日本疾病史に羅列されている「疾病」は、急性伝染病に関するものです。
「疫病」からはじめて、個別に、
痘瘡、水痘、麻疹、風疹、虎列刺(コレラ)、流行性感冒、
腸窒扶斯(チフス)、赤痢をあげています。
そして、名義、疫史、原因、証候、療法、載籍の順に、
歴史的に先人たちがどんな記録をし、
どう対応したのかを明らかにしています。
流行性感冒について、名義としてこのように書かれています。
流行性感冒は、明治23年の春、我が邦にインフルエンツァの大流行ありしとき、
新に用いられたる名称にして、該病の状態に基づきて名づけたるなり。
この病、昔時より我が邦に存せしか否かは詳かならず。
平安時代の記録に、咳逆、咳病、咳逆疫等の流行を記載せるものあり。
下りて鎌倉時代及び室町時代にも、咳病の流行せることは数々挙げられたり。
その咳逆又は咳病というものは、咳嗽(シワブキ)を発するの病の義として、
「源氏物語」夕顔の巻に、『この暁よりシハブキヤミにや侍らん』といい、
また「増鏡」に、『元徳元年、ことしはいかなるにかシハブキヤミはやりて
人多くうせ給ふ中に、云云』というもの、すなわちこれなり。(後略)
次に記述する疫史には、咳病流行が平安朝に散見される記録を年表にしています。
咳病が大流行病的に発現し、貞観14(872)年の疫は渤海から伝わり、
天福元(1233)年の疫は夷人の入京が原因であるとして、
流行性感冒が特に外国から伝わってくることを記しているので、
咳病の一部に必ず流行性感冒があるとはいえないが、
全く根拠がないとはすべきではない、とあります。
江戸時代になると、風邪、風疫、風疾、傷風、疫邪として、
流行性感冒の病症と類似の記録があり、
西洋の流行性感冒の流行記録と照らし合わせると、
他の伝染病に比べて、伝播も早く、流行区域も広汎に及び、
大流行的に各国一斉に発起するとしています。
特に、嘉永年間、外国との交通隆盛になってからは、
西洋諸国の流行性感冒の流行に伴い、
日本にも風邪が流行すると断言しています。
長崎・出島のみ海外に門戸を開いていた江戸時代、
医家は、流行性感冒は必ず西から東に伝播すると心得ていました。
軽い場合は3~5日、重い場合は10余日で、
ほとんど治癒すると考えられたようです。
ただし、明治45年当時の治療法としては、
風邪の療法を用い、発汗して病毒を排除することを主とし、
咳嗽(シワブキ)、胃腸障碍等に対しては、
対症療法を行うしかありませんでした。
まさに、特効薬が確立されていない新コロナウィルスの場合、
明治45年の療法で対応するしかないということがわかります。
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