京都逍遥

◇◆◇京都に暮らす大阪人、京都を歩く

善導寺

2009-12-22 00:39:56 | まち歩き

四条河原町からの帰り、久しぶりに木屋町通を北へ。高瀬川の向こうは、お店の入れ替わりが激しそうだ。前に通ったときには見かけなかったような看板もある。角倉了以旧邸の、がんこの前を通り過ぎると、二条通で木屋町通の終点。終点の信号の前に、唐風の門が見えた。

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善導寺。山号・終南山、浄土宗の寺である。1558年、然誉上人が六角堂付近に創立、天明の大火(1788年)で、当地に移転した。

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山門をくぐると、正面に本堂、左手に別の建物。山門の両脇もビルが迫っていたが、本堂の後ろのマンションは、威圧感がある。等持院の庭からは立命館大学が、冷泉家の庭からは同志社大学が見えたっけ。こういう歴史的建造物の周囲には、通常、高さ規制はないのだ。この景観、お気の毒としかいいようがない。

山門の前の立派な御影石には、寺の由来が記されていた。それによると、堂前の石仏は、嵯峨釈迦堂の本尊を模したのだとか。向かって左に五髻(まつ)の文殊菩薩、向かって右に弥勒菩薩を配する形式は珍しいものであるらしい。弘安元年(1278)の銘があるということは、寺の創建よりもずっと古いものなのだ。

09_012 この技法を「半肉彫り」というらしい。浮き彫り(レリーフ)の技法の一つで、浮き出し部分の厚みが大きいものから、「高(肉)彫り」「半肉彫り」「浅(薄肉)彫り」という。

1278年製作で、戸外に置かれたこの石仏、こんなにはっきりと見ることができるとは。

浄土宗公式HPで、嵯峨釈迦堂の国宝釈迦牟尼仏と比べてみた。衣の様子や福々しい耳は似ているが、お顔の感じは、違って見えた。この石仏は、丸顔にぱっちりとした目だが、国宝は四角いお顔に切れ長の目。(浄土宗公式HP:http://jodo.or.jp/footprint/07/image/a.jpg

お庭の六角燈籠の火袋には茶道具が彫られている。茶人を始めとして、現在も人気のあるモデルなのだそうだ。これが、その始めだったのか、このモデルは「善導寺型燈籠」と呼ばれるらしい。

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かなり風化が進んでいて、その彫刻は、はっきりとは認められない。茶碗・炭斗・火鉢・火著・茶釜・柄杓・五徳が彫られているはずなのだが。写真上・右は一番きれいに見えるものだが、炭斗か?

燈籠にもいろいろなタイプがあり、火袋に鹿を彫った「春日型」や、鷺を彫った「濡鷺型」、瓢箪を彫った「角太閤型・平太閤型」など、その彫刻による呼び名の他に、「雪見型」「織部型」「道標型」「江戸型」「奥之院型」などがあるそうだ。庭を見る楽しみが増えた。

さて、ここは浄土宗のお寺なので、抱き杏葉があるかも・・・と探すと、飾り瓦にそれらしきものを見つけた(写真下・左)。軒丸瓦は、ほとんど三つ巴。そのほか「善」の文字の入った飾り瓦も(写真下・右)。

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ついでに、本堂屋根に取り付けられた凡字を。

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寺内にエステサロンがあるということに、とても驚いた。寺は世につれ・・・。


『新・京のかたちⅠー絵図に見る京都御苑』

2009-12-18 00:59:19 | アート・文化

京都御苑が形作られた歴史を絵図(内裏図など古地図)で辿る、という新聞記事(12/2)を見て、すぐに京都市歴史資料館を訪れた。そこで貰ったパンフレットに「展示解説は12月17日」とあったので、再訪(会期:11/27~2010/3/7)。

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京都市歴史資料館は、御所東にある。建物向かいは、寺町御門南側の駐車場だ。市内には、京都府立総合資料館(北山)、京都文化博物館(御池)、京都市考古資料館(堀川今出川)と、歴史関連の施設が複数あり、それらの収蔵品や目的の違いは、傍目には分かりにくい。本館は、京都市行財政局の管轄であり、「京都の歴史に関する調査・研究・資料の収集・保存・展示,京都の歴史に関する図書・市政史・市政史料の編さん・刊行(京都市HPより)」を行っている。2階閲覧相談室には、寺史や他府県の市史、校史、岩波古典文学大系などもあり、閲覧カードを受付で記入すれば、資料を閲覧することができる。

さて、今日の解説。パンフレットを読んでいたものの、やはり絵図を指し示しての解説は、違う。展示品の見どころが、よくわかった。ただ解説は、今日を除けば、あと2回(1/21・2/18)。木曜2時限定である。回数を増やすとか、曜日を変えるとか、時間をずらすとか、少しの配慮で、解説を聞く観覧者は増えるだろう。そうすれば観覧者の満足度も高まるだろうに。それとも、入館無料の市の施設は、入場者数を増やすことには無頓着なのだろうか。最近刊行された、高価な『京都市政史』をPRする機会にもなるのに。「歴史資料館にて現金で販売(京都市HP歴史資料館)」なら、来場者を増やす努力はしてもいいはずだ。

今回の展示では、内裏図の殆どのパターンを網羅しているとのこと。1614年の手書き図に始まり、手で彩色の施された木版、銅版、そして明治時代の多色刷りと見られる版まで。気になった展示品は、「新改 内裏之図」「宝永五年子三月京都大火絵図」。

「新改 内裏之図」は、1677年刊。南北は椹木町通~相国寺、東西は川原町通(河原町通)~烏丸通の内裏と公家町を描いたもので、出版された内裏図としては最古、現存するのは一点のみという貴重な資料。先月行った真如堂が寺町今出川に、西方寺がちょうどこの資料館辺りにあったことが確認できた。

内裏図は、一種の観光案内の役割を果たしていたという。「観光客が禁裏を拝観したり、商人が公家邸宅を所用で訪問する(パンフレットより)」際に使ったり、お土産にしたり。そのため、図の公家町には敷地毎に家名と家紋が記される。寺町に密集する寺にも寺紋はあるはずだが、そこには寺の名だけが書かれていた。

「宝永五年子三月京都大火絵図」は、1708年禁裏も灰になった宝永大火の、焼失範囲を朱線で囲った図。焼けたのは、北は今出川の2本北、南は四条、東は寺町、西は堀川までの広範囲であった。これは、形状「写一舗」とパンフレットにあるので手書きなのだが、「これだけ焼けました」という図が描かれたということに、少なからず驚いた。

この大火の後、現在の京都御苑の丸太町通~今出川通、烏丸通~寺町通の範囲で、公家町が整備されたらしい。さきの内裏図に点在した町家は、鴨川東や寺町通東に移転させられたとのこと。このブログの「大蓮寺」で、近辺の南北の通り名が、「新〇〇」となっていることに触れたが、やっと今日、理由が分かった。丸太町通の町家は、新丸太町通へ、東洞院通の町家は、新東洞院通へ。烏丸通の町家は、寺町通東側に作った新烏丸通へ。

京都市HP(『フィールドミュージアム京都』:http://www.city.kyoto.jp/somu/rekishi/fm/nenpyou/htmlsheet/toshi23.html)に、宝永大火についての記述を見つけた。そういえば『フィールドミュージアム京都』は、ここ京都市歴史資料館の情報提供システムだった。京都の歴史や文化を調べるとき、私が最初に検索するのが、このHPだ。

「新改 内裏之図」は、京都市HPで見ることができる。展示室で見るよりも、はっきりきれいに。内裏に至る四方の門は今よりずっと内側にあり、公家町の門の役割は果たしていなかったこともわかる。

(京都市HP行財政局総務部歴史資料館:http://www.city.kyoto.lg.jp/gyozai/page/0000071181.html


ボルゲーゼ美術館展・琳派展

2009-12-08 23:52:46 | アート・文化

ボルゲーゼ美術館展(京都国立近代美術館:10/31~12/27)に行く約束をしていた。うまい具合に小春日和。今回も、三条通の大西漆器店で前売り券を買い求める。会期の途中でも買えるとわかったので、行きそびれたり、失くしたりして前売り券を無駄にすることがなくなった。(ボルゲーゼ美術館展公式サイト:http://bor.exh.jp/

091208_0955161  美術館前には、クリスマスの飾りが。『一角獣を抱く貴婦人』の巨大ポスターによく似合って、そこだけ少し華やいでいる。北側には駐輪場スペースもあった。

1階エレベーター前にも、行列はできていない。10時前だったので、まだ人は少なく、ゆっくり鑑賞できた。美術館は、朝一番に行くべし。

ボルゲーゼ美術館は、イタリアの名門貴族出身の枢機卿シピオーネ・ボルゲーゼによるコレクションが基になっているそうだ。枢機卿は教皇パウルス5世の甥で、権力と富を縦にしたとのこと。フライヤーには「一流の審美眼」で集められた作品は「ルネサンス・バロック美術の宝庫」と書かれてあるが、胴長短足の天使や、どことなくちぐはぐに見える身体の線など、見ていて落ち着かないものもあった。それでも、裸体の足の筋肉の描写や、カラヴァッジョの描くヨハネの表情、聖書の放蕩息子をモチーフにした二点の差異、ギリシア神話をモチーフにしたいくつかの作品(レダ他)、『支倉常長像』の衣裳など、気になるものもいくつかあった。しかし、やはり一番の驚きは、さきの『一角獣を抱く貴婦人』だろう。肩にマントを掛け、車輪を手にした様子だったのを、美術史家が後代の加筆を主張し、修復後に本来の姿が現れた、という。ラファエロの若い頃の作品というが、ポスターは好きではなかった。が、しかし本物は違う。ウエーブのかかった柔らかそうな細い髪。肌の色。大切そうに一角獣を抱える腕が描く弧。

伊達政宗家臣であった支倉常長は、使節としてローマで枢機卿や教皇に謁見し、ローマの公民権を授与されている。彼の巨大な肖像画の衣裳は、少し気をつけて見るなら、誰でも奇異に感じることだろう。動植物の豪華な刺繍が入った白絹の着物の下にはレースのついたブラウス、袖口からは刺繍入り七分シャツが覗き、着物と同じ生地で仕立てられた袴のようなもの(描かれた腰の辺りは袴に見えない)、刺繍入り金色の足袋、指輪など、どこまで本当か分からないような服装なのだ。背景のカーテンには、支倉家の家紋、逆卍に違い矢が見られた。また、音声ガイドシステムのリストで「特別出品」と記されている『15.支倉常長像』は、黒い洋服を着た半身像の方だったか。その『支倉常長像』『ローマ教皇パウロ5世像』『ローマ市公民権証書』を、仙台市HPで見つけた。国宝。(仙台市HP「仙台市博物館-慶長遣欧使節」:http://www.city.sendai.jp/kyouiku/museum/syuuzou/index.html#10

気に入った展覧会では図録を購入するが、今回は、やめておいた。お昼にはまだ早かったので、近くの細見美術館で開催されている琳派展:鈴木其一――江戸琳派の風雲児――(9/19~12/13)へ。(細見美術館HP:http://www.emuseum.or.jp/

091208_1216591 美術館の南西路地が自転車置き場。受付で、ボルゲーゼ美術館の半券を提示すると、団体料金で入場することができる。

HPで確認すると、京都国立近代美術館・細見美術館は相互優待、京都市立美術館・細見美術館は相互優待なので、観覧券の提示で、常に団体料金になるらしい。 HPからダウンロードする期間限定の割引券もあった。思いつきで行くのでなく、調べてから行かねば。

鈴木其一は、とても良かった。ただ、三夕の歌を題材に取った『三夕図』などは好きになれない。弟子達の作品も、もう一つ。良かったのは、現在、細見美術館HPのバックになっている『朴に尾長鳥図』のたらしこみ技法の葉や、『木蓮に鶯図』の紫の木蓮。人物画よりも、草木や花の画。

細見美術館は、外観から想像もつかなかったが、広く、面白い建物だ。

091208_1143281_2 1階展示室を観た後、階段を下りて次の展示室へ。そしてまた下りて次の展示室へ。吹き抜けの地階にはレストランがあり、ミュージアムショップART CUBEもある。ここは、お洒落な文具・雑貨が揃っていて、型押し和紙のカードや鹿クリップなど、あれもこれも欲しくなる。

ランチは、六角通新町西入ルのGaspard Zinzinへ。デザートの、ジュレとグラニテの載ったグレープフルーツプリンまで美味しく頂いた。美しいものを観て、美味しいものを味わった満足の一日。


東福寺-通天橋・開山堂・方丈

2009-12-06 00:27:46 | まち歩き

今年の紅葉の見納めに、東福寺へ。

山号・慧日山、開基・九条道家、開山・聖一国師円爾、正式名称・慧日山東福禅寺。創建は1236年、臨済宗東福寺派大本山で、京都五山の四位である。

初めて行ったのは5~6年前。改めて、境内の広さを思う。摂政・九条道家は、高さ5丈(15メートル)の本尊・釈迦仏像に見合うような、京都最大の伽藍を造営したのだ。奈良最大の寺院である東大寺と、同じく隆盛を極めた興福寺から一文字ずつ取ってその名としたのは、立派で人々の崇敬を集める寺となるように、との思いからだろう。

秋季特別拝観は、10/31~12/6。私が出かけたのは、12/1だったが、通天橋の紅葉は、ほぼおしまいだった。それでもところどころ、はっとするような鮮やかな赤も見られた。

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通天橋を渡り切って、開山堂入り口の門を入る。 写真下・左は、門から撮影した開山堂(常楽庵)、写真下・中は普門院の縁側に座って撮影した開山堂。写真下・右は、門。

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普門院の前庭は枯山水で、手前に白砂で市松の砂紋(写真下・左)。通路を挟んで奥に池と築山(写真上・左)。

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紅葉の時期は、いつもこうなのだろう。もう紅葉も終りに近いのに、とにかく混雑している。普門院の縁側は人でぎっしり。開山堂への通路も、人が途切れることはなかった。友人と一緒だった私も、縁側に空きスペースを見つけて座り、しばらく話し込んだ。庭を見ながら、人を見ながら。

通天橋を戻る途中、お庭へ降りてみる。小ぶりな谷間(洗玉澗)を流れる川の堤に落ち葉が散り敷き、風情ある表情。

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続いて方丈拝観。方丈は1890年の再建で、見どころは、1939年完成の重森三玲による八相の庭(東西南北4つの庭)である。方丈四周に庭があるのは、ここだけとか。庫裏で受付を済ませ、方丈へ渡る。最初に目にするのは東庭の、「北斗七星」を象った石の円柱と、雲文様白砂。 そうして南庭の、白砂の砂紋の中に置かれた荒々しい巨石。続いて西庭の、「井田市松」にある盛り上がった苔の緑。洗玉澗を一望する通天台を過ぎると、最後に北庭、小市松とサツキの刈り込み。

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写真上・中の門は、「恩賜門」という名で、表から見ると、大きく菊紋が入っていた。なお、東福寺方丈に見られる軒丸瓦の紋は殆ど三つ巴であり、稀に「東福寺」と書いたものがあった。

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昭和の作庭家、重森三玲。この絵画的な抽象の庭を見て、他の庭も見たいと思っていた頃、左京・吉田の旧邸が公開されると知り、予約して行ったことがあった。やはり巨岩を配した枯山水の庭で、しばらく前のCMだか、ポスターの背景だかに使われてもいた。庭の美しさに見惚れるだけでなく、茶室の襖のデザインにも驚き見入ったものだった。当時は特別公開だったと記憶するが、今も「重森三玲庭園美術館」として、見学を受け付けている(要予約)。

さて、東福寺には、やはり重森三玲が庭を手がけた龍吟庵もある。ここは、時間の余裕がなくて行きそびれた。立派な禅堂や、国宝の三門は、内部を見てみたい。春秋の京都非公開文化財特別公開で、いつか見られたら・・・と思いつつ、寺を後にした。