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定年後、定着した60代の自由を謳歌!

 定年を迎え60歳代に入る。第2の人生として輝ける10年を大いに楽しんでいる。 M爺

イタリア自転車の旅(ザグレブ~ローマ)

2012-05-23 12:15:26 | シルクロード
 2012.4.10-2012.4.27クロアチアのザグレブからイタリアのローマまで自転車による旅をしてきた。およそ714Kmの距離を自転車で走ったことになる。4月の天候はヨーロッパでも不安定で雨による中断が何度かあった。計画では774Kmであったので、差の60Kmはバスによる移動となった。

 シルクロード、中国の西安からイタリアのローマまでの約15,000Kmを20年かけて自転車で走ろうという遠大な計画を立てた人がいて、その話に賛同した私は5年前から参加した。今回は第20次遠征ということで最終章であった。

 最終章はクロアチアからイタリアのヴェネチア経由でローマまでの走行である。以下がそのルートである。

  ルートマップ
  
  
  これはTシャツにプリントしたもので、これを着て走行していると質問責めにあっても即説明ができて非常に重宝した。なんで自転車なのかと聞かれると、昔はラクダや馬で移動したシルクロードを、現代ではもっとも近い乗り物は自転車になるという説明にしてある。

  今回の遠征メンバー全員
 

 クロアチアからスロベニアに抜けるときは小さな国境があった。現在は欧州連合(EU)ゆえ、地面にその標があるだけであった。
   
  

 スロベニアの首都リュブリャナで日本人会のみなさんに日本から持ってきた本、雑誌、CDなど87点を寄贈した。
  

 スロベニアを過ぎるとすぐにアドリア海に出た。このカオルレの町から美しい海を見てみんな興奮気味であった。
  

 ヴェネチアから持ってきたといわれる砂で作った海水浴場は避暑地となっており膨大な数のパラソルを立てる支柱で埋め尽くされていた。
  

 ここにある塔はなぜか傾いいているようにも見えた。イタリアはとにかく斜塔が多い。
   

水の都、ヴェネチアに着いた。街の中へは乗り物禁止ゆえ近くのホテルからバスに乗って一日の観光に出かけた。
 ドゥカーレ宮殿の地下牢獄へ渡る橋で「ため息の橋」と言われている。
   

 ヴェネチアから離れて自転車をフェリーに乗せて島から島へ渡る、日本の四国へ渡る「しまなみ街道」に似た旅となった。
 フェリーから見たヴェネチアの遠景
  

 アドリア海の島を走る

 イタリア本島に入りポー河の左岸を走る。
    

 ボローニャからフィレンツェへの走行はアペニン山脈越えの圧巻91Kmであった。スタート前の気合いを入れている場面である。標高差1,000m以上を一気に登る醍醐味を楽しんだ。
   
 峠のレストランにあったファーストコッピの写真。有名な自転車レーサーで自転車の神様みたいな人。レース中ボトルを受けている場面。
このコッピという人は1942年に1時間でどれだけ自転車で走れるかという「アワーレコード」で45.898Kmとい記録を残している。もっとも現在ではその記録は塗り替えられて、1972年にエディ・メルクスが出した49.432kmが公認の新記録となっている。
       

 イタリアは自転車レースが多い国であるが、我々が遠征している時もジロ・デ・イタリアの前哨戦が行われていた。100人ぐらいの大集団が怒涛のように駆け上がってきた。
                     
シエナへの途中 

 我々の走行は登りでがくんとペースダウンする。何とか峠まで登ろうとすると次のような手段をとることもある。

 人間アシスト

イタリアは丘の上の城砦都市が多い。
 
 城砦都市にある大聖堂
 狭い坂の町であり観光のみが産業となる

 いよいよローマに到着する。ローマに入る直前で全員の到着祝いの記念撮影を行った。
    

 無事全行程をクリアした後、翌日はローマの観光に出かけた。
 ローマの象徴コレッセオの前で

 コレッセオの中はローマ帝国時代の剣闘士が今にも出てきて、死闘を行いそうな感じがした。

 スペイン広場。あの「ローマの休日」でオードリヘップバーンがグレゴリーペックとアイスクリームを食べたというロケ地、最も多くの観光客が集まる場所である。
 
 近くには大道芸人がたくさん居た

 パンテオンはローマでほぼ完全に残っている最も古い建造物で紀元前27年のものである。まさにローマ帝国時代のもので、ギリシア建築を思わせる堂々とした柱が並ぶ。
    

パンテオン直径9mの天窓に注目

ヴェネチア広場、かつてムッソリーニが演説した場所で聞いた教会の鐘の音

ローマに通じる街道はみなこのような松が沿道にあった。特徴のある姿で我々を迎えてくれた。

 ローマといえば浴場である。カラカラ浴場の遺跡を見てきた。残っているのは壁の一部と床に敷き詰めてあったモザイクの一部のみであった。
 カラカラ浴場

最後にヴァチカン市国のサン・ピエトロ広場を見て終わりにする。ローマ市内にあって1929年に独立国となったヴァチカン市国はカトリックの総本山である。ローマ教皇ヴェネディクト16世が君臨する。

 サン・ピエトロ広場

 終わりに、今回はクロアチア、スロベニアさらにイタリアと自転車で走ってきたが町の中は壁という壁にスプレイで書いたいたずらが必ずあり旅行者の目を幻滅させることが多かった。世界遺産が多いイタリアをずっと守ってゆくには地元の人たちの心構えと観光客のマナーが必要だと痛感させられた。

 ローマは一日にして成らないが、一日にして破壊することもできる。美しい地球、貴重な遺産を我々が後世に残してゆくことは使命であると思った。
                                   以上
        

  

 
   

  

シルクロード第19次遠征 セルビア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、クロアチア

2011-06-24 17:16:49 | シルクロード
 2011.6.2-2011.6.19の18日間でバルカン半島のセルビア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、クロアチアと旅をしてきた。総勢18名のメンバーで自転車走行による遠征であった。新緑の山々、高原は日本と同じ様な景観を見せてくれた。つまり、若草色の木々、薔薇が満開、杏やサクランボが旬の季節であった。

 昨年訪れたベオグラード大学の日本語学科の生徒達と再会を果たした。昨年同様日本から持ってきた日本語の本を100冊以上もプレゼントした。彼ら彼女らは異口同音に日本へ留学したい事を訴えていた。ただし旅費を考えるとなかなか難しいといっていた。

 プレゼントした日本語の本
  

 東日本の震災に関しては勿論話題にした。生徒達から激励の言葉とメッセージを書いた模造紙で応援してもらった。

  応援メッセージ


ベオグラードの共和国広場には大きな牛の背中に「HOPE TO JAPAN」のメッセージが書かれていた。街の中で我々が日本人である事を明かして「フクシマ」と言えばすぐに震災の事だと分かってもらえた。

  

 今回の遠征は自転車の搬送に330ユーロかかることもあって現地のレンタサイクルにすることになった。マウンティンバイクの新車でなかなか良いものであった。これだと160ユーロで済み全工程を走る事ができた。日本から持ち込むことを考えると良い選択であった。

  レンタサイクル
  

セルビアの子供達は我々日本人が公園でランチを食べていたら続々と集まってきて興味しんしんに話しかけてきた。腕に日本語の字で自分の名前を書いてくれとせがんできた。漢字が珍しいのか我も我もと腕を出してきたので、それぞれの名前を書いてあげた。例えば「ヨバーナ」には「与羽那」とか「ナターシャ」には「那田社」とか。

  ヨバーナちゃん
  

  道路に飛び出してきた羊の群れ。自転車で走るとさすがに従順な性格とあって道路の端に寄ってくれた。

  羊の群れ
   

 ボスニア・ヘルツェゴビナを走っていると、地雷原の警告に時々出くわした。

  地雷原の警告表示
  

 この国は1992-1995といわゆる民族紛争があった。ある小さな村が丸々廃墟となっている場所を自転車で通ってきた。

  屋根が吹っ飛び住む事ができなくなった家がおびただしい数ほどあった。セルビア人、クロアチア人、ムスリム(イスラム教徒)の入り乱れた戦いであった事を物語っていた。1994年にはNATOによるベオグラード市内にある軍司令部がスポットで空爆された。

  屋根が飛ばされた家(ボスニア・ヘルツェゴビナ)とNATOの空爆跡(セルビア)
 

そんな内戦の爪跡の中を走ってばかりでは広い大地を真っすぐに行き高原でのランチを楽しんだりした。

 19次遠征隊18名の集団走行
   

  高原でのランチタイム ちょうちょうを採集している人もいる


 ボスニア・ヘルツェゴビナのヴィシェグラードにある「メフメット・パシャ・ソコロヴィッチ橋」は16世紀のオスマン朝時代に建てられた世界遺産である。

 ドリナ川にひっそりとたたずむ11のアーチが美しい橋
    .mov
 クロアチアはアドリア海に面した美しい国である。その象徴としてのドブロヴニクの町はこの世のものとは思えないすばらしいものであった。城壁で囲まれた旧い町をじっくりと堪能してきた。

  ボスニアの山岳国境をこえて下ってくると、こつ然と現れるこの美しい町の強烈な印象は忘れがたい。

  ドブロヴニク
  
  多くのヨットやクルーザーが停泊している ベイクルーズを待つ人たちもいる
     

  周囲2Kmの城壁で囲われた町の風景 
  

 旧ユーゴスラビアの映画監督エミール・クリストリッツァの映画「ライフ・イズ・ミラクル」の舞台となった場所で宿泊した。ホテル、レストラン、プールや美術館もあった。

  ここがホテルになっている
  

 バルカン半島には森林が多く、ゆったりと流れる川がまさにとうとうと流れている。
 

洞窟から出てくる湧き水
    

  ボスニアの小さい町モスタルにある「スターリ・モスト」。1566年オスマン朝時代に建築された美しい橋。内戦で一度は破壊されたが2004年に復元された。飛び込みで一躍有名になったが毎い夏にダイビング祭りが行われる。この町はこのネレトヴァ川にかかるこの古い橋だけで持っていることが町を歩いてみて良くわかった。

   モスタルの町遠景とスターリ・モスト(世界遺産)
 

  道中面白い水車を見た。3~4mほど高い地点に灌がい用の揚水として利用していた。自らの水の流れで自らの水をくみ上げていた。

  揚水用の水車
       

美しい教会を3点紹介してみる。一つは東方正教系の教会としては最大の規模であるセルビアにある「聖サヴァ教会」

  聖サヴァ教会(ベオグラード市)
  

  テレビィニャの町にあった小さな教会の内部(ボスニア・ヘツェゴビナ)
       

  クロアチアのザグレブにある「聖マルコ教会」。13世紀に建てられたゴシック様式で、屋根のモザイクが印象的。左の紋章はクロアチア王国、右はザグレブ市の紋章である。これは1880年に復元されたもの。

    聖マルコ教会
       

  ボスニア・ヘツェゴビナで柔道場があったので我々と国際交流をしてきた。日本よりは大きなスペースの道場でびっくりした。

   子供から大人まで一緒に練習
   

最後に美しいクロアチアを象徴するようなすばらしい「プリトヴィッツェ国立公園」を紹介して終了とする。

    16の湖と92の滝がある(世界遺産)  
                         
                  以上  

    

 

シルクロード雑学大学自転車走行練習

2011-05-18 10:35:08 | シルクロード
 2011.5.14-15で「シルクロード雑学大学19次遠征隊」のメンバーを含む13名で自転車走行練習を行ってきました。大月ー八ヶ岳往復の山岳コースでした。新緑がまぶしいすがすがしい季節の中、笹子峠をめざしました。

   スタート前

  スタート直後.mov


 「笹一」の酒蔵で最初の休憩 11Km地点
笹一の休憩地点.mov

   大太鼓の展示

 いよいよ往路の「笹子峠」の入り口にさしかかりました。ここから6Kmの登りでした。落石が多い中ゆっくりと登り始め、無事全員登坂できました。サポートカーは落石や倒木を拾って捨てながらゆっくり進みました。峠をクリアーしたあとの下りは快適そのものでした。

   笹子の下り.mov

 全員が86Kmぐらいの行程を無事走行して、先ずは温泉へと向かいました。ゆったりと温泉につかったあと「水洋山荘」へ移動して焼肉パーティとなり至福の時を迎えました。

  翌朝水洋山荘にて

   近所のケンさん宅の前で


 翌日は風光明媚な南アルプス、八ヶ岳、富士山を見ながらの快適なダウンヒルでした。 
   南アルプス

  復路は「石和温泉」経由、笛吹川添いののどかな風景を見ながらの快適なライドでした。  いよいよ笹子峠に向かっての登りが始まります。

笹子峠まで10Km地点

 復路の笹子峠

 1泊2日の八ヶ岳ロングライドも大月駅でゴールとなりました。お疲れ様でした。この日は「なるしまフレンド」のチームが100名ほど同じ甲州街道に繰り出していましたので峠の登りは自転車でごった返していました。メンバーのみなさんも大いに刺激されたのではないでしょうか。峠のライドをまだまだ多くアタックして行きたいものです。
                             以上



 

ブルガリア、セルビア自転車の旅(シルクロード)

2010-06-21 16:49:20 | シルクロード
 2010.6.2-6.19でブルガリア、セルビアを自転車で走ってきました。シルクロードを自転車で20年かけて走るという計画の18年目にあたる今回、19名のメンバーが参加しました。私は参加3回目となり、いよいよヨーロッパへと来ました。前回の2回はイラン、トルコでした。砂漠あり、山岳有り黒海沿岸ありと変化に富んだコースでした。そして今回は?

  全員集合
    

 今回はとうもろこし畑とか、バラ栽培の畑や豆類の畑などカントリーロードの多い地域を走ってきました。ブルガリアは人口約750万人で日本の1/3の広さです。かつてはバルカン半島を占領していた大ブルガリア帝国でしたがオスマン帝国に支配され、その後ロシアの支配下となり1909年に現在のブルガリア王国として独立しました。

    ブルガリア、セルビアの地図.
        

 ブルガリアとトルコの国境からスタートし、ソフィアを経由してセルビアに入りベオグラードが終着点の自転車の旅でした。途中ブルガリアのリラでは世界遺産の修道院を見学しました。

  リラ修道院 ブルガリア正教最大の修道院 


 自転車での最初の宿泊地Haskovo(ハスコヴォ)への登り
   Haskovo.mov



 Velingrad(ヴェニングラード)近くの湖のパノラマ。別荘が多くあるリゾート地帯
   Velingrad.mov



 19名の集団走行
集団走行1
   
   

 干草を載せた馬車を見つけた
  干草を載せた馬車



 ブルガリアではあちらこちらでコウノトリの巣を確認しました。それでもむかしに比べたらコウノトリの棲息数はずいぶん減ったというガイドの話でした。
  コウノトリの巣 

 いよいよ国境越えとなる
  
 ブルガリアからセルビアへはパスポートの提示だけで比較的簡単に国境を越えることができました。セルビアは人口約1,000万人弱で日本の1/4で北海道ぐらいの国土です。2006年にモンテネグロの分離独立を機に独立しました。ブルガリアからバトンタッチされた新しいガイドとバスの運転手に誘導さ新境地をさっそうと走り出しました。ランチはピクニック風です。

  ピクニックランチ  


 川を渡るのに、鉄道の鉄橋を道路が共用するという珍しいものに出会いました。つまり列車が渡った後に遮断機が上がり一般の車や人が通るというものです。勿論路面は鉄道と同じ高さになっていますが線路と道との隙間がびっくりするほど開いています。間違って車輪を入れると嵌ってしまい落車は免れません。

  鉄道と道路兼用の鉄橋


 いよいよベオグラードへ向けてのドナウ川の横断です。

  ドナウ川横断  

ベオグラード到着後翌日市内観光を楽しみました。ベオグラード大学東洋学部日本語学科の生徒との交流は非常に充実したものになりました。我々が日本から持ってきた日本語の書物106冊を寄贈し、たいへん喜ばれました。

  ベオグラードのドナウ川   



  ベオグラード大学のみなさんと記念写真


  

 最後にこの遠征で初めてヨーロッパに入りましたが、ブルガリアにしてもセルビアにしても農家の生活は決して豊かではないにもかかわらず、昼間からテラスで談笑している人達の姿が目に付きました。働いていない青年もいました。

 都市部は活気はあるものの、失業者の数も多いので人々の明るさは今ひとつといった感じでした。しかし公園の美しさは日本と同じで広いスペースをゆったりと使っていました。道行く人の服装は解放的ではありました。ただし、セルビアはコソボ自治区を初めベオグラードの街もNATOの空爆にあい、決して癒されているとはいえない雰囲気でした。民族紛争のない日本のありがたさを実感した次第です。               以上

 




   

トルコの大地と黒海

2009-06-04 18:59:25 | シルクロード
 シルクロード自転車の旅。今年も昨年の続きでトルコのエルズルム~スングルルまでの760Kmを自転車で旅をしてきた。2009.5.13~5.29 総勢14名でのキャラバンである。各自が役割を分担して見事なチームプレーによる17日間の旅行であった。

 広大なトルコの大地の一部であるが山あり、川あり、海あり、さらに世界遺産ありで充分に楽しませてくれた。今回は黒海沿岸を3日間走るスケジュールであったので砂漠や山岳が多いトルコでの癒しを感じさせるルートとなった。

  トルコ遠征のルート(青で示してある)
    
 
 日本からはウズベキスタンのタシケント経由でイスタンブールに行き、エルズルムまでは国内線で移動した。イスタンブールといえばヨーロッパとアジアをつなぐオスマン帝国の旧都である。オスマン建築の最高傑作のひとつであるスレイマニエ・モスクが次の写真である。トルコではモスクのことをジャーミー(Camii)と云いイスラムの主礼拝堂である。
    スレイマニエ・モスク(イスタンブール)
       

  この後は私が現地から報告した内容を「シルクロード雑学大学」のホームページにアップしたものを見てください。

     ここをクリックする---->トルコからの報告

 今回は黒海沿岸を走ったわけであるが、水温を計ってみた。19.5℃で沖縄の4月末と同じくらいだった。意外と暖かのに驚いた。海の色はエメラルドグリーンできわめてきれいな水であった。海の幸も豊富で魚料理は思う存分食べる事ができた。同じトルコでも砂漠、山岳以外に海もありバライティに飛んでいる事が確認できた。                 以上

シルクロードへのあこがれ

2008-08-29 13:10:11 | シルクロード
ユーラシア大陸を横断する遠大なシルクロード、一度は行ってみたいと思った人は少なからず居ると思う。中国の西安からイタリアのローマまでの1万1,500Km。

シルクロードを旅してみたい。歩きで?車で?馬で?ラクダで?自転車で?とくると一番適当なのは自転車ということになる。そんな訳で自転車でシルクロードを旅するという計画にはまった次第である。                   

中国からイタリアまで、東洋と西洋を結ぶ交易路を20年間で走破しようという計画である。長澤さんというフリーライターが1993年から始めたものである。今年は第16次遠征隊としてイランのタブリーズからトルコのエルズルムまでの630Kmである。2008年9月1日~18日の計画で実質9日間で走り抜くことになった。

ルートマップ

 <iframe width='480' height='360' frameborder='0' scrolling='no' marginwidth='0' src='http://map.yahoo.co.jp/embedmap?lat=39.36125279&lon=43.6891449&sc=15&mode=map&pointer=on&s=12220898685cdaff2712cfbf302aa37d3d2fc96b8c'>詳しい地図で見るこの地図でTabriz-->Marand-->Maku-->アララト山-->Dogubayazit-->Agri-->Eruzurumの行程である。

イランはほとんどが砂漠であり広大な大地を8人の自転車編隊で坦々と走った。
途中でクルド人の歓迎ともいたずらとも思えないほどの騒ぎとなった。



集団走行 8人のチームの一部

 長澤さんの「シルクロード雑学大学」のホームページでも詳細な報告がある。
 URLはここをクリックし、Newタブリーズ(イラン)~エルズルム(トルコ)の項------->シルクロード雑学大学

イランで驚いた事
 1.トイレに紙が無い
   空港、ホテルなど全ての場所のトイレに紙が無い。小の方はいいとしても大の方の始末はどうするのか?水はある。
  写真のように蛇腹のホースの先に同径のノズルが付いている。どうもこれできれいにするらしい。
  その後はどうするの?尻の水も拭かずにパンツを履くの?これが正解らしい。
  しかし、ウオッシュレットのルーツがイランにあったとは驚きでした。これもシルクロードのお陰であろう。
          トイレ------>

  2.さらにもう一つ、エレベーターのカゴに扉が付いていない!
    つまり、エレベーターが動くと外の扉が素透しで危険極まりないのである。日本ではまず許可が下りない構造物となる。


 3.街の交通ルールがメチャクチャ
   テヘランの街を歩くと車の多さと交通ルールの無法地帯になっているのには驚いた。
   信号機は点滅のみで、交差点での優先は先に突っ込んだ車の方が勝ちとなる。
   歩行者は横断歩道があっても無視して、いたるところで車を目の合図で止めながら広い車道を横断する。
   孫の手を引きながら横断するのは不可能に近い。決死の覚悟で渡るしかない。
 --->テヘラン



イランからトルコへ
 バザルガンから国境を越えるとトルコであった。すぐに飛び込んでくる風景はあの聖書に出てくるノアの方舟伝説で有名なアララト山(5,137m)である。それを右に見ながら疾走する気分は至福のひと時であった。


 
ノアの方舟跡とアララト山遠望

         

      


世界遺産のイサックパシャ宮殿の観光
--->ロバと坂道

トルコの子供たち


トルコで驚いた事
 1.行く先々で沿道の人に声をかけられたこと。我々も「メルハーバー」「こんにちは」と返答しまくった。
 2.自転車のパーツである「SHIMANO」を知っている貧しい子供達がいた事。盛んに私の持っているシマノ製グローブを欲しがった。


トルコの大地を集団で走るメンバー



  イランの大地









イランの山々とーーーーーーーーーーーーアジアンハイウエー


クルド人自治区

           


クルド人が飼っている羊の大移動      


アララト山特集と------> ワイングラスの逆さアララト山


巨大トレーラーががんがん走っているペルシャの大地   ドライブインでのサラダと鶏肉の炒め物


MAKUへの下り


トルコの雄大な大地


エルズルムの町と      イスタンブール門(ゴール)


ゾロアスター教会と  たまたま行われていた婚約式


アルメニア教会(テヘラン) イラン美人---スカーフの中から見える顔は全て美人に見えた
      

最後に泊まったスキーリゾートホテル   エルズルム(44万人)遠景


アジアンハイウエー(イラン)     この道路を我々が自転車で走ってきたのである    


集団走行 登り


目的地44万人都市エルズルム(トルコ)


[雑感]
 1.イスラム圏、特にイランでアルコールが飲めない、入手できない事のつらさを実感した。
 2.旅の2日目からラマダン(断食月)に突入したため昼の食事にも苦労した。ラマダンは2度とゴメンである。
 3.テヘランの街中の交通はまるで地獄のさたである。道路を横断するのは命がけであった。
 4.クルド人の貧困さは、自転車に群がるハイエナのような行動で象徴された。
 5.アジアンハイウエーは東西を結ぶすばらしい道路であった。日本の大抵の国道は貧弱で自転車で走る所ではないと思った。
 6.長期休暇を取って、風と大地と人々を感じながら自転車で移動する楽しさを充分に堪能できた。
        以上