散歩の閑人:メタ坊っちゃまのYOASOBI?

若気の至りが過ぎてメタボでも、世遊びは辞められない。

千葉市川・真間の手児奈

2011年11月03日 | ☆千葉県

千葉県は、安房、上総、下総の旧国3国を合わせてできている。
下総の国府のあったところが、市川市だ。
今ある真言宗国分寺が、天平13(741)年の聖武天皇が発した「国分寺建立の詔」により建てられた下総国分寺(金光明四天王護国之寺)の跡に建てられたものであることは、昭和40~41年の発掘調査で法隆寺式伽藍配置に金堂、講堂、塔の基壇が確認され明らかになった。
平成の発掘調査では、寺の範囲が東西300m、南北350mほどになることもわかった。
(国分寺・南大門)

(国分寺・仁王像)

(国分寺・七重塔の基壇)


国府のあった市川周辺は、往古、海侵が深く、低地のほとんどは芦の生い茂る沼地や湿地で、井戸水も塩水を含んでいたようだ。
江戸川と利根川の間にあり、川の氾濫や高潮にも悩まされていた。
一方では、船運が発達し、関東・東北の産物の集積地として重要拠点だった。
台地からは、古墳や貝塚などが出土し、古代に豪族が存在していたことを物語っている。
日蓮宗真間山弘法寺は、JR市川駅から北へ一直線に参道が伸びている先の小高い山の上にある。
万葉集に「勝鹿(葛飾・かつしか)の真間(まま)の井見れば立ち平(なら)し水汲ましけむ手児奈(てこな)し思ほゆ」など、“真間の手児奈”をキーワードとする歌が5首あるという。
市川ではなく真間という地名が知られていたことになり、古くからある“まま“という呼び名に“真間”という嘉字をあてたと考えられるが、地名由来などでは「まま=崖の意」とされている。
調べてみると、どうもアイヌ語地名を採用している。
高校のとき、日本人=コロボックル説を唱えている先生がいて、朝鮮から流れ込んだためにアイヌが北方へ押し込められるまで、ほぼ日本列島全域、特に北陸、中部、東海までアイヌ民族が住んでおり、多くの地名が残っていると力説していた。
その先生の祖母は、ロシア革命から逃れた白ロシア人と結婚したそうで、「僕の体には4分の1ロシア人の血が流れている」と私にだけ秘密を打ち明けてくれた。
今思うと、日本海側の日本人は、ロシア人はもとより、ダッタン人と頻繁に行き来し、交流していたことを暗示していたのかもしれない。
一方、縄文・弥生時代に日本へポリネシアから海伝いに入り込んで地名を付けたという説を唱えている人がいて、その説では「まま=水が滲み出す」としている。

弘法寺は、真間の手児奈の話を伝え聞いた行基菩薩が建立した一宇の求法寺を、弘法大師が七堂伽藍に整えて改名させたものとされ、鎌倉時代に法論に敗れて改宗してからは、日蓮宗の法華経道場となって今に至っている。
(弘法寺・山門)

(弘法寺・仁王像)

(弘法寺・祖師堂)

(弘法寺・伏姫桜)

樹齢400年余という枝垂れ桜。
寺の案内では、いつだれが名付けたかわからないという。
伏姫は南総里見八犬伝に出てくる架空の人物。
八犬伝は江戸時代の大ベストセラーとなった読み物だけに、信心に名を借りた旅の名所となって脚光を浴びたに違いない。

マイカーで寺域を登ってしまったから気づかなかったが、参道石段の下から27段目に「涙石(なみだいし)」というものがあるそうだ。
江戸時代、作事奉行の鈴木修理長頼が日光東照宮の造営のために使う伊豆石を船で運ぶ途中、このあたりにさしかかった時、どうしたことか船が動かなくなってしまい、何かの縁だろうと、積み荷の石を弘法寺の石段に使ってしまった。
このことで幕府から責任を追求された長頼は石段で切腹し、無念の血と涙が染み込んだ石から今でも涙が流れ濡れ続けているという。


さて、この弘法寺の山下に手児奈霊堂がある。
万葉集に読まれた手児奈を、弘法寺第7世日与上人が、良縁成就・孝子受胎・無事安産・健児育成の守護女神として祀るよう、夢枕に霊神からお告げがあったとして、文亀元(1501)年9月9日に霊堂を建立した。

よく見ると履き物が並んでいる。
ちょっといただけでも、次から次に信者がやってくる。
手児奈の伝説は、市川市のWEBに詳しい。
市川市>市川のむかし話「真間の手児奈」
上田秋成の雨月物語・浅茅が宿の題材にもなっているお話で、一説では、竹取物語のかぐや姫が求婚相手に競わせる話や、ついにミカドに輿入れしなくてはならなくなり、天上の月に昇ってしまうという結末も、手児奈の話がもとになっているともいう。
美人薄命というのもここからきていると知ると、つくづく美人はつらいなぁとも思うのだが、女性の寿命が延びているということは、美人が少なくなったということなのかもしれない。

(手児奈霊堂)

(絵馬)


手児奈が噂のきっかけとなる井戸は、霊堂の道を隔てた亀井院という寺の境内にある。
真間一帯で清水が汲めるのは、この井戸だけだったそうで、霊堂の海寄りには、手児奈が入水した入江の名残として池がつくられている。
東西に堀割のようになっている真間川が手児奈の時代の海岸線と考えられており、江戸時代ではJR市川駅あたりが海岸線だったようだ。


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 「せい吾」豚トロキムチ炒め定食 | トップ | シコシコ »

コメントを投稿

☆千葉県」カテゴリの最新記事