京都逍遥

◇◆◇京都に暮らす大阪人、京都を歩く

上賀茂神社・夏越の祓

2010-06-30 23:09:14 | まち歩き

初めての京都の夏。覚悟はしていたが、ひどく蒸し暑い。10年以上前のこと、テキサスに越した6月は、アパートメントの共同郵便受けを往復する100m強を歩くだけで、暑さで息ができないと思ったものだ。あの暑さは数週間で慣れたが、今日のように起き抜けから湿度が高く、日中となると溶けるような京都の夏に、慣れる日は来るのだろうか。今日は夏越の祓。抱えていた仕事も昼過ぎに一段落したので、そんな暑さの中、茅の輪くぐりに行った。

上賀茂神社の夏越神事は10時から。これには全然間に合わなかったが、3時過ぎでも結構参拝客がいた。

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母親に手を引かれた小さい子も、作法通りにくぐっている。左回り、右回り、左回り。右に見える看板には作法が記されている。「水無月の夏越の祓する人は千歳の命のぶといふなり」と、心で唱えながら回るのだそうだ。千歳も伸びなくていいのに。10_007

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さきの歌の出典は『拾遺和歌集』というから、夏越の祓は平安時代には行われていた。無病息災・悪疫退散を祈願して。それどころか飛鳥時代、大宝律令(701年)で宮中行事と定められているとのこと。応仁の乱以降江戸時代まで途絶えるが、1691年に復活し、神社などで行われるようになったらしい。この茅の輪は、蘇民将来伝説による。祇園祭で売られる粽に「蘇民将来(之)子孫也」という護符がついているが、それと同じ。蘇民将来伝説(『備後国風土記』逸文)は、裕福な弟でなく貧しい兄(蘇民将来)にもてなされ、「後の世に疫病が起こらば、蘇民将来の子孫と言いて腰に茅の輪をつけたる人は免れなん」とスサノオが感謝したというものだ。祇園祭の粽は、「茅巻き」。

伝説を鑑みれば、「千歳の命」は、子孫が続くように、という意味なのだろう。

10_008 20時からは人形(ひとがた)流しがあり、人形や車形が、ならの小川に流される。百人一首にある「風そよぐならの小川の夕暮れは禊ぞ夏のしるしなりける」だ。当時は夕刻に行われていたのだろう。

私が行った時間には、橋殿の横に「京都ホテルオークラご一行・しばし京都人ご一行」用のテントが張られ、夜間の行事の準備がされていた。

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6月晦日の夏越の祓と12月晦日の年越の祓は、ともに半年間の罪や穢れを取り除く行事であった。それだけでなく、6月のこの日は、平安時代、氷室に貯えていた天然の氷雪を天皇に献上させ、宮中で暑気払いをする日でもあったという。

京都には氷室跡がいくつか残り、「氷室町」などの地名もある。

京都市歴史資料館HP:http://www.city.kyoto.jp/somu/rekishi/fm/ishibumi/html/ki049.html

夏に氷など、口にすることはおろか見ることもできなかったであろう庶民は、氷になぞらえた三角形の菓子を作り、それを食べて暑気払いをした。これが京都の6月の和菓子、「みな月」だ。

10_012 豆餅で有名な出町・ふたばへ、みな月を買いに行った。昔からある小豆、珍しい白小豆、大粒の緑豆が乗った抹茶味、黒砂糖味の4種類、カウンターに並んでいる。もう夕方だったので、黒砂糖は片手で数えるほどしか残っていない。お隣の西利まで行列が続き、最後尾の人まで、商品が残っているかなと、ちらっと思った。

上品な甘さという言葉がぴったりだろう。自分で作ったら、砂糖は2割増かな。2つ食べたら多いかと思ったが、甘みが控えめだったし、3つは食べられる。抹茶が濃くて好みの味だった。

店名の入ったプラスチックバッグは最近では珍しいほど厚手のもので、もっと薄くしたら経費節減になるのに・・・・・・と老婆心ながらそう思う。

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富小路六角自転車駐車場

2010-06-23 22:45:36 | まち歩き

京都の繁華街に出るとき、いつもどこに自転車を止めようと迷う。たいていは大丸か高島屋の駐輪場を利用し、用事を済ませると、パンとかお菓子を買って出ていた。駐輪場料金は、大丸は1000円以上で無料、高島屋はレシート提示で2時間無料だ。私は北から四条通に入るので、高島屋の駐輪場は、混雑する四条通を自転車を押して行かねばならず、いやだなと思っていた。四条通の烏丸~東大路は車道も歩道も自転車通行禁止なのだ。ついでに河原町通の御池~仏光寺の歩道も。東大路通の南の方にも通行禁止のところがあった。

この間、駐輪料金が安いまちなか駐車場があると人から聞いた。調べてみるまで気づかなかったのだが、公営駐輪場が結構ある。

京都市駐車場(自転車)案内:http://www.kyotopublic.or.jp/annai/annai2/index.html

MOVIXで映画を観るのに選んだのは、富小路六角駐車場。

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入り口の溝にタイヤを入れて、機械の自転車・バイクのボタンを押すと、時間が記載された利用券が出てくる仕組み。ちょっと手間取ってしまった。

10photo_020 上段もあるので、200台×2ぐらいのスペース。雨上がりのお昼すぎ、利用率は50%ぐらいか。

10photo_023 すぐ南には、廃校になった小学校の校舎のような建物があり、「京都市上下水道局」と出ていた。

そのまま四条通に向かって歩くと、たち吉のある角まで約10分。

10photo_024 駐輪料金は、150円/日。ここなら、本屋さんで長居できる。あちこち自転車で出かけるのでプリペイドカードを買おうと思ったが、先斗町や出町の駐車場では利用できないらしい。「各駐車場で機械が違うから」とのこと。

鴨川沿い、川端通で「放置自転車禁止」という看板を見かける度、川沿いに自転車置き場を作ればいいのに、と思う。こんな立派な屋根のある自転車置き場でなくていいから。

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田中神社

2010-06-21 17:29:50 | まち歩き

雨上がりといっても、もひとつすっきりしない空のもと、左京の田中神社へ行ってみた。須賀神社・角豆祭で女性の神職さんを珍しいと思ったが、「田中神社の宮司さんも女性」と聞いたのだ。下鴨神社から続く御影通に面した鳥居。歩道沿いに囲っている石柱に寄進者の名がずらりとあるが、その角には「宮司」の後に女性の名前が確かに彫られていた。

写真に見えている京都市立て札には、「本殿および拝殿は賀茂御祖神社の式年遷宮の折々に譲り受けてきたものと伝えられ」、1628年にはそれに対して「青銅(銅貨)を賀茂社に奉納した」とある。下鴨神社から、御影通を西に1km弱。近いので、そういうこともあっただろう。しかし「折々に」とは。同じ立て札に「天文法華乱にも法華宗の攻撃で被災し、また、度重なる火災によって重要な文書類は焼失した」とあるのに。

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御蔭通歩道の傍に狛犬たちがいて、少し奥まった所にとても立派な鳥居が見える。

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その先の参道両脇は古木が鬱蒼と生い茂り、意外に広い境内は、人気もなく寂しい。突然響く鳥の声に驚く。一の鳥居と二の鳥居の間には、ごく小さな石橋と紙垂を巡らせた低い榊の木(写真上・左)がある。この榊には、どういういわれがあるのだろう。10_005

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同じ写真右手の建物には「弘安殿」と書かれ、瓦や破風には三葉葵があった(写真上・右)。さきの立て札の「1628年」は、徳川幕府によって、荒廃した社寺の復興・再建が進んだ頃である。賀茂社から殿社を移築したからでなく、復興した徳川の三葉葵だと思われる。

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舞殿からみた拝殿(写真上・左)と、塀の格子が荒く、本殿と両脇の末社が透けて見える拝殿(写真上・右)。

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さきほど驚かされた鳥の声は、孔雀(写真上・左)だった。鳥居の内側に鳥舎。仏教(東密)なら孔雀明王だが。そういえば、三井寺にも孔雀がいるらしい。伊勢神宮遥拝所(写真上・右)もあった。

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拝殿・本殿の東に見える赤い鳥居の列は、1879年に遷された末社・玉柳稲荷神社。立札によると、「氏子の要望により、談合の森(現在の叡山電鉄茶山駅周辺)から移された」とのこと。「談合(だんご)の森」を調べてみると、「団子の森」「大后(たんこ)の森」「太后の森」という表現に出くわす。「大后」「太后」は、今の北白川追分町、京大農学部の辺りらしいので、森は田中神社北東から東南にかけて広がっていたと推定される。叡電と疏水分流に挟まれたその辺りは、いくらか勾配があるが、今は完全に住宅地だ。

戦国時代、神社を中心として「田中の構」があったらしい。「構」とは、応仁の乱以降、洛中に作られた防御施設のこと。堀や土塁を街の周囲に巡らせたものだ。応仁の乱で、洛中の戦いは、一乗寺など洛外へと拡がってゆく。隣町の一乗寺で戦闘があったのだから、田中に構ができたのも頷ける。「談合の森」という一風変わった名前は、この辺りから来ているのだろうか。自衛と自治のために構の構成員が話し合い、談合した森、とか。想像での話はこの辺にしておこう。

10_015 よくあることだが、境内の一部は駐車場として神社が運営している。

談合の森の名残りを留める大木はあるのに、全体として殺風景な印象を受けた。イチョウの大木の根元から伸びていた、緑の若木。そういうものもあったのに。大きすぎる鳥居も、脇に咲く数本の紫陽花も、かえって寂しげだった。

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詩仙堂

2010-06-11 23:03:31 | まち歩き

京都観光NaviHPの“花だより”には、6月になるともう、さつきの項目はない。遅れたかなと思いつつ、詩仙堂に行ってみた。

1006_004 中門「老梅関」から、開け放たれた建物の玄関越しに、さつきの花色が覗いている(写真左)。良かった、間に合った。

1006_025 受付を済ませて、廊下から、老梅関を振り返る(写真右)。いつも通り落ち着いたたたずまい。

さて、お座敷から眺めるさつき(写真下)は、ちらほら。でも左手に満開の花が見える。

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お庭に下りて、かやぶき屋根と新緑のコントラストを楽しんだ。

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写真を撮っていると、月楼に人影。それも団体。一体どういう人たちが、ここに上がることができるのだろう。

さっき見えた花の塊は、やはり一番目立つ石段の所のさつき(写真下)だ。

1006_014石段右手のさつきの壁は、花が断然少ない。どうやら終わりかけのようだ。

お庭のさつきも、同様。ここは蕾も見えるので、まだ、あと一週間ぐらいは楽しめるかもしれない。 そうしている間に、紫陽花の季節になる。

ナナカマド(写真下・左)も、細い枝に、綿菓子のような房をたっぷりつけていた。カエデの木で日陰になる京鹿の子(写真下・右)はしっかりと色づいていたけれど、池の側には、珍しく色の悪いものもあった。

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庭を下りるにつれ、なんだかいつもと違う、という思いに捉われる。元気がないのだ。苔も、リュウノヒゲも。そんな草花からサツキに目をやると、もう終わりだから花が少ないのでなく、水不足とか天候のせいで花つき自体が悪いようにも思える。

下にある蕾を咲かせるために、花殻を丁寧に摘む。いつもそうやってお庭を保つ方と出会ったので、聞いてみた。

雨が少なくて、どれもこれも元気がないらしい。斜面に植栽されているので、ホースで水やりをしても流れ落ちるだけだから、自然の雨を待つしかないとのこと。夕立とか、激しい雨も、ダメ。なるほど、よくわかる。しとしと、静かに降って、大地に滲み込み、庭木を潤す雨を待つのみ。

ついでに、気になっていた山茶花のことも聞いてみた。

詩仙堂の座敷前には、かつて白い山茶花の古木(樹齢353年・幹周1,54m)があり、京都一とも、日本一とも言われていた。丈山が手ずから植えたと言われるこの木を見るために大勢の人たちが訪れたという。それが、平成7年の台風が過ぎたある朝、ご住職の目の前で、ミシミシと音を立て始め、ものの10分ほどで倒れたらしい。その台風は、南禅寺の松の木も倒したという。「比叡下ろしの風の道が、ここらから、南禅寺に続いてるみたい」と。

山茶花の木は、座敷前の庭のギボウシの辺り(写真下)にあったらしい。今では、さつきに主役の座を奪われた普通の庭木の山茶花が、座敷右手に植わっている。この写真には写っていないが、右端辺りだ。これは、古木の実生の木なのか、それとも苗を買って植えたものなのか、そこまでは聞かなかった。

1006_009 山茶花の大木がここにあったら、今とは全然違う景色だ。さつきもまだ小さかっただろう。白砂はあったのだろうか。山茶花のあるお庭の写真を、探そう。ネットでは見つからなかった。本。やっぱり本。

落ち葉を集めて堆肥場に持って行くというので、お礼を言って別れた。

座敷に戻って、ゆったりとした時間を過ごす・・・でも今日は人が多い。うぐいす張りの縁側の角に立つと、軒先にある竹の樋に池(写真下・右)の水が映り、ちらちらと揺れていた(写真下・左)。

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