの戦いのような大きな戦争が起きることがよくあり、メキシコ系住民を敵国の野蛮人として扱った経緯がありました。
1846年から1848年の間、テキサスの所属をめぐって衝突したアメリカ合衆国とメキシコの間で戦争(米墨戦争)は、北部の侵略戦争 (War of Northern Aggression) として知られています。
スペインの植民地支配から独立革命を経て独立したメキシコは、第1次メキシコ帝国と共和国の時代を通じて、メキシコ北部の領地一帯を保持していたが、16世紀から続くネイティブアメリカンの群発する反乱が継続し、また1803年のルイジアナ買収によって西部への開拓を開始しやすくなった多くのアメリカ人が、メキシコ領北部に流入していました。
しかし、長期戦になった独立革命で弱体化したメキシコには、北方の領地を統治する余裕が人的・金銭的になく、アントニオ・ロペス・デ・サンタ・アナによる中央集権体制は、メキシコ各地での反発を招き、各地で独立の機運が発生し、1836年にテキサス共和国がメキシコからの独立を宣言すると、1839年にフランス、1840年にオランダとイギリス、1841年にベルギーがテキサス共和国を承認。
そして1845年にテキサス共和国はアメリカに併合されましたが、メキシコ政府はアメリカ合衆国のテキサス併合は勿論、テキサス共和国の独立さえ未承認でした。
そこへ太平洋岸のカリフォルニアに自国の港を持ちたかったアメリカがメキシコ領カリフォルニアおよびニューメキシコを購入したいと申し出ましたが、世論から猛反発を受け交渉団は引き揚げましたが、1846年4月24日国境紛争から開戦し、圧勝した米国は、カリフォルニア・ニューメキシコを得ました。

1848年2月2日に調印されたグアダルーペ・イダルゴ条約は戦争を終結させて、アメリカにカリフォルニア、ネバダ、ユタと、アリゾナ、ニューメキシコ、ワイオミング、コロラドの大半にテキサスと同様の管理権を与えました。アメリカはこれに対し18,250,000ドル(現金15,000,000ドルと債務放棄3,250,000ドル)を支払い、このメキシコ割譲により、メキシコは国土の 1/3 を失いました。
不毛の砂漠地帯だったこれらの土地でしたが、その一年後(1849年)カリフォルニア州サクラメントでゴールドラッシュが起こり、さらにずいぶん後の20世紀前半には、テキサス州に無尽蔵といわれた油田が発見されて石油ブームが起こることになるのでした。

現在では、このような歴史に加え、不正就労目的で入国を企てる者や、既に不正に入国しているメキシコ系住民が多くなっているため、周囲の人々と軋轢を生んでいるそうですが、先祖が旧メキシコ領に住んでいて、テキサス併合や米墨戦争によって居住地がアメリカ合衆国領に組み入れられたため、アメリカ合衆国に代々住み着いている人々もいます。スペイン語圏諸国からアメリカ合衆国に渡って来た移民とその子孫はヒスパニック、ヒスパニック系アメリカ人と呼ばれています。

あのマヤってここのところだったのですね。知らなかった。でも、「メシトリ」って日本語のようでメシトリコからメキシコ??
面白い言葉の変化です。ウィツィロポチトリは「左(南)の蜂鳥(ハチトリ)」の意味もあり、トリはそのまま鳥ですから、また日本語?不思議な感じです。そして、ゆくゆくはアメリカと戦っている。。。近いからだろうけど。
メキシコの治安が現在も悪いとされる理由は、先祖が旧メキシコ領にいたことから自国という思いが強いから不満が未だにあるからなのでしょうか。

ペットショップ内の「メキシカン・レッドニー・タランチュラ」がいた近くに「マメ知識」という紙が貼ってあって
「クモの体は、胴体がふたつに分かれ、前の方の体は頭と胸が一緒になっていて、8個の目と8本の足があり、後ろの膨らんだ腹の部分に、糸をはきだす管がるよ。」と書いてありました。「目が8個ってすごいね。そんなにいっぱいどこ見てるんだろね」なんてチビ雄と話して帰りました。

帰って調べると、クモの祖先は、多足類のように足が多く、進化していくうちに、栄養を蓄えるお腹が膨らみ、足が8本に退化、糸を出して巣を張ることができる体のつくりになったと考えらているそうです。
クモは、取り巻く環境の変化の中で子孫を作って生きのびていくために、長い時間をかけてそのすがた形になっていき進化していったそう。

なるほど。あの大きさで巣を張ったら大きそうだもんね。。。

今日もご訪問をありがとうございます。