散歩の閑人:メタ坊っちゃまのYOASOBI?

若気の至りが過ぎてメタボでも、世遊びは辞められない。

千葉館山・養老寺と洲崎神社

2010年06月07日 | ☆千葉県

滝沢馬琴の南総里見八犬伝の中で、犬の八房とともに富山に籠もり読経の日々を送る伏姫に懐妊の兆候が現れたとき、仙翁(姿を変えた役行者)から、子を宿すに至った理由と、、大玉に「仁義礼智信忠孝悌」の文字が浮かぶ水晶の数珠が授けられる。
その仙翁=役行者を開祖とする寺が洲崎にある養老寺だ。
よっぽど気に留めなければ、行きすぎてしまう小さな寺で、入口には「子育保育園」の文字もみえる。

境内に入り山門をくぐると正面に、12年に一度しか開扉しない洲崎観音をまつる本堂がある。

その手前の大きなイチョウの木の裏手の山の中腹に、役行者をまつる洞穴に建つ祠がある。

なぜか、洞穴内は、貝殻と砂が敷かれ、無数の供養塔が並んでいる。
祠をのぞくと石造りの脇侍を従えた役行者像が見えた(見出し写真)。

洞穴から海の方を望む先は、大島だろうか?
房総半島は、大地震のたびに隆起を繰り返しており、寺の前の道路から向こうは、安政大地震と大正の関東大震災で隆起したと考えられ、寺の開創当時は、海が山門あたりまであったのではないかと想像される。

ところで、房州館山城主・里見忠義が、慶長19年に鳥取県倉吉に転封され、29歳の若さで死んだ際、近臣8人が殉死を遂げた。
墓所となった大岳院が、忠義の法名から「賢」の一字を、殉死した8人の法名にも付けたことから「八賢士」と呼ぶようになった。
これをモデルに、馬琴が八犬伝を表したのではないかといわれている。
下の写真は、倉吉市大岳院にある供養塔。
この近く、東伯郡三朝町に、役行者を開祖とする三仏寺があり、行者が法力により平地から建物を投げ入れたと伝承される投入堂があるのも因縁めいている。


さて、以前、源頼朝が石橋山の合戦で敗れて、真鶴から舟で房総半島まで逃れ、上陸した地点が安房国平北郡猟島(平群郡竜島村=安房郡鋸南町勝山)というのが有力な説だと書いた。
一説には、上陸地点は「洲崎」という説もあり、道路脇に上陸地点の石碑も建っている。
洲崎神社は、安房国一宮・安房神社の祭神・天太玉命の妃神・天比理乃命 (あめのひりのめのみこと)を祀る。
上陸した頼朝が、長狭氏の不穏な動きを察して動かず、上総介及び千葉介へ参上を要請する使者を送った際に、使者が無事に帰れば洲崎神社に神田を寄進すると願をかけたことから、ここを上陸地と推定するにいたったのかもしれない。

見上げるような148段の階段を登ると本殿がある。

本殿の左には稲荷社があり、その脇に道筋が見えるのは、明治の廃仏毀釈以前の神仏習合時代に、養老寺が別当として、洲崎神社を管理していたことを示す。
養老年間、地底の鐘を守っていた大蛇が地変を起こしたために、境内の鐘ヶ池が埋まったので、役行者の祈祷により大蛇を退治し、海上の安全のために浜鳥居前と横須賀に石を置いたという伝承がある。

本殿の右奥には、金比羅社がある。
その前に小さな池があり、無数の穴の中から、沢ガニが出入りしているのは、この社叢林が深くて生物の多様性があることを感じさせるとともに、神秘な気分にもさせてくれる。
ひょっとして、昔から、清水を汲み取れる場所がこの境内地に限られたのではないのだろうか?


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 夜の「さかい」 | トップ | 千葉館山・ファミリーオ館山 »

コメントを投稿

☆千葉県」カテゴリの最新記事