北山・京の鄙の里・田舎暮らし

北山、京の北に拡がる山々、その山里での生活を楽しんでいます。

宇津城・嶽山城探訪記

2010-11-30 21:42:27 | 歴史・社寺・史跡など



28日日曜日、朝二条駅にU氏とH氏を迎えに車を走らせる。朝6時頃の気温は3℃。栗尾峠では雲海が出始めていた。冬近しだ。カメラに収めるにはまだまだの雲海とは言えない。二条駅でお二人を迎えて来た道を引き返し栗尾峠には8時頃さしかかったが雲海はそれらしき形を残していただけだった。

今日の目的地、宇津への途中、少し遠回りして中江のお山カフェに立ち寄り頼んでいたお弁当を受取り、集合場所の下宇津にあるコミュニティ会館へと向かった。K氏にも声を掛けていてここで合流だ。

今日は、宇津城とその支城たる嶽山城探訪だ。集まったのは10数名、予想より少ない。京北トレイル部長の塔下守氏(鳥居の右柱の前)・フロンティア協会の徳丸國廣氏(狛犬前)・城を研究されている高橋計成氏(徳丸氏の右隣・前に手を組んでいる長靴姿)から挨拶と説明を受ける。今日はこの3氏に感謝感謝の1日であった。

集合・挨拶



トップの写真の貞任峠まで車で移動、そこから尾根伝いに一番高いところ520mにある嶽山城へと向かうのが午前の予定だ。

ルート図


貞任峠まで乗合で車にて移動し、峠付近の空き地に駐車。来た道を少し引き返す。ここから尾根に取り付く。

尾根取り付き


登り初めはちょっとした急な登りであり、後は稜線を北へ向かう。植林された木々は樹齢数十年で立派に育ち、途中下宇津方面が一部見えるだけで展望は無し。更に2回の急登をこなし、役40分で嶽山城に到着した。

宇津城の支城であるが、今日の案内人高橋さんから色々と説明をいただく。ここは今は宇津と日吉の境界線であるが戦国時代も宇津郷の境界線であったが、この様な境界線に城を築くのは希であったとのこと。紛争の火種になるからとの説明に納得。その意味では宇津氏はそれなりに勢力を張っていたことが分かるという事。今の日吉側は当時は小林家が支配していたとのこと。

まず最初の曲輪に到着。西側に延びる支尾根を下ったところに堀切がある。頂上部分が主郭。せいぜい掘っ立て小屋程度の家があったのだろうとのこと。

嶽山城・主郭


切岸があり曲輪が3つ程ある構造だ。私の様な全くの素人がこの尾根を通ったら、この平地になった部分は何だったのだろうと疑問に想う位の小さな曲輪だ。この城へ詰めた武士達は日吉側を見張り、大事があれば宇津城へと知らせたのであろう。狼煙でしょうかね?と聞くと、狼煙もあったろうが、鐘か太鼓かホラ貝か分からないが、音も大切な手段だったとのこと。今は植林され大きく育っていて見通しがきかないが、当時は自然林であったろうし、頂上付近は見通しの良い様に木は切られていたろうとのこと。城は下からは見えない様に、城からは見通しよくなっていたはずとのこと。

人尾峠へは急な尾根を下っていくルートになっている。我々は来た道を引き返し、貞任峠へ。昔からの貞任塚へ我々4人と地元女性2人で向かう。地元女性はこの辺りには日役で来たことがあるが、この首塚は知らなかった、始めて来たと言っておられた。

コミュニティ会館でお山カフェの弁当を美味しく頂いた。午後の予定までタップリ時間があったので高橋さんにもいろいろ教えを乞う。城を調査に行く時はちゃんと巻き尺を持参して計測しないとだめだ、補足はこれだけ誤差がある、メジャーの片方にはこうして大きな釘のような止めを付けて、、。この前の大堰川との間には今の木場とも言える堀の様なものがあったとか、ダムによる工事前の写真があったが、こうした記録の大切さも指摘されていた。今回大津方面から参加されたH氏は山城探索にはまり込み始めておられるのだが、山城研究家の話を持ち出されると、高橋さんからは、誰々君は、、、とすぐ返事が返ってきて色々なエピソードも聞かせて貰えるたのも楽しい。H氏は世間は狭いと感想をもらしておられた。

朝は快晴に近い天候だったが午後は曇り始めてきた。ここ北山は時雨の季節に入っていることを感じさせられる。午後は宇津城へ向かう。粟生谷バス停から庄ノ谷に入り林道を奥へ進み、関電の送電線鉄塔への保守道を尾根に向かって上る。

尾根までは10分かかったろうか?階段が付けられているので歩きやすいが、急な登りだ。稜線に到着して一休みし後続を待つ。後は稜線を南へと進むと直ぐに城跡に到着。まず迎えてくれたのが尾根を切った堀切。上からの写真より堀から見上げた方が堀切の感じを掴みやすい。

宇津城・堀切から


曲輪の下で高橋さんから石垣などの説明を聞く。川石が運び上げられていることも角が丸くなっていてよく分かる。

高橋さんの説明



高橋さんが描かれた宇津城の縄張り図が次の写真。5つの曲輪からなるかなりの規模の山城である。以前来た時に反して今回は、その築城の苦労に思いを馳せると、これはなかなかの規模だとの思いに浸る。

宇津城・縄張図



虎口付近には石垣の跡が残っているが、数十年前にはもっと石垣が残っていたとのこと。



宇津城・主郭はフロンティア協会の人達に刈り取られていてその状態が分かり易くなっていた。虎口を上がったところに窪地がある。高橋さんも昔少し掘ってみたが石積みなども出てこなかった、これが井戸跡かどうかは何とも言えないと言っておられた。


下にある八幡神社への急な斜面には堀切らしきあともあり、色々な防御作が施されていることが分かる。坂をのぞき込んだり、下の曲輪がどう繋がっていたかとか各曲輪の役目、散乱した石から推測される石垣の状況などの説明を聞いて往時の姿を偲ぶ楽しみも味わえた。縄張図を見て質問も出来て説明もして貰えたし、宇津氏にまつわる話が出来たのは、これぞ専門家と同行出来る最高の幸せであった。

今回高橋さんから、宇津氏を滅ぼした明智光秀はその後この城に手を入れていること、また周山城についても、光秀亡き後秀吉が手を手を入れたという説明でしたが、これについては私は初めて聞きました。秀吉が周山城へ月見に来たということで、月見に来ることは視察そのものであるとの説明でした。

そのまま八幡さんへ真下に下ろうと思っていたが、皆さんと一緒に来た道を引き返した。K氏は内藤氏の話も聞けたと仰っていて、12日の栃の木フォーラムにも参加すると言っておられた。滋賀県を中心とした山城を歩き始められたH氏にはこの様な不便なところへ来ての城探索にご満足いただけた様だ。それにしても思うのはU氏が毎日散歩されている成果であろうか、急な坂道を楽々と登られていて、毎日の生活習慣がこういうところで現れるのかと感心した。私は急登で底がすり減った靴のお陰で滑り易かったせいもあるが、車に頼って生活の為、何と足が鈍ってきていることよ、と実感せざるを得なかった。いけん、いけんと反省したが、その道の専門家の説明を聞きながらこういう体験が出来た幸せをタップリ感じた1日であった。井戸の中にいてはあかん、もっと積極的に教えを乞う生活に帰らないとという反省の1日でもあった。


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4 コメント

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未知の世界を知る楽しみ。 (道草)
2010-12-01 07:08:10
宇津城へ登ったのは、今回が全く初めてでした。村に住んで居る頃は、下宇津在所の同級生は城の存在を知っていたのでしょうが、別に話題になることもなく、離れた上宇津の在所の私達は全く知らないままに半世紀が過ぎました。
最近になって、一度同窓会で登ろうとの話もあったのですが、果たせないまま(馬ケ背峠に変更しました)今回の探索に至りました。当日の探訪記はmfujinoさんの書いておられる通りで、私達は口を挟む余地は何もありません。
双方の山はどちらもかなりの急坂でしたが、何とか皆さんに着いて行けました。それにしても、貞任峠は何度か通過しましたのに、嶽山城址の存在はやはり無知のままでした。宇津城址にしても、下の八幡宮へは厄神祭でよく行きましたのに・・・。
私は城史はおろか歴史全般に門外漢で、単なる野次馬に過ぎません。それでも、「知らない事を知る」ことの楽しみを、十二分に堪能させて戴きました。
晴れていた空が急に曇って、丹波時雨の風情も満喫出来ました。玄米弁当も、しっかりとした粘り腰で美味しかったです。家内には、おむすびをお土産にしました。喜んで味わっていました。
その翌日、地元の旧友が面白い話しをしてくれました。宇津城主は山国荘へ米の強奪に出向いたとの話でした。現在も下宇津村に住んで居る人の先祖も、それに加担したそうです。おそらく武士だったのか、それとも、農兵として駆り出されたのかも知れません。
それで、盗賊の子孫と思われるのを嫌った先祖が、姓名を変更したのだそうです。旧友はO姓なのですが、現在のK氏(村のかなりの名士)の祖先も、本当はO姓だった。あんたの家と親族関係にあるかも分からん、と打ち明け話をしてもらったと教えてくれました。今は笑って聞いていられますが、まだまだ面白い史話が眠っていそうです。
当日は本当にお世話になり、有難うございました。又の機会を楽しみにしております。
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有意義な一日でした。 (徘徊堂)
2010-12-01 13:31:30
 mfujino様、レポートをしっかりとまとめていただいてありがとうございます。6時間ほどの探訪でしたが、本当に有意義な時間を過ごせたと喜んでおります。戦国時代といえば、先ずは信長・秀吉というところなのでしょうが、小生は信長以前の近畿の動向が最も面白いと感じており、その話もたっぷりと聞けましたし、宇津氏や内藤氏、波多野氏、荻野氏などの中で日吉から和知、上林川流域に広く分布する小林一族のことを教えて頂いたのは大きな収穫でした。だれも知ることのない山中の貞任塚も大変印象的でした。ヘタレのおとうちゃんを家に帰して、登ってこられたオバチャン、女性は強いですね。丹波の山々が持つ何か寂しくはあるが、それでいて懐かしい感じも十分に堪能できました。鉾杉塾の京北クイズの本も面白いですね。光厳上皇の歩かれた道をたどってみたくなりました。
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したたかな宇津氏 (mfujino)
2010-12-01 23:48:35
道草さま、 今回はかなりの坂道もありましたがそれをものともせず健脚ぶりを発揮されていましたね。
私は高校を卒業するまで京北にいましたが周山城の話は少しだけ聞いた様ですが、登る人はほんの一部の人だけだったことでしょう。ましてや宇津城の話は知りませんでしたし、嶽山城というのは「京北のむかしがたり」で初めて知りました。
宇津氏の山国荘横領や違乱は割と行われていたようですね。今でこそ笑って済ませますが、姓を変えられた当時の方は真面目に心配されたのでしょうか。私も山国出身ですが、宇津の人をそういう風に悪く言う話は聞いたことありませんが。ただ縄野坂の戦いもあり、光秀の評判は良くないとは聞いたことあります。小野郷あたりでは関所を作って禁裏御料からの朝廷への貢ぎ物に税をかけてピンハネしたり、また高橋さんも指摘されていました様に、宇津では筏からも収入を得ていたはずです。宇津城の支城は軍事的意義も当然ありましたが、それぞれが営業所的存在でもあったと高橋さんは指摘されています。遠くは京見峠近くの堂ノ庭城を拠点に京の町中まで出没するゲリラ的活動もした様ですし。
宇津は河川交通の要ですし、中江城は若狭街道、小野郷は京への要所、要所要所を押さえて営業活動をしていたのでしょう。山国荘へは鳥居家と姻戚関係を結んだり、金貸しをして払えないと土地を没収して勢力を広げたり、あの手この手で頑張っていたようですが、朝廷に泣きつかれた信長により、すなわち光秀に滅ぼされた訳です。
そういう面では相当したたかだったのですが、強大になりつつある信長の勢力を読み間違えたのでしょうか。美山に勢力を張っていた川勝氏とは正反対です。なお、高橋さんは美山町誌の城の部分を担当されました。
したたかな宇津氏
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実り多き山城探訪 (mfujino)
2010-12-01 23:49:42
徘徊堂さま、内藤氏などの話が出来て良かったですね。今回の城郭探訪は実り多きものだった様でお誘いした甲斐がありました。勿論私も大満足でした。
徘徊堂さまが仰る様に私も最近波多野氏など丹波の人がどういう行動を取ったのかを考えるとこれはなかなか楽しいものがありますね。家村耕さんという作家が光秀やガラシャから見た世界の小説を書いておられます。
女性は強いですね。彼女達も鉾杉塾で頑張っておられます。
光厳天皇の歩かれたコースを辿るのも乙なもの。天竜寺から槙尾、西明寺を通り松尾峠~田尻廃村~細野の薬師寺~茶呑峠~常照皇寺というルートになると思います。細野には松尾さんがおられます。光厳天皇が中江城に立ち寄ったという記録があるという記事を読んだことがあります。光厳天皇について書かれた本は少ないのですが最近古本で高いのを見つけたのと上皇の足跡を辿る本もみつけました(^_^)
貞任の首は寂しく眠ってたでしょう。でも最近は少し賑やかになったわいと思っているかもしれません(^_・)
宇津城を光秀が、周山城を秀吉がそれぞれ改修したことを本文に書くのを忘れていまして後で付け加えておきました。

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