京都逍遥

◇◆◇京都に暮らす大阪人、京都を歩く

六条河原院と古典②

2024-03-15 16:31:37 | 国文学

宇治拾遺物語、謡曲のほかにも、六条河原院を題材とした古典文学は存在する。

同時代人が六条院を評したものを引用する。

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むかし、左のおほいまうちぎみいまそかりけり。賀茂川のほとりに、六條わたりに、家をいとおもしろく造りて住み給ひけり。神無月のつごもりがた、菊の花うつろひざかりなるに、紅葉の千種に見ゆる折、親王たちおはしまさせて、夜ひと夜、酒のみし遊びて、夜あけもて行くほどに、この殿のおもしろきをほむる歌よむ。そこにありけるかたゐ翁、板敷のしたにはひありきて、人にみなよませ果ててよめる。

 塩釜にいつか来にけむ朝なぎに

   釣りする舟はここによらなむ

となむよみけるは、みちの国にいきたりけるに、あやしくおもしろき所々おほかりけり。わがみかど六十余国の中に塩釜といふ所に似たるところなかりけり。さればなむ、かの翁、さらにここをめでて、「塩釜にいつか来にけむ」とよめりける。

 『伊勢物語』第81段(新潮日本古典集成)

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同書同段頭注に「業平は融の三歳年下」とある通り、融(822-895)と業平(825-880)は同時代人である。『伊勢物語』はほとんどの段が「むかしをとこ」の物語であり、実在人物を語る段も「むかし」と始まる。ここでは河原院の風情あるさまが描かれている。

 

京都市考古資料館に置いているリーフレット「平安京の構造」によれば、「貴族には地位や身分に応じて宅地が与えられ、風情を凝らした庭園を備えた邸宅が営まれ」たとのこと。一方、慶滋保胤(933?-1002)による『池亭記』では、六条大路より北の土地を購入して家を建てたことが記されている。

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予本無居処、寄居上東門之人家。常思損益、不要永住。縦求不可得之。其価直二三畝千万銭乎。予六条以北、初朴荒地、築四垣開一門。

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保胤の生きた時代は源融の生年とは100年超の開きがあるが、京都アスニーで入手した地図「平安京の主な施設と邸宅」には、ともにその場所が記されている。「池亭」と記載があるのは、北は六条坊門小路、南は揚梅小路、東は室町小路、西は町小路に囲まれた左京三坊六条の一町分の区画の土地である。現在の下京中学校の辺りだろうか。六条河原院の敷地は、その4倍の広さ。同じ広さの邸宅は、宇多院、淳和院、冷泉院、四条後院など譲位後の御所のほかは、高陽院(賀陽親王邸を入手した藤原頼道が邸宅を拡大したもの)のみである。敷地だけでも、河原院は特別であることがわかる。

平安京は、その末期には左京を中心として発展していくが、二条大路より北は貴族の邸宅、南は庶民の居住区で商業地域となっていったようだ。六条河原院は融の没後、息子が相続して宇多天皇に献上したというが、住む人のいなくなった京の東端の豪邸が、見捨てられた結果、どうなったか。

「六条河原院…(中略)…それはたちまち廃墟(原文ママ)と化し、『源氏物語』では怨霊が出る話が作られ、『今昔物語集』では幽霊の出る説話の場所となった」【『物語 京都の歴史』(中公新書)】

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いさよふ月にゆくりなくあくがれんことを、女は思ひやすらひ…(中略)…そのわたり近きなにがしの院におはしまし着きて、預り召し出づるほど、荒れたる門の忍ぶ草茂りて見上げられたる、たとしへなく木暗し…(中略)…宵過ぐるほど、すこし寝入りたまへるに、御枕上にいとをかしげなる女ゐて、「おのがいとめでたしと見たてまつるをば尋ね思ほさで、かくことなることなき人を率ておはして時めかしたまふこそ、いとめざましくつらけれ」…(中略)…物に襲はるる心地して、おどろきたまへれば、灯も消えにけり…(中略)…女君いみじくわななきまどひて、いかさまにせむと思へり…(中略)…この枕上に夢に見えつる容貌したる女、面影に見えてふと消え失せぬ…(中略)…この人いかになりぬるぞと思ほす心騒ぎに、身の上も知られたまはず添ひ臥して、「やや」とおどろかしたまへど、ただ冷えに冷え入りて、息はとく絶えはてにけり。…(中略)…かのありし院ながら、添ひたりし女のさまも同じやうにて見えければ、荒れたりし所に棲みけんものの我に見入れけんたよりに、かくなりぬることと思し出づるにも、ゆゆしくなん。

『源氏物語①』夕顔巻(小学館 日本古典文学全集20)

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院に棲む物の怪が自分に取り付いて夕顔を取り殺したのだ、と源氏は述懐している。「なにがしの院」は「河原院がモデルといわれる。河原院は…(中略)…種々の古記録によれば、延長四年(九二六)、六月二十五日、融の亡霊が現れた。十世紀ごろには荒廃していた」と頭注にある。

 

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今は昔、河原の院は、融の左大臣の家なり。陸奥の塩竈の形を作りて、潮を汲み寄せて、塩を焼かせなど、さまざまのをかしきことを尽して、住み給ひける。大臣失せてのち、宇多院には奉りたるなり。延喜の帝、たびたび行幸ありけり。また、院の住ませ給ひけるをりに、夜中ばかりに…(中略)…日の装束うるはしくしたる人の…(中略)…かしこまりてゐたり…(中略)…「融の大臣か」と問はせ給へば、「しかに候ふ」と申す…(中略)…「…(中略)…故大臣の子孫の、われに取らせたれば、住むにこそあれ。わが押しとリて、ゐたらばこそあらめ、礼も知らず、いかにかくは恨むるぞ」と、高やかに仰せられければ、かい消つやうに失せぬ。……

『宇治拾遺物語』151話:河原の院、融公の霊住む事

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ここでは、融の亡霊が出現しているものの、宇多院に一喝されて退散しているので、さして恐ろしい話ではない。これと同話が『今昔物語集』巻27第2話にある。

一方で『今昔物語集』巻27第17話では、妻と上洛した男が河原院に泊まった際、鬼に妻を吸い殺されるというおどろおどろしい話が語られる。手元に現代語訳しかないが、引用する。

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今は昔のこと、五位の位を買うために、東国から都を指してのぼって来た者があった。その妻も、

「それはさいわい、わたしも京見物に」

と言って、夫といっしょに上洛したが、おり悪しく予定した宿がふさがって、行きどころがなくなってしまった。そこにたまたま、河原の院という東六条にある古びた大きな屋敷が、住む人もなかったので、少しばかりの縁をたよりに、留守をあずかる者に一晩貸してくれるように頼みこんだ。……(中略)……なんとも正体のわからぬ物が、さっと手を差し伸ばして、ここにいた妻を摑み取り……(中略)……見る見るうちに妻が引きずり込まれたから、自分も大急ぎで開き戸に飛びつき、さて開こうとして引っ張っても、もうしまったきりびくともあかなくなった。……(中略)……斧を持ち出して切り開き、灯を点して中へはいってみた。すると妻を、どういうふうにしたものか……(中略)……鬼が吸い殺したのだと、人々は口々に話し合った……(中略)……様子を知らない古い家なんかには、宿を取るべきではない、という話である。

『今昔物語』日本古典文庫11(河出書房新社)第三部 霊気 鬼のため妻を吸い殺される話 福永武彦訳

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なお、「河原」についてだが、『方丈記』(新潮日本古典集成)頭注に、「鴨川の通称」とある。

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……三十あまりにして、更に、わが心と、一つの庵をむすぶ。

 これをありしすまひにならぶるに、十分が一なり……(中略)……所、河原近ければ、水難もふかく、白波のおそれもさわがし。

 『方丈記 発心集』(新潮日本古典集成)方丈記 四

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同書には「河原」がほかにも数回登場する。

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築地のつら、道のほとりに、飢ゑ死ぬるもののたぐひ、数も知らず……(中略)……いはむや、河原などには、馬・車の行き交ふ道だになし

 『方丈記 発心集』(新潮日本古典集成)方丈記 二

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『方丈記』の最終文に「時に、建暦の二年、弥生のつごもりごろ、桑門の蓮胤、外山の庵にして、これをしるす」とあり、1212年の著であることがわかる。「河原院」は鴨川のほとりの邸宅で、その通称は300年を超えて使われ、さらに現在の河原町通の名称にもつながっていると言えるだろう。


六条河原院と古典①

2024-03-12 22:16:49 | 国文学

前回の記事「六条河原院跡」の看板にある「難波の浦」の出典は、顕昭の『古今和歌集鈔』であるようだ。

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顕昭の『古今和歌集鈔』に、「毎月難波ノ潮二十斛ヲ汲マシメテ、日ニ塩ヲ煑テ、以テ陸奥ノ塩釜浦ノ勝槩ヲ 模ス」とある

(新潮日本古典集成『宇治拾遺物語』[151]「河原の院融公の霊住む事」頭注)

 *ルビ省略 

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ここでは「二十斛」と、数字が違う。

 

国書データベースの『古今集註』では、「難波」の記述は見つからなかった。

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カハラノ ヒタリオホイマウチキミノ ミマカリテノ後

カノ家ニ マカリテアリケルニ シホカマトイフトコロノサマヲ

ツクレリケルヲ ミテヨメル            ツラユキ

キミマサテ ケフリタエニシ ゝホカマノ ウラサヒシクモ ミエワタルカナ

 

カノイエとイヘルハ■■河原院ナリ 六條坊門ヨリハ南 六条ヨリハ北 万里小路ヨリハ東 川原ヨリハ西

方四町也、池ニ 毎月ニ 塩三十斛ヲ入テ

海底ノ魚蟲ヲ 令住之由 清輔所注也 大臣之後為寛平法皇御所 ■■云 本号東六条院

令ハ堂也 隆国卿注者 作陸奥塩竃形汲湛湖水云々

(国書データベース『古今集註』p.152:国書データベース (nijl.ac.jp)

  *訓点省略。読み取れない部分は■で表示

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ここでは、池には海水ではなく塩を入れたことになっているが、源隆国(醍醐天皇の曾孫)の注には湖水を湛えたなどとある、としている。

すべての底本を確認することはできないうえ、研究者でもないので深追いはしないが、引用の底本だけは調べておこう。

国書データベース(宮内庁書陵部蔵書)『古今集註』は貫之自筆の小野皇太后宮本を藤原通宗書写の通宗本をもとにした清輔本を底本とし、新潮日本古典集成『古今和歌集』は俊成本の昭和切をほかの写本で校合した定家本系統の貞応二年本を底本としているようだ。源融(822頃-895頃)、清輔(1104-1177)、貞応2年(1223)、顕昭(1130頃-1209頃)、こうして年代を並べると、異同は「伝承」の一言で片づけるしかない。

 

後世、世阿弥(1363-1443)が創作した能「融」のシテは次のように謡う。

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嵯峨の天皇の御宇に 融の大臣陸奥の千賀の塩竈の眺望を聞し召し及ばせたまひ この所に塩竈を移し あの難波御津の浦よりも 日ごとにを汲ませ ここにて塩を焼かせつつ 一生御遊の便りとしたまふ しかれどもそののちは相続してぶ人もなければ 浦はそのまま干潮となつて 池辺に淀む溜水は 雨の残りの古き江に 落葉散り浮く松蔭の 月だにまで秋風の のみ残るばかりなり されば歌にも 君まさで 煙絶えにし塩竈の うらしくも見えわたるかなと 貫之めて候

            (観世流謡曲集)

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渉成園での解説ボランティアの方が「毎日大阪から海水を運んで」と言っていたのが気になって、調べた。それは無理だろう、言い間違え?と思ったが、謡曲をもとに解説しておられたのかもしれない。

 

 *2024年3月14日加筆修正


神泉苑と古典

2024-03-05 12:45:41 | 国文学

ブログを再開して間がないからか、下書きが消えてしまうという不運に見舞われた。カテゴリーは追加されているのに、追加後に書いたものが消えるなんて。

神泉苑立て看板の「五位鷺」より、謡曲ほか国文学関連に現れる神泉苑を確認してみた。

以上、南側の立て看板。五位鷺の内容は、次のHPに詳しい。

 

銕仙会 能楽辞典:鷺 | 銕仙会 能楽事典 (tessen.org)

the能ドットコム:能・演目事典:鷺:あらすじ・みどころ (the-noh.com)

 

神泉苑HPでも同様、五位鷺について言及している。

神泉苑:神泉苑の歴史 (shinsenen.org)

 

一方、『今昔物語集』『宇治拾遺物語』に見える話は神泉苑にとってありがたい話ではない。

 

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 [一四五]穀断の聖、不実露見の事

 昔、久しく行ふ上人ありけり。五穀を断ちて、年ごろになりぬ。

帝きこしめして、神泉に崇め据ゑて、ことに貴み給ふ。木の葉をの

み食ひける。もの笑ひする若公達集まりて、この聖の心みんとて、

行きむかひて見るに、いと貴げに見ゆれば、「穀断ち、幾年ばかり

になり給ふ」と問はれければ、「若きより断ち侍れば、五十余年に

まかりなりぬ」と言ふを聞きて、一人の殿上人の言はく、「穀断ち

の糞はいかやうにかあるらん。例の人には変りたるらん。いで行き

て見ん」と言へば、二三人連れて行きて見れば、穀糞を多くひりお

きたり。怪しと思ひて、上人の出でたる隙に、「ゐたる下を見ん」

と言ひて、畳の下を引きあけて見れば、土をすこし掘りて、布袋に

米を入れて置きたり。公達見て、手をたたきて、「穀糞の聖、穀糞

の聖」と呼ばはりて、ののしり笑ひければ、逃げ去りにけり。その

のちは、行方も知らず、長く失せにけりとなん。

 ※『宇治拾遺物語』 (新潮日本古典集成)より全文引用

   ただしルビ・傍注は省略

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一読して概要を掴めるので、口語訳の必要はないだろう。

同書の頭注に、『今昔物語集』巻28第24話が「これと同話に当る」とあり、その原典が「『文徳実録』斉衡元年(八五四)」の記述だとしている。つまり、史実を説話(教訓)として語り伝えてきた、ということである。

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○乙巳 備前國貢一伊蒲塞  斷穀不食 有勅安置神泉苑 男女雲會 

觀者架肩 市里爲之空 數日之間 遍於天下 呼爲聖人 各々私願 

伊蒲塞仍有許諾 婦人之類 莫不眩惑奔■ 得月餘日 或云 

伊蒲塞夜人定後 以水飮送數■米 天曉如廁 有人窺之 米糞如積 

由是■價応時■折 兒婦人猶謂之米糞聖人

 *『日本文徳天皇実録』(国立公文書館デジタルアーカイブ巻五・巻六 p.34)

 :日本文徳天皇実録(archives.go.jp)

   ただし読み取れない文字は■で表示

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備前国から献上された穀断ちの在家僧が、帝によって神泉苑に据え置かれて都の人々の崇敬を集めていたが、実は穀断ちは嘘だった、その後は女子どもから「米糞聖人」と呼ばれた、という内容である。冒頭で述べたように、いい話ではない。が、ここからは神泉苑の由緒――帝が崇める僧を据える場所だったこと――が読み取れる。

 

ついでに、全文引用した『宇治拾遺物語』(新潮日本古典集成)の頭注について

参考書籍は初版なので、もしかしたらすでに訂正済みかもしれないが、頭注17に神泉苑の場所を「神泉苑町」としているのは誤りで、「門前町」が正しい。

 

2024年3月6日追記:新潮日本古典集成新装版(令和元年6月発行)を書店で確認したところ、訂正されていなかった。基本的な校正ミス。