京都逍遥

◇◆◇京都に暮らす大阪人、京都を歩く

称念寺(猫寺)

2010-03-24 00:29:28 | まち歩き

本空山(ほんくうざん)無量寿院称念寺。浄土宗知恩院派の寺で、開山は称念上人、中興開山は嶽誉上人。1606年、松平伊豆守信吉(土浦城主)が、母(家康の異父妹)の菩提寺として建立し、かねて帰依していた嶽誉上人を招いたところ、上人は、寺の開山を称念とし、自身を「中興」と位置づけた。実際の開山と名目上の開山が別人というのは、ときどきある。

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10_002 1998年再建のまだ新しい山門(写真上・左)の、軒丸瓦には三つ巴。

飾瓦に徳川葵と菊紋。

創建の背景から徳川葵は理解できるが、菊紋はどういう訳だろう。

「猫寺」の通称は、三世:還誉上人の愛猫の報恩伝説に依るが、上人がその猫を偲んで植えたとされる松(写真下)も、猫が伏した姿、と言われる。また、上人が猫の霊を祀ってから、その供養は引き継がれ、今ではペット供養の寺となっている。

写真の腕が悪くて良く取れていないが、この幹にして、この枝ぶり。その成長を枝の横張りに特化させている。そこここに配置された支え木によって枝の張りが整えられ、美しい形を保っている。西山善峯寺の遊龍の松しかり。松は、姿がいい。手入れされて、なおいい。

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本堂前には、木像、本堂屋根には、梵字の飾りがあった。

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寺の名前ともなった称念上人は、浄土宗捨世派の祖と言われている。鎮西派・西山派に分かれた浄土宗で、鎮西派の白旗流から分かれた 知恩院流・黒谷流・一心院流のうち、一心院流が、後に捨世派と呼ばれるようになったらしい。「捨世派」、字面そのままなら世捨て人。一遍のような念仏聖を想像する。一遍の一向宗(時宗)もまた、鎮西派から分かれたものだった。称念という名前も、浄土宗らしい名だ。念仏を唱えることで救われる、名を以てそれを広め、身を以てそれを示したということだろうか。

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京都こだわりマルシェ3

2010-03-21 00:07:40 | 食べ物

重要文化財である京都府庁旧本館で開催された“京都こだわりマルシェ3”に行ってきた。

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これは、NPO法人日本都市農村交流ネットワーク協会が中心となって、府内産の農作物やそれらを使って作られた食品、また陶芸や布帛製品などを販売する市だ。2009年6月7日に始まり、10月18日の開催に続いて、今日(3月20日)が3度目の開催(11:00~16:00)。

22日には、近くのKBS京都でも、同様の催しがある。「地産地消と安心な食卓・生活」をキャッチコピーにした“KBS京都マルシェ”(10:00~16:00)。もらったチラシをざっと見たところ、出展者は、かぶっていないようだ。

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左右にテントが並び(写真上・左)、時間が経つにつれてだんだん賑わいをみせてきた。野菜など、あまりたくさん置いていないので、結構早く売り切れてしまうようだ。野菜や漬物、煎り黒豆などを買った。黒豆茶の試飲があった。香ばしくて、おいしい。

平安騎馬隊(写真上・右)のコーナーもある。警察に騎馬隊があるのは、警視庁と京都府警だけだと聞いた。

旧本館の1階廊下にも、いくつか店が出ていて、見て歩くのが楽しい。中庭にあるのが、最近「容保桜」と命名された、しだれ桜(写真下・左中)だろうか。まだ三分咲きといったところ。館内には「エコ・ツアー」のポスター(写真下・右)が。京都府庁旧本館の春の一般公開が、3/23~4/4にあるとのこと。桜の見頃に合わせた公開だ。

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1904年竣工のこの建物は、簡潔な重厚さを湛えている(写真下)。府では、この建物の保存・修復・有効利用を図るため、「府庁旧本館利活用応援ネット」を2008年9月に立ち上げた。最近の京都は、町家保全・高さ規制など、“京都”ブランドに対する意識が高まっている。重文の建物に対するこのような取り組みも、すばらしい。

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さて、府庁を出て、烏丸通を北に進むと、播磨屋本店のFreeCafeが目に留まった。東京で流行り、とテレビで見たことがあるが、京都にもあったのか。

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カフェは2階で、ガラス張り。京都御苑の下立売御門が真正面に見える。おかきの試食と、コーヒーor紅茶orオレンジジュース。それに売店。何度も流れるマイクの声が耳障りだが、それだけマナーの悪い人が多いのだろう。播磨屋本店のおかきは、朝日揚げが一番好きなのだが、試食にはなかったなぁ。残念。

京都御苑の桃林(写真下)を歩いた。満開。暖かくて、気持ちのいい一日。家に帰って、さっそく黒豆茶を煮出し、おいしく頂いている。

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貴舩神社

2010-03-17 00:39:19 | まち歩き

上賀茂神社の東、深泥池のすぐ西に、貴舩神社がある。鞍馬の貴船神社と関係があるのか・・・と、行ってみた。

10_010 この神社は、府道40号線、鞍馬街道と呼ばれた道沿いにある。

東西に山。その谷間を北へゆく、細い道。地下鉄烏丸線北山駅から1kmほど。

入り口両側にある石柱を入ると、すぐ右に大きな燈籠(写真下・左)が一つ。竿には「文政八年乙酉四月」(1825年)、「金毘羅大権現」とあり、礎石には「當村講中」。ちょうど来られた宮司さんに、この「金毘羅」は、鞍馬街道を静原にそれ、大原に至る直前の金毘羅山のことだと伺った。山そのものがご神体だったのだろうか。「當村」は、山城国愛宕郡深泥池村のこと。この燈籠は、かつて村に入る入り口(現・下鴨中通と府道103号が分かれる辺り)にあったそうだ。道路拡幅のため、ここに移されたのだとか。

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一基だけの燈籠の奥には、左右に一対の燈籠(写真上・中)。これには「天正七年二月」(1579年)とある。左の燈籠の向こうに、「ちから石」と書かれた石柱と、その石(写真上・右)が。石柱には「文政八年四月」とあった。大燈籠と同じ。一緒に移動したものか?

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鳥居(写真上・左)の傍には、神社の縁起を記した石碑(写真上・右)がある。鞍馬の貴船神社が洛中からは遠かったので、1660~1670年、貴船の神を勧請してここに祀り、京の人々がここでお参りできるようにしたという。貴船神社は、水の神である高龗神(タカオカミノカミ)を祀っている。よって、この貴舩神社の祭神も高龗神。この神は、『現代語訳・古事記(河出文庫)』の「闇淤加美神(クラオカミノカミ)」、『現代語訳・日本書紀(河出文庫)』の「闇龗(クラオカミ)」。イザナミの死を嘆き悲しんだイザナギは、その原因となったカグツチを剣で斬った。その柄を滴る血潮から生まれたのがクラオカミノカミである。『古事記(同)』には、この神が闇御津羽神(クラミツハノカミ)と共に、「雨をつかさどる竜神であり、清冽な谷間の水をつかさどる水神」と記載されている。

鳥居の向こうの階段上、正面に見えるのは秋葉神社と忠魂碑(写真下・左)。秋葉神社は、明治の廃仏毀釈で賀茂社家に壊され、すぐき漬の由来となった火事の後、再建されている(写真下・右)。10_009

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階段上、右手に貴舩神社の鳥居(写真下)がある。元は丹塗りの鳥居だったのを、維持管理が楽なように、石の鳥居に変えたそうだ。鳥居の向こうはすぐに拝殿と本殿(写真下)。拝殿は、中央を歩くことができる「割拝殿」である。本殿の前には立砂が見える。

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拝殿には三つ巴(写真下・左)の瓦。覆い屋のついた本殿の屋根を隙間から覗いたら、双葉葵(写真下・右)の紋様が見えた。鞍馬の貴船神社は、1055年頃~1870年頃、上賀茂神社の摂社となっていたから、その関係でだろうか。

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本殿の北には、弁財天(写真下・左)が祀られている。そういえば、弁財天は、水と関係が深い。このお社の傍に、杉の神木(写真下・右)があった。京都市建設局緑政課HPにある「北区・区民誇りの木」の一つだ。

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この弁財天の西側山腹に、役行者を祀った石碑(写真下)があった。盛り沢山。

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白雲稲荷神社

2010-03-12 00:05:45 | まち歩き

旧道沿いにある松ヶ崎大黒天の鳥居をくぐると、目の前は白雲稲荷神社の鳥居(写真下・左)。鳥居の左の道は、大黒天に続いている。鳥居からは階段が伸び、拝殿が見える(写真下・右)。

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階段を上がったら、目の前に杉の神木(写真下)。10_006

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杉は稲荷社と縁が深い。『山城国風土記』逸文に、伏見稲荷大社創建の逸話がある。伏見に住んでいた秦伊呂具(太秦の秦都里の弟)が、2月初午の日、餅を的に矢を射たところ、餅が白鳥となって飛び、山頂の杉に止まったという。それから家運が傾いたので、伊呂具は悔い改め、杉を神木として稲の精霊を祀ったのだそうだ。711年に社殿が完成した伏見稲荷大社では、平安時代、熊野詣の交通安全祈願として、護符である杉の小枝「しるしの杉」を授与していた。それがいつしか伏見稲荷大社のお守りとして定着し、今も初午の日には授与するという。現在では「商売繁盛・家内安全の御符(伏見稲荷大社HP:http://inari.jp/c_sairei/02_b.html)」とのこと。松ヶ崎には松の木が多かったそうだが、この杉は、神木とするべく、わざわざ植えたものなのだろうか。

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拝殿(写真上・左)は、京都御所の 能楽殿から移されたものというが、南面と北面に掲げられている扁額は、すっかり色あせ、南面にあったはずの鈴はなく、その鈴を鳴らす綱は上部でちぎれてしまっている。拝殿の天井も無残。36歌仙らしき色あせた絵(写真上・右)が、金網ごしに見えるのも、侘しい。さきの神木手前には手水舎があったが、竹の樋から水は流れておらず、柄杓もなかった。

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拝殿の北側には、本殿。ここもがっちりと門で隔てられている。

10_022 立て札(写真左)によれば、祭神は稲荷尊・鬼子母神・牛の宮。この「稲荷尊」は、宇迦之御魂神(ウカノミタマノカミ:『古事記』)=倉稲魂命(ウカノミタマノミコト:『日本書紀』)である。ウカとは穀物のことであり、ウカノミタマノカミは伏見稲荷大社の主祭神でもある。

「牛の宮」とあるのは、その続きを読めばわかる。「ご神託に依り東松ヶ崎は・・・牛の飼育を禁ぜられていた」。牛を神聖なものとみなして、その守護を祈ったのだろう。「農家には昔から馬が飼育され農耕に従事した」とある。この「神託」という伝承は、HP上で散見されるが、典拠が不明確だ。

(京都通百科事典HP:http://www.kyototsuu.jp/Jinjya/ShirakumoInariJinjya.html

また「伝説・・・に依り井戸掘り・・・を禁ぜられていた」については、フィールドミュージアム京都「東松ヶ崎の生活用水井戸跡」(http://www.city.kyoto.jp/somu/rekishi/fm/ishibumi/html/sa148.html)に詳しい。つまり、妙円寺境内の古井戸に子狐が落ちて死んだ際、稲荷の親狐が「今後一切井戸を掘ってはならぬ。掘れば不幸が訪れる。その代わりどんな日照りでも神通力で涸らさぬようにする」と告げた、という伝説である。

この立て札によれば、水道が通るまで、東松ヶ崎の17軒は、この井戸だけを使用したらしい。水量豊富だったのだ。「大正一五年(一九一三年)上水道が敷設されるまで」とあるが、年号と西暦が合っていない。京都市の水道事業開始は1914年なので、1913年はありえない。「大正15年」ならば1926年。これは、第二疏水の改修工事が行なわれた年にあたる。

入り組んだ細い路地を、見当をつけて歩いてみた。妙円寺西門から南へ下りる階段下に、蓋をされた井戸があった。

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最後に、拝殿を大木が両側から覆う写真を。

10_025 松ヶ崎の山々の麓にある寺社は、すべて、このような石垣の上にある。今日で、麓の寺社は制覇。

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涌泉寺・生師廟

2010-03-10 23:59:44 | まち歩き

この1月、妙円寺から山の麓の細い道を西へ歩いて、涌泉寺の柵に行き当たった(1/14『初甲子祭』)。地図で見たところ、2月に行った七面祠から東に続く道が、涌泉寺につながっているようだ。途中には生師廟もある。

松ヶ崎小学校東沿いの道の突き当たりには、南無妙法蓮華経の題目碑(写真下・左)があり、左の細い山道を行けば七面祠(2/24『七面祠』)、右の車道を行けば涌泉寺の門(写真下・右)に突き当たる。

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写真(上・右)左手に見える階段は、生師廟へのもの。

10_026 生師廟は、本涌寺(現・涌泉寺)開山の日生(にっしょう)上人を祀っている。階段には柵が設けられ、上がることはできない。

さて、涌泉寺である。門前には三つの石塔がある。

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門の手前左には「南無妙法蓮華経」の題目碑(写真左)。横(南)から見ると、「松崎山妙泉(寺)」とある。「寺」の文字のところで礎石に埋もれていることは、縦数センチの文字の彫り跡(「寺」の二画目)でわかる。

10_006 門の手前右には「法華宗根本學室」とある。

これは、ここがかつて「松ヶ崎檀林」と呼ばれた、法華宗僧侶養成のための学問所であったことを示している。

法華宗近世檀林は、1579年飯高檀林(下総)に始まり、翌1580年に松ヶ崎檀林、1583年求法院檀林(=六条檀林:京都)、1590年小西檀林(上総)と続き、関東八大檀林、関西(京都)六大檀林、勝劣派七檀林と言われるほど増加したそうだ。京都には一致派の六檀林(松ヶ崎檀林・求法院檀林・東山檀林・鷹峯檀林・山科檀林・鶏冠井檀林)と、勝劣派の二檀林(大亀谷檀林・小栗栖檀林)が成立した。

(匝差市HP「飯高寺(はんこうじ)」:http://www.city.sosa.lg.jp/index.cfm/9,729,138,1,html

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門のすぐ前、左側には、「法華宗根本學校道」の小さな石碑(写真上)。道標だから、別の場所から移してきたのだろう。横(南)には「南無妙法蓮華経」、裏(東)は「天下泰平五穀豊穣」とあった。

門の脇には、京都市の立て札(写真下・右)。

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門柱に木札がかかっている。向かって右は「松崎山涌泉寺」、左は「松ヶ崎保育園」。この門の奥に見えるのは松ヶ崎保育園(写真下・右)で、本堂(写真下)はその傍に南を向いて建っている。

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本堂脇に、この建物の由来を記した立て札(写真下)がある。松ヶ崎檀林の講堂だったと。写真下・左には、題目碑も見える。題目碑は、この他にも鐘楼脇、保育園前にもあった。とにかく多い。

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鐘楼と言えば、鐘楼屋根瓦は「井桁に橘」(写真下・左)、「松崎山」(写真下・中)の文字、門や本堂の瓦は「三つ巴」(写真下・右)だった。

宗祖日蓮が、「井桁に橘」を家紋とする井伊氏の一族であったため、これを寺紋とする日蓮宗の寺が多いのだそうだ。

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1918年、妙泉寺と本涌寺が合併して「涌泉寺」となったこの寺は、平安中期に建立された松崎寺(円明寺)を起源とする。『日本紀略(992年)』に「中納言源保光卿供養松崎寺号円明寺」と記載のある、松崎寺だ。これは、(財)京都市埋蔵文化財研究所が、現・松ヶ崎小学校敷地内で発掘調査(2003.7~12)を行なった「松ヶ崎廃寺」のことである。

この寺が平安後期~鎌倉時代に天台宗「歓喜寺」となり、叡山三塔十六谷三千坊の一つとして、松ヶ崎村で崇敬を集めた。鎌倉時代末期、日蓮宗布教のため日像が上洛(1294年)する。松ヶ崎は鶏冠井(向日市)と共に、まず教化されたそうだ。松ヶ崎(涌泉寺)・鶏冠井(石塔寺)・修学院の題目踊りは、その当時から今に続いている。

1307年、歓喜寺の住持実眼が法華宗に帰依して、「妙泉寺」と寺号を改め、松ヶ崎は一村皆法華となった。1536年に天文法華の乱で堂宇は焼失するが、1575年には再興され、境内に5塔頭が創建された。1875年、5塔頭は妙泉寺と合併し、1876年、松ヶ崎小学校(1873年創立)新校舎建設のため、敷地を一部、小学校に割譲。1918年、小学校敷地拡張のため、本涌寺と合併し、「涌泉寺」と寺号を改め、本涌寺敷地に移転する。

一方の「本涌寺」は、1574年、日生(にっしょう)が創建した、日蓮宗立本寺に属する寺である。日生は、立本寺、妙覚寺、比叡山と学んだ碩学を買われ、1579年、下総に招かれて、最初の法華宗近世檀林である飯高檀林を開設している。その後京都に戻って、1580年に「松ヶ崎檀林」を開設した。檀林は、もうない。現在は、寺の南に掲げられた看板によって知る所となった「日蓮宗尼衆宗学林」、つまり尼僧の学問所(1919年創立)のみ存在している。

ところで、叡山三千坊には、花背の福田寺(現・曹洞宗)、一乗寺の養源院、山科の岩屋寺(現・曹洞宗)、滋賀の林照寺(現・浄土真宗)、左京の修学院(廃寺)などがある。宗旨替えは、案外あるものだ。それにしても、天台宗にしてみれば、比叡山のおひざ元である松ヶ崎の地で、一村まるごと法華宗に改宗したのは、耐え難い屈辱だったろう。

(財)京都市埋蔵文化財研究所のHPで、妙泉寺絵図(1789年)を見つけた。これによると、七面祠の場所は、当時、妙泉寺境内に含まれている。七面祠前の燈籠に「妙泉寺」とあったのも道理。

(財団法人京都市埋蔵文化財研究所ホームページ「リーフレット京都No.189(2004年10月)松ヶ崎妙泉寺の江戸時代」:http://www.kyoto-arc.or.jp/

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