京都逍遥

◇◆◇京都に暮らす大阪人、京都を歩く

知恩寺

2009-07-31 00:38:37 | まち歩き

数年前、手作り市に行ったことがある。手芸、陶芸、食品などさまざまな物が並び、見て回るだけで面白かった。

東大路通で用事を済ませて百万遍のバス停へ向かう途中、久しぶりに知恩寺の境内を歩いた。東大路から入る。

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ここは、法然上人ゆかりの浄土宗のお寺。元は賀茂河原屋と言い、円仁が創建した比叡山功徳院の里坊で、賀茂社の神宮寺でもあった。寺所は今出川(現・相国寺近辺)だったそうだ。ここには法然上人が住んだこともあり、河原屋を継いだ源智が、上人入滅後、御影堂を建立して、上人を開山第一世としたらしい。また、「知恩寺」と改称したのは如空で、「百万遍」の名称は、空円のとき「百万遍念仏」で疫病を鎮めたため、後醍醐天皇により下賜されたのだそうだ。寺所は、一条通小川、寺町通(現・梨木神社)と移った後、この地に落ち着いたということである。

写真は、南門から見たもの。それと、南門を臨んだもの。

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念珠が吊るされたお堂の中は圧巻だ。さすがに写真撮影は憚られる。弘法大師筆の利剣名号、紺紙金泥「南無阿弥陀仏」の写真があった。これは現存するのだろうか。中尊寺で紺紙金泥経の美しさと華麗さに目を奪われて以来、紺紙金泥文字がとても気になる。あの美しいものを、実物を見たいと思う。境内に、その文字を写した石碑が建っていた。

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ところで、お寺には、寺紋と宗紋があるらしい。

知恩寺は、浄土宗紋の月影杏葉(ぎょよう)。杏葉は、法然上人の生家の漆間家の紋に由来しているそうだ。1915年に、蘂7個、宗歌「月かげ」の月を配した紋が定められたらしい。写真、きれいに写らなくて残念。

堂の飾り瓦には三つ巴が使用されており、今出川通に面した門の飾り瓦は蓮華紋だった。お堂の屋根に乗っている獅子は普通だが、この門の上で睨みを利かせている魔除けの動物は何だろう。亀の甲羅のようなものがついている。愛嬌があると思えなくもない。そして、次の波型のものは、もっと訳が分からない。何を意味しているのだ・・・。

いや、これは玄武かもしれないと、ちらっと思った。しかし、この場所は、南門の南西角。玄武は北の守護神獣だ。知恩寺は洛中の東にある。北東と言えなくもないが。どこか他のところに、他の四神もいたかもしれない。朱雀、青龍、白虎。次に行ったときに、確かめねばなるまい・・・。

いや、やはり玄武の姿は少し違う。亀に蛇が巻き付いているはずだ。これは、かわいい幼獣。絵本に出てくるドラゴンの子どものよう。もう一度行って確かめよう。よく見てこよう。

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祇園祭(花傘巡行)

2009-07-24 23:57:59 | まち歩き

今日は還幸祭。17日の神幸祭で、神輿(写真右:御旅所に鎮座する神輿)に乗って京の街中へ来られた八坂神社の御祭神の神霊を、八坂神社へお帰しする日。神幸祭には、神輿が通る前に、その道を清めるための山鉾巡行があったように、還幸祭では、花傘巡行(写真左)が行なわれる。

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と言っても、かつては17日を「前祭」と言い、山鉾20基がその役目を負った。24日は「後祭」と言って、山9基が通るものだったそうな。

「昭和41年(1966)、後祭が17日に合流し、後祭の行事が喪失したために興されたのが、花傘巡行のはじまり」(八坂神社HP)ということだ。だから17日の巡行では、24番以降が「後祭の巡行列」と、わざわざ但し書きが付くことになる。

今年は、去年よりも人出が少なかった。八坂神社に到着したのは9:50。八坂神社石段下北側の歩道で、先頭の子供神輿が動き出すのを待つ。5分ほどで歩道は人でごったがえし、マナーの悪いにわかカメラマンも。巡行順を記した紙を、車道側から配ってくれる。これには舞殿で行なわれる奉納舞踊の解説もあり、助かった。

10時ちょうどに行列は動き出した。石段下を行き過ぎるのに約30分。行列は東大路通を横切り四条通を西へ、河原町通を北上、御池通を西へ、寺町通を南下、四条御旅所で順番を検め、四条通を東へ、八坂神社突き当りを南へ、神幸道を東へ、神社南門から入って、本殿に参拝し、奉納舞踊の1時を待つ。四条も河原町も御池も、片側一車線規制で、信号も守る。歩くだけだが、時間がかかり、先頭、12時神社着の予定が、実際は12:15頃だった。間でバスに乗ったり、買い物がてら冷房の効いた店内で涼んだり・・・と、見る方はいいけれども、傘を曳く人たち、歩く人たちは大変だ。去年ほどではないが、今年もかなり暑かった・・・。

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さて、1時前に、能舞台で口上が始まった。花傘巡行の由来を、能のワキのような役回りで語る。なかなかいい。そうして、次々に奉納舞踊が行なわれた。祇園太鼓、獅子舞、六斎、小町踊、歌舞伎踊、鷺踊、万灯をどり。今回最も良かったのは、久世六斎だ。

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「六斎とは、六斎日(8・14・15・23・29・晦)に念仏した事から起こり能楽、歌舞伎等の影響を受け今日に至っている。楽器は笛、三種の太鼓、鉦を使用する。」(先述の解説)

持ち手の付いた小さな太鼓を叩きながら、踊る。その姿も良く、音も良く、気になったのは浴衣がやけに短いこと。踊るから?浴衣は、着物と違って短いものだけれども・・・。


祇園祭(山鉾巡行)

2009-07-18 00:45:29 | まち歩き

四条烏丸交差点に、8:30に到着。南東角で長刀鉾を見ていると、雨がパラパラし始めた。8:40頃、禿、お稚児さんが順に乗り込む。お稚児さんは、地面に足をつけてはいけないから、強力(剛力)の肩にかつがれて梯子を上る。

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さて、9時前、まだ雨はパラついていたが、雨除けのビニールシートが外され、お囃子と、「ヨーイヤサー」の掛け声と共に、長刀鉾は進み始めた。次は、籤改めのある堺町通で綱切りを見なくては。みな考えることは同じで、長刀鉾の動きと共に観衆も一斉に移動するので、とても危ない。人が多くてひどく押される。周りで誰も怪我しなくて良かったと思うくらいだ。やっとのことで籤改め場所に着いたが、目当ての綱切りには間に合わなかった。歩道の後ろ側で、柱にもたれて後に続く山鉾を観覧することにした。とにかくサンダルを履いて行くべきではない。ベビーカーに足を3回轢かれた。

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ここでは、巡行順の固定している、籤取らずの山鉾(長刀鉾・函谷鉾・放下鉾・岩戸山・船鉾・北観音山・橋弁慶山・南観音山)は、代表者が「お願いします」と挨拶をしてから進む。他の山鉾は、木箱に入れられた籤を市長に差し出し、市長が読み上げるという一定の所作に基づいた儀式を行なう。また、舁き山の場合は、その場で山をぐるりと回転させてから進み、曳山と鉾は、そのまま進む。傘鉾の場合は、太鼓・笛の音曲に合わせて踊りを披露してから進む。

雨は止んだりパラパラしたりを繰り返し、ほとんどの山鉾が、ビニールをかけたまま。長刀鉾、北観音山、南観音山は、外していた。やっぱり、ビニール越しでない懸装品を見たい。宵山でつけているのは「常のもの」なので。ハレの懸装品は、ビルの谷間の町会所に飾っていても、もう一つ映えない。

ところで「懸装品」の読み方は、どれが正しいのだろう?よく聞くのは「けそうひん」。新聞にも、そうルビをふっている。ただ、どこかの町会所のアナウンスで「けんそうひん」と言っているのも聞いた。そして、祇園祭山鉾連合会が発行している「2009祇園祭山鉾参観案内書」には「かけそうひん」とある。

かつて24日の「後祭り」で巡行していた北側の町々が所有する山鉾は、「後祭り巡行列」という幟に続いて、進んでくる。最終は南観音山。パトカーが守るその後から、続々と一般車が走り始める。交通規制解除。

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すぐに堺町通を北上するが、御池通で出合ったのは5番の函谷鉾。籤改めを全部見終わってからでは、先頭の辻回しに間に合わないことがわかった。それにしても、細い新町通を進む様子を見るのは、迫力がある。電線を持ち上げたりして危ないなと思っていたが、ここは電線地中化を予定しているらしい。屏風祭も行なわれる通りだし、景観も良くなるだろう。

一時過ぎ四条通に戻ると、長刀鉾は町会所に到着して2階に橋もかかり、囃し方も引き手もみな休憩中。これで終了と得心して、買い物へ。大丸、Loftと日食グラスを求めて歩くも、売り切れ。迷った末に河原町通のJUNKUDOへ。ありました。レジ前に積んでた。星の手帖社が出している「欠ける太陽を見よう!皆既日食」。こんなペラペラのグラスで大丈夫かな、と思いつつ。

さて、買い物を済ませて四条通に戻ってみたら、長刀鉾の解体が始まっていた。珍しいものに行き当たったと思い、2時半~5時まで、見物。屋根を持ち上げて降ろすのだと思っていたら、何と細かく分割され、少しずつ解体されていた。屋根板だけで、30枚ぐらいはありそうだ。

09_002 ←1時頃、町会所に到着した長刀鉾。

↓2時半頃、鉾車が外された。

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←3時半頃、作事方が、足場を組む。

↓5時前、屋根が少しずつ解体される。

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解体中も、四条通の隣の車線ではバスも普通車もどんどん通り、こわいな・・・と思いながら見上げていた。さすが大工さん。高所作業は慣れたものだ。作事方の一人から、「今日は、真木までは無理やなぁ」という声が上がっていた。今日中には解体できないこともあるんだ。鋏で切り落とした縄を、記念に持ち帰る人が何人もいた。京都人、いずれこれでお商売するかもしれない・・・。

神幸祭は、いつか見てみたい。


祇園祭(宵山・屏風祭)

2009-07-16 23:34:39 | まち歩き

14日、どこかの町会所で、京都新聞の祇園祭特集をもらった。屏風祭の地図と場所が載っていたので、歩いてみることにした。ただ、伴市は午後6時~10時開催だったので、見ていない。

地下鉄烏丸御池で降りたので、北から順に回る。

①荒木装束店:烏丸通沿いのショーウインドーにあり。

②木村家:竹図柄の二双の屏風。個人宅なので、玄関を入って声をかけると良い。

③紫織庵:建物・屏風ともに見どころ多い。有料(500円)。

④松坂屋:格子戸越しに、具足・小袖・屏風を見ることができる。

⑤吉田屋:店の間から坪庭が手前と奥に見え、さわやか。

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⑥藤井絞:ずうっと奥に続く座敷が見渡せて、屏風も着物も飾られている。

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⑦平岡旗製造:四条通に面したショーウインドーにあり。

⑧やまいち:・・・思い出せない!

⑨横山商店:西洞院通に面したビル。着物と屏風。

⑩青木家:・・・思い出せない!

⑪杉本家住宅:建物が美しい。屏風は、部屋が薄暗く、よく見えない。有料(1500円)。

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⑫長江家:建物・美術品・おくどさんの説明あり。祇園祭ビデオ(約5分)あり。有料(700円)。

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ショーウインドーに飾られた屏風等を外から眺めるだけの所、町家の格子の間から眺める所、有料で室内を見せて頂く所、とさまざまである。美術館の部屋毎に監視員が必要なように、観光客が室内に入る大店や豪邸では、何人か常駐している。ために有料にもなるのだろう。入場料収入は、その保存のための修繕費として使われるのかもしれない。にしても、⑪の1500円は高すぎはしないか。浴衣姿の学生アルバイトに支払うためでもあるまいが・・・。美術館で、この金額を支払えば、どれだけの絵画を見ることができるだろう。紫織庵では、入場料を支払って、その会社の商品を見るということに違和感を覚えたが、建物や美術品の鑑賞と相殺すれば、金額は妥当である。また、長江家住宅、ここは部屋毎に解説があり、質問にも丁寧に答えてくれ、満足感がある。おくどさんの上に並んだ7体の布袋さんは、幸せが続いている証拠なのだそうだ。

そうそう、最後に、宵々々宮で見られなかった縄がらみ・樽巻きを北観音山で見つけたので、その写真を。埒の木枠のすき間から写した。

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祇園祭(宵々々山)

2009-07-15 00:40:19 | まち歩き

1日に始まった祇園祭。10日からの鉾建て・山建ての縄掛けの様子を見逃してしまった。「雄蝶」「雌蝶」「鶴亀」「杵と臼」などと呼ばれる樽巻き。数年前に見かけたとき、なんと力強く美しいものだと見入ったのだった。14日ともなれば、胴掛・前掛・見送など懸装品を既に飾っているものも多く、縄は隠れている。まだ飾っていない山や鉾も、埒(巡幸の朝まで山鉾を守る木枠)の中にあって、縄がらみがよく見えなかった。

新町通、室町通を歩いた。これは役行者山。路地奥の会所に、懸装品を飾っていた。

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この山のご神体(役行者、一言主神、葛城神)も、まだ安置所におられた。その建物の飾り瓦は、これ。

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役行者山の紋は行者輪宝である。よく似ているが、これはお地蔵様の大日如来紋だと説明を受けた。(調べていないので、正確な情報かどうか分からない。)

菊水鉾で粽(1000円)を買ったら、鉾を見学することができた。マンションの2階から橋を渡して、楽に乗り込めるようになっている。

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天井は布で覆われていた。鉾内部から後ろの提灯を見る。鉾町の菊水紋、八坂神社の三つ巴と五瓜に唐花紋が見える。

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菊水鉾町には、菊水紋だけでなく、菊花紋もあるらしい。鉾内部の金具にも菊の文様。

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祇園祭には、山と鉾が出る。

山は本来、山岳信仰から発生したものらしい。古来の民間信仰では、神は山の岩や木を依り代として天から降臨するという考えがあった。その自然界の山を模して、祭礼用に「ヤマ」を作り、さらにそのてっぺんに依り代として木(祇園祭では、ほとんどが松)をつけたのだ。

よって、祇園祭における山と鉾との違いは、依り代の松があるかどうか、と言える。また大勢の囃し方が乗って音曲を奏でるのが鉾とも言えよう。この祭礼の元々の形は鉾立てであった。鋭い剣鉾で、悪いものを追い払うと同時に、歌舞や技芸によって、神の怒りを鎮めることを目的としていたのではないだろうか。

祇園祭のルーツは、863年の祇園御霊会である。全国各地に流行した疾病を牛頭天王(八坂神社の祭神)の祟りと考えた人々が、神の怒りを鎮めるために、神泉苑に66本の鉾を立てて、疾病の元となる怨霊退散を祈願したのだ。10世紀には、神輿に疫神を宿らせて海に送る御霊会が行なわれ、 974年には、神輿が京都の街中の御旅所に渡御するようになった。1345年、三条町・四条町の綿座商人など町人の力が強くなってきた頃、神輿渡御に随行する鉾とは違う山鉾を、町共同体が出したらしい。(『物語京都の歴史』参照。)山や鉾の名称・由来は、神話や伝説、能の題材、中国の故事などに依っている。

この時期、あちこちの町家では、屏風祭も行なわれる。表屋造の屋敷では、「みせの間」に飾っている屏風や道具を、道路から見ることができる。また、大塀造の屋敷では、玄関から上がって、室内の飾り物を見ることができる。

私が行ってみたのは川崎家住宅(入場料500円)。ここは後者の造りで、屏風も、小袖も、お部屋も、それはすばらしい。ちょうど団体客が到着して、所有者による解説も聞くことができた。大正時代から完全なままで残っている波打ちガラスや、美術館に所蔵されている屏風、竹内栖鳳による東山三十六峰の欄間、武田五一設計の洋室など、見るべきものは多い。所有者の家業は長襦袢製造販売業で、「京の襦袢&町家の美術館・紫織庵」として、年中公開(要予約)しているらしい。長襦袢自体も、大正モダンの柄が面白かった。

南観音山のある百足屋町には、和雑貨店くろちく所有のくろちく百千足館がある。2階の能舞台に飾られた長刀鉾1/8模型を見学した。精巧であると同時に美しい芸術品。これは江戸時代後期、三井家が作らせたもので、実際に子どもたちが道で曳いて遊んだらしい。随分と贅沢なおもちゃである。

(京都新聞:http://kyoto-np.jp/article.php?mid=P2009070200028&genre=I1&area=K00