「港都を支えた200ヶ村の名士たち」という副題で、12月27日まで、横浜開港資料館において企画展が開かれている。
地図や地形図などに興味があるから、時間をとって見に行ってきた。
まず、明治13~32年までに陸軍参謀本部が、本格的な測量による日本地図の作製に先駆け、関東を対象に完成させた「第一軍管地方二万分一迅速測図原図」のうち、横浜に関わる地図を資料に取り上げ、中でも、その地図の空白に描かれた視図(スケッチ)を、現在の様子と対比させて、当時の様子を紹介する。
都筑郡川井村鎌倉郡二橋村測図のスケッチには、それぞれ下川井村の分岐路(中原街道と八王子街道が交差する都岡辻)と、中原街道から柏尾道に別れる三差路の石橋、二ツ橋が描かれている。
都岡辻のスケッチには、初代・都筑郡役所(エントツがある)が見える。
この郡役所は、郡の南西に位置していたため、創設から8か月後の明治11年7月、郡の中央に位置する川和村へと移転する。
さて、江戸から明治になった当時、現在の横浜市域には約200村あったが、明治6年には大区・小区制へ移行、同時に地租改正や徴兵制、学制を実施。
身分制を改めたことで西南戦争が勃発。
性急な制度改革への不満を背景に、自由民権運動が活発化、明治11年、府県会規則、地方税規則、郡区町村編制法の三新法が制定されると、村々のリーダーも、産業殖産、インフラ整備へと活発に動き始める。
明治21年、新たに市制・町村制が公布され、200村は約40村に統廃合される。
その新たな担い手が「地方名望家」として台頭する時代となっていく。
ということで、測図を背景に展示が組み立てられている。
確認したい部分の図はコピーが可能だ。上図は、今の関内、山手辺り。
いつもの癖で、いったん一巡してから、通路の休憩スペースでひと休み。
今一度、感心のある展示をおさらいしに行く。
そんなとき、道路を隔てて、この寒空の下、半袖、素足のアロハ姿で窓を一心に拭くお姉さんがいた。
こういう人がいるお店って、いいかもしれない。今度、行ってみようかな?
カレーライスの値段。
私も展示を見に行ってこよ。
ニューグランドとどっちが高いかな?
それにしても、街路樹が椰子の木なのは、
ここと、千葉の館山ぐらいだと思う。
これも、横浜市の粋な計らいですかしらん。
街路樹の管理費もばかにならないから、
好きな木を植えたい人から、使用料を徴収するっていうのもいいかも。
ここしばらくは忙しくなりそうなので、
ブログの更新は、ボチボチになりそうです。