京都逍遥

◇◆◇京都に暮らす大阪人、京都を歩く

妙蓮寺*まるごと美術館2024春

2024-03-30 21:18:10 | まち歩き

前回の記事『妙顕寺』に続き、この春の「まるごと美術館」の妙蓮寺へ。妙蓮寺は、堀川通を挟んで、妙顕寺のちょうど反対側辺りにある。

塀の右側に「まるごと美術館」の幟。

本堂向かって右手前にある桜は御会式櫻という。10月13日(日蓮の入滅日)頃から咲き始め、春に満開になるという桜で、俳句で冬の季語でもあるらしい。

枝に括りつけられた注意書きには、「枝からもぎ取らないで」「散った花弁を持ち帰る」とある。花弁を持ち帰ると恋愛が成就するという言い伝えがあるらしいが、不心得者がよほど多かったのだろう。桜の木がかわいそうだ。

御会式櫻は奥書院に面した十六羅漢の石庭にも植えられている。

北山杉と御会式櫻を背景にした石庭。きちんと整えられた植栽が清々しい。枝先しか写っていないが、庭に向かって左手には、モチノキが植わっていた。この庭には不釣り合いな気がして、初めから植えられていたのかどうか気になる。

妙蓮寺では、本堂を抜けて奥書院手前の外庭脇の廊下突き当りから、森島善則氏の写真が展示されていた。見に行って良かった。撮影自由だったので写してみたが、実物はもっとずっといい色である。

ご本人のHPで見た方がいい。

unreality flows ► Yoshinori Morishima

なんだろう、アクリル絵の具のフルイドアートかな?と思いながら数点見ていると、解説ボランティアの方が「写真なんですよ」と声をかけてきた。特にカラフルな作品のひとつは、道頓堀川を撮ったものなのだそうだ。川の水面にゆらめく色彩を写真に収めるとこんな風になるなんて。

「写真には合成や加工は加えず、『光の反射する水面』を切り取った写真作品」と展示会案内にあった。

別の作家の屏風も迫力があって、お寺という空間にぴったり。

奥書院には四季の襖絵があり、「冬の川」は銀箔の襖に白い鷺が描かれていた。

この襖の裏側は「秋の山」。金箔の襖に紅葉、薄、秋の花と満月である。

「春の野」は、銀箔の襖に鹿。

春の裏側は「夏の池」で杜若が八つ橋と共に描かれている。そこは床の間と違い棚を有する最も広い部屋で、東の襖には睡蓮が描かれていた。

春夏秋冬いずれもすっきりとした襖絵。ただし、長谷川等伯の襖絵は収蔵庫にあり、見ることはできなかった。収蔵庫の拝観は、毎月1日のみ(要予約)。また、水曜日は拝観休止である。

上の写真は、白い木蓮の庭。

これは、妙蓮寺椿。お茶席に人気の品種らしい。椿の見ごろは12月~2月頃か。もう花は終わりかけだ。

妙蓮寺椿のある奥書院の入り口右手には、紫木蓮がきれいに咲いている(写真では見づらいが)。

鐘楼は美しい姿をしている。横に藤棚があるので、5月頃に来るのもいい。

 

お天気は良かったのに、妙顕寺同様、拝観の人数は少なかった。八重桜、枝垂桜、ソメイヨシノもまだ咲いておらず、お庭はきれいに整っているが少し寂しいかもしれない。4月7日の展覧会終了までに華やかになるかどうかわからないが、桜はなくても、写真作品に興味のある方はぜひ。

 

寺名に聞き覚えがあるし、本堂前の様子に見覚えがある……調べてみると、2014年5月に記事を書いていた。

妙蓮寺 - 京都逍遥 (goo.ne.jp)


妙顕寺*まるごと美術館2024春

2024-03-29 21:19:10 | まち歩き

3/23(土)~4/7(日)の日程で、西陣で「まるごと美術館」が開催されている。

まるごと美術館HP:まるごと美術館 -Kyoto Marugoto Museum- (kyoto-marugoto.com)

地域活性化を目指す西陣の有志団体で、2017年に個人で活動を開始した後、2019年に運営メンバーが揃って現在の形になったらしい。神社仏閣の協力のもと、春と秋に展覧会を行っている。寺社を会場にしたアート・工芸品の展覧会と、会場になった寺社の特別拝観のセットというものだ。今年は、妙顕寺と妙蓮寺の二箇所である。

妙顕寺のある寺之内通はGateau de Miel に行くときに何度も通っていたが、一般の拝観ができると思わず、いつも横目に通り過ぎていた。いい機会なので、行ってみた。

石柱で一目瞭然だが、ここは日蓮宗のお寺、山門にあるように勅願寺(1334年)であるゆえ、菊の御紋も見える。しかも大本山とのこと。1321年創建で何度か移転・改称、延暦寺による2度の破却、改称、焼失、秀吉による寺地移転の後も大火で焼失、再建を経て今に至っている。

京都には具足山は三箇所ある。龍華 具足山 妙顕寺のほかには西龍華 具足山 立本寺(寺内に具足山教法院も)、北龍華 具足山 妙覚寺。

岡山にある具足山妙本寺なども、同様の由緒があるのかもしれない。

立派な大本堂。拝観は、本堂左手奥にある方丈が入口である。

大玄関で巨大な苔玉に出合う。迫力あり。大本堂の格天井には数々の家紋。花天井はよく見かけるが、家紋は初めてと思っていると、説明文を見つけて納得。もとの本堂は二匹の龍が描かれていたが、再建の際に寄進者の家紋を天井に入れた、とのこと。本堂なので、さすがに撮影は遠慮した。

四海唱導の庭は、まだ桜には早かったが、手水には花々。木々も美しく剪定され、見ごたえがあるお庭だった。

和装婚礼衣装の外国人カップルが、廊下を進む。カメラマンの指示を通訳する声が聞こえる。確かに前撮りにぴったりの場所だ。

大客殿のすだれ作品を鑑賞し、茶室手前の円窓からお庭を見る。

円窓から見えるのは「光琳曲水の庭」で、枝ぶりの見事な赤松と黒松が主役であった。こちらも、美しいお庭である。

書院側には「抱一曲水の庭」があるが、現在、書院一帯を改装中で、見ることはできなかった。隣接する「孟宗竹の坪庭」にも足場が組まれている。

京都は今日、桜の開花宣言があったが、門前のしだれ桜の見ごろは、あと2週間ほど先になるだろう。「まるごと美術館」の催しがあまり知られていないのか、参観者が少なく、もったいない。建物は立派、お庭も見事。HPは見やすいし、拝観料(800円)と引き換えに渡される印刷物もコンパクトにまとまっていてわかりやすい。渉成園の詳しいパンフレットもそれはそれでよかったが、仏教に詳しくない者にとっては必要最小限の情報だけというのもいい。京都で数々の寺社を巡ったが、この印刷物は一番だ、多分。

京都|日蓮宗大本山 妙顯寺 (shikaishodo-myokenji.org)

堀川通から少し入っただけで静けさと安らぎを得られる。信仰心がなくとも、お庭を見るだけでも立ち寄る価値のある場所だと思う。本堂外廊下の傷み具合を考えると、大人数の参観は歓迎されないかもしれないが。

酒井抱一をテーマにした庭を見に再訪したい。年中拝観可能(不定休のためHPを確認)だが、抱一曲水の庭がある一角――寺務所より北側奥――は特別公開の時期にだけ見ることができるそうだ。秋の特別公開には改装が終わっているだろうか。


千両ヶ辻󠄀ひな祭り

2024-03-23 18:23:52 | まち歩き

3月2日・3日と、「千両ヶ辻󠄀」と言われる西陣の一角で、町家の公開と物品の販売等が行われた。

千両ヶ辻󠄀公式HPによると、「江戸時代中期頃(西陣の黄金期)より生糸問屋・織物問屋が軒を並べ、日々千両に値する生糸や織物を
商ったことから『千両ヶ辻』と呼ばれて」いたとのこと。

西陣の中心地「千両ヶ辻」 – 京都・西陣 千両ヶ辻(公式サイト) (senryougatsuji.com)

地図にあるように、江戸時代の西陣織黄金期に繁栄を誇った大宮通が、その地である。大宮通といえば、平安時代の大通りである。南北の通りでは、朱雀大路が最も広く28丈で、次が12丈の大宮大路(現 大宮通)と西大宮大路(現 御前通)であった。

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やがて大内裏の修理式町という建築業の人々の所属する役所に通じる南北の小路が、町の小路と呼ばれて、最初の町場の発展の場所となる。……(中略)……『かげろふ日記』の著者が、怒って書いている兼家の愛人が「町の小路の女」であった。……(中略)……「町の小路」は現在の新町のことである。それ以来、新町と室町が、もっとも繁華な下京の商業区域を誇ったのである。とりわけその町と三条・四条・七条の交差点が、三条町・四条町・七条町といわれて繁華街となった。

『物語 京都の歴史』(中公新書)

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平安中期、大宮大路は広い通りではあるが繁華ではなかったようだ。応仁の乱後に西陣織が発展を遂げ、江戸時代になると値千両の物品が日々商われる通りとなったようである。

なお、千両は現在の価値で約6300万円程度に換算(米5㎏≒2100円)される。とんでもない金額。それでは、江戸時代にはもっとも繁華な商業区域は、大宮通に移っていたということになる。

日本銀行金融研究所貨幣博物館HP:(江戸時代の1両は今のいくら? - 貨幣博物館 (boj.or.jp

ひな祭りに戻ろう。

京都の写真撮影の第一人者である水野克比古氏の町家写真館では、上の写真のように雛飾りが2部屋の南北の壁に沿ってずらっと並べられ、圧巻であった。江戸時代のものもあり、水野家の歴史を感じさせられた。なかには立派な7段飾りも。飾るだけで1週間はかかったと聞いたが、片づけるのはもっと大変だろう。見せて頂いたことに感謝である。当日は参観者が非常に多く、全体を見渡した写真は撮影できず残念。お雛様の上部には「恵方棚」なるものもしつらえられ、毎年方向を変えるのだという。これは私にとって初見であるが、どの程度珍しいものなのかはわからない。

苔の美しい坪庭も拝見。どんな手入れをしたら、こんな見事な苔の庭になるのだろう。

町家写真館の玄関を入ったみせの間では、写真集が販売されていた。そこには並んでいなかったが、以前、書店で選んで購入したのは『京都名庭園』と『京都桜名所』。ともに光村推古書院の出版で美しい写真が並ぶが、特に前者は何度も見返している。

 

さて、お雛さまのあとは、レース博物館へ。さまざまなレースが展示され、興味深かった。ここでは、通常でもレース布の販売をしているらしい。海外有名ブランド使用のレースも展示されていた。

ミュージアム内外観

 

秋には「西陣伝統文化祭千両ヶ辻󠄀」が毎年開催されるそうな。出店の店舗が増えるのか、別のイベントがあるのか、楽しみである。

 

 


六条河原院と古典②

2024-03-15 16:31:37 | 国文学

宇治拾遺物語、謡曲のほかにも、六条河原院を題材とした古典文学は存在する。

同時代人が六条院を評したものを引用する。

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むかし、左のおほいまうちぎみいまそかりけり。賀茂川のほとりに、六條わたりに、家をいとおもしろく造りて住み給ひけり。神無月のつごもりがた、菊の花うつろひざかりなるに、紅葉の千種に見ゆる折、親王たちおはしまさせて、夜ひと夜、酒のみし遊びて、夜あけもて行くほどに、この殿のおもしろきをほむる歌よむ。そこにありけるかたゐ翁、板敷のしたにはひありきて、人にみなよませ果ててよめる。

 塩釜にいつか来にけむ朝なぎに

   釣りする舟はここによらなむ

となむよみけるは、みちの国にいきたりけるに、あやしくおもしろき所々おほかりけり。わがみかど六十余国の中に塩釜といふ所に似たるところなかりけり。さればなむ、かの翁、さらにここをめでて、「塩釜にいつか来にけむ」とよめりける。

 『伊勢物語』第81段(新潮日本古典集成)

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同書同段頭注に「業平は融の三歳年下」とある通り、融(822-895)と業平(825-880)は同時代人である。『伊勢物語』はほとんどの段が「むかしをとこ」の物語であり、実在人物を語る段も「むかし」と始まる。ここでは河原院の風情あるさまが描かれている。

 

京都市考古資料館に置いているリーフレット「平安京の構造」によれば、「貴族には地位や身分に応じて宅地が与えられ、風情を凝らした庭園を備えた邸宅が営まれ」たとのこと。一方、慶滋保胤(933?-1002)による『池亭記』では、六条大路より北の土地を購入して家を建てたことが記されている。

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予本無居処、寄居上東門之人家。常思損益、不要永住。縦求不可得之。其価直二三畝千万銭乎。予六条以北、初朴荒地、築四垣開一門。

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保胤の生きた時代は源融の生年とは100年超の開きがあるが、京都アスニーで入手した地図「平安京の主な施設と邸宅」には、ともにその場所が記されている。「池亭」と記載があるのは、北は六条坊門小路、南は揚梅小路、東は室町小路、西は町小路に囲まれた左京三坊六条の一町分の区画の土地である。現在の下京中学校の辺りだろうか。六条河原院の敷地は、その4倍の広さ。同じ広さの邸宅は、宇多院、淳和院、冷泉院、四条後院など譲位後の御所のほかは、高陽院(賀陽親王邸を入手した藤原頼道が邸宅を拡大したもの)のみである。敷地だけでも、河原院は特別であることがわかる。

平安京は、その末期には左京を中心として発展していくが、二条大路より北は貴族の邸宅、南は庶民の居住区で商業地域となっていったようだ。六条河原院は融の没後、息子が相続して宇多天皇に献上したというが、住む人のいなくなった京の東端の豪邸が、見捨てられた結果、どうなったか。

「六条河原院…(中略)…それはたちまち廃墟(原文ママ)と化し、『源氏物語』では怨霊が出る話が作られ、『今昔物語集』では幽霊の出る説話の場所となった」【『物語 京都の歴史』(中公新書)】

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いさよふ月にゆくりなくあくがれんことを、女は思ひやすらひ…(中略)…そのわたり近きなにがしの院におはしまし着きて、預り召し出づるほど、荒れたる門の忍ぶ草茂りて見上げられたる、たとしへなく木暗し…(中略)…宵過ぐるほど、すこし寝入りたまへるに、御枕上にいとをかしげなる女ゐて、「おのがいとめでたしと見たてまつるをば尋ね思ほさで、かくことなることなき人を率ておはして時めかしたまふこそ、いとめざましくつらけれ」…(中略)…物に襲はるる心地して、おどろきたまへれば、灯も消えにけり…(中略)…女君いみじくわななきまどひて、いかさまにせむと思へり…(中略)…この枕上に夢に見えつる容貌したる女、面影に見えてふと消え失せぬ…(中略)…この人いかになりぬるぞと思ほす心騒ぎに、身の上も知られたまはず添ひ臥して、「やや」とおどろかしたまへど、ただ冷えに冷え入りて、息はとく絶えはてにけり。…(中略)…かのありし院ながら、添ひたりし女のさまも同じやうにて見えければ、荒れたりし所に棲みけんものの我に見入れけんたよりに、かくなりぬることと思し出づるにも、ゆゆしくなん。

『源氏物語①』夕顔巻(小学館 日本古典文学全集20)

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院に棲む物の怪が自分に取り付いて夕顔を取り殺したのだ、と源氏は述懐している。「なにがしの院」は「河原院がモデルといわれる。河原院は…(中略)…種々の古記録によれば、延長四年(九二六)、六月二十五日、融の亡霊が現れた。十世紀ごろには荒廃していた」と頭注にある。

 

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今は昔、河原の院は、融の左大臣の家なり。陸奥の塩竈の形を作りて、潮を汲み寄せて、塩を焼かせなど、さまざまのをかしきことを尽して、住み給ひける。大臣失せてのち、宇多院には奉りたるなり。延喜の帝、たびたび行幸ありけり。また、院の住ませ給ひけるをりに、夜中ばかりに…(中略)…日の装束うるはしくしたる人の…(中略)…かしこまりてゐたり…(中略)…「融の大臣か」と問はせ給へば、「しかに候ふ」と申す…(中略)…「…(中略)…故大臣の子孫の、われに取らせたれば、住むにこそあれ。わが押しとリて、ゐたらばこそあらめ、礼も知らず、いかにかくは恨むるぞ」と、高やかに仰せられければ、かい消つやうに失せぬ。……

『宇治拾遺物語』151話:河原の院、融公の霊住む事

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ここでは、融の亡霊が出現しているものの、宇多院に一喝されて退散しているので、さして恐ろしい話ではない。これと同話が『今昔物語集』巻27第2話にある。

一方で『今昔物語集』巻27第17話では、妻と上洛した男が河原院に泊まった際、鬼に妻を吸い殺されるというおどろおどろしい話が語られる。手元に現代語訳しかないが、引用する。

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今は昔のこと、五位の位を買うために、東国から都を指してのぼって来た者があった。その妻も、

「それはさいわい、わたしも京見物に」

と言って、夫といっしょに上洛したが、おり悪しく予定した宿がふさがって、行きどころがなくなってしまった。そこにたまたま、河原の院という東六条にある古びた大きな屋敷が、住む人もなかったので、少しばかりの縁をたよりに、留守をあずかる者に一晩貸してくれるように頼みこんだ。……(中略)……なんとも正体のわからぬ物が、さっと手を差し伸ばして、ここにいた妻を摑み取り……(中略)……見る見るうちに妻が引きずり込まれたから、自分も大急ぎで開き戸に飛びつき、さて開こうとして引っ張っても、もうしまったきりびくともあかなくなった。……(中略)……斧を持ち出して切り開き、灯を点して中へはいってみた。すると妻を、どういうふうにしたものか……(中略)……鬼が吸い殺したのだと、人々は口々に話し合った……(中略)……様子を知らない古い家なんかには、宿を取るべきではない、という話である。

『今昔物語』日本古典文庫11(河出書房新社)第三部 霊気 鬼のため妻を吸い殺される話 福永武彦訳

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なお、「河原」についてだが、『方丈記』(新潮日本古典集成)頭注に、「鴨川の通称」とある。

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……三十あまりにして、更に、わが心と、一つの庵をむすぶ。

 これをありしすまひにならぶるに、十分が一なり……(中略)……所、河原近ければ、水難もふかく、白波のおそれもさわがし。

 『方丈記 発心集』(新潮日本古典集成)方丈記 四

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同書には「河原」がほかにも数回登場する。

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築地のつら、道のほとりに、飢ゑ死ぬるもののたぐひ、数も知らず……(中略)……いはむや、河原などには、馬・車の行き交ふ道だになし

 『方丈記 発心集』(新潮日本古典集成)方丈記 二

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『方丈記』の最終文に「時に、建暦の二年、弥生のつごもりごろ、桑門の蓮胤、外山の庵にして、これをしるす」とあり、1212年の著であることがわかる。「河原院」は鴨川のほとりの邸宅で、その通称は300年を超えて使われ、さらに現在の河原町通の名称にもつながっていると言えるだろう。


六条河原院と古典①

2024-03-12 22:16:49 | 国文学

前回の記事「六条河原院跡」の看板にある「難波の浦」の出典は、顕昭の『古今和歌集鈔』であるようだ。

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顕昭の『古今和歌集鈔』に、「毎月難波ノ潮二十斛ヲ汲マシメテ、日ニ塩ヲ煑テ、以テ陸奥ノ塩釜浦ノ勝槩ヲ 模ス」とある

(新潮日本古典集成『宇治拾遺物語』[151]「河原の院融公の霊住む事」頭注)

 *ルビ省略 

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ここでは「二十斛」と、数字が違う。

 

国書データベースの『古今集註』では、「難波」の記述は見つからなかった。

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カハラノ ヒタリオホイマウチキミノ ミマカリテノ後

カノ家ニ マカリテアリケルニ シホカマトイフトコロノサマヲ

ツクレリケルヲ ミテヨメル            ツラユキ

キミマサテ ケフリタエニシ ゝホカマノ ウラサヒシクモ ミエワタルカナ

 

カノイエとイヘルハ■■河原院ナリ 六條坊門ヨリハ南 六条ヨリハ北 万里小路ヨリハ東 川原ヨリハ西

方四町也、池ニ 毎月ニ 塩三十斛ヲ入テ

海底ノ魚蟲ヲ 令住之由 清輔所注也 大臣之後為寛平法皇御所 ■■云 本号東六条院

令ハ堂也 隆国卿注者 作陸奥塩竃形汲湛湖水云々

(国書データベース『古今集註』p.152:国書データベース (nijl.ac.jp)

  *訓点省略。読み取れない部分は■で表示

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ここでは、池には海水ではなく塩を入れたことになっているが、源隆国(醍醐天皇の曾孫)の注には湖水を湛えたなどとある、としている。

すべての底本を確認することはできないうえ、研究者でもないので深追いはしないが、引用の底本だけは調べておこう。

国書データベース(宮内庁書陵部蔵書)『古今集註』は貫之自筆の小野皇太后宮本を藤原通宗書写の通宗本をもとにした清輔本を底本とし、新潮日本古典集成『古今和歌集』は俊成本の昭和切をほかの写本で校合した定家本系統の貞応二年本を底本としているようだ。源融(822頃-895頃)、清輔(1104-1177)、貞応2年(1223)、顕昭(1130頃-1209頃)、こうして年代を並べると、異同は「伝承」の一言で片づけるしかない。

 

後世、世阿弥(1363-1443)が創作した能「融」のシテは次のように謡う。

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嵯峨の天皇の御宇に 融の大臣陸奥の千賀の塩竈の眺望を聞し召し及ばせたまひ この所に塩竈を移し あの難波御津の浦よりも 日ごとにを汲ませ ここにて塩を焼かせつつ 一生御遊の便りとしたまふ しかれどもそののちは相続してぶ人もなければ 浦はそのまま干潮となつて 池辺に淀む溜水は 雨の残りの古き江に 落葉散り浮く松蔭の 月だにまで秋風の のみ残るばかりなり されば歌にも 君まさで 煙絶えにし塩竈の うらしくも見えわたるかなと 貫之めて候

            (観世流謡曲集)

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渉成園での解説ボランティアの方が「毎日大阪から海水を運んで」と言っていたのが気になって、調べた。それは無理だろう、言い間違え?と思ったが、謡曲をもとに解説しておられたのかもしれない。

 

 *2024年3月14日加筆修正