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ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

おくりびと

2008-09-30 21:25:15 | 映画(あ)
評価点:82点/2008年/日本

監督:滝田洋二郎

パンフレットのタイトルの上にあるマーク、あれはどう考えても「ともだち」でしょ。

小林大悟(本木雅弘)は、ようやく手に入れた一流のチェロを、楽団の解散によって、手放すことになった。
それまでずっと音楽一筋だった大悟は、実家の山形に帰郷することになった。
新しく仕事を始めようとした時、彼の目にとまったのは、「高給、初心者歓迎」という文字だった。
どんな職種かもわからないまま、面接を受けに行くと、説明されずに即雇用が決まる。
その会社は「納棺」という死者を棺に納めるという仕事だった。
妻(広末涼子)にもその仕事を語ることができないまま、彼は納棺師になっていく。

この秋話題の映画は、モントリオール世界映画祭でグランプリを受賞した「おくりびと」だろう。
何度か映画館で予告編を見ていたときは、あまり興味もわかなかったのだが、周りに聞いてみると結構好評なので、観てみようと思った。
監督は、滝田洋二郎。
僕はその名前を聞いても全然ピンとこないけれども、「秘密」「壬生義士伝」の監督だそうだ。
広末涼子が主演した「秘密」は観に行ったことがあるので、おそらくこの監督とは二度目の邂逅だ。
脚本家は、テレビ作家の小山薫堂。
パンフレットによると、さきに企画が持ち上がって、それにあう脚本を書いたそうだ。
なんだか、職人ですね。

ということで、「ポニョ」「20世紀少年」と続いて邦画を観ることになった。
三本続けて邦画を観たのは、初めてかもしれない。
あまり意図して観たわけではなく、たまたま、なのだが。

これから見に行く人は、観に行っても損はないレベルの映画だ。
スマッシュヒットになるかどうかは、やはり観る人の主観性が大きく左右されるだろう。

▼以下はネタバレあり▼

かなりの完成度だ。
泣かずには見終わることは難しそうだ。
アラを探せばいくらでも、だが、ここまでの完成度と映像による迫力(派手、とは違う)は邦画でも洋画でもそうそうない。

主人公の生い立ちの中に、父親が蒸発した、という点からこの物語は自然、父親殺しの物語という記号性を帯びてしまう。
お約束通り、その結末はやはり、父親を納棺する、という点に収束する。
その意味では、多くの人の期待通りの展開になる。

父親を納棺する = 納棺師として生きていく ということである。
あるいは、その際に子どもが生まれようとしていることから、
父親を納棺する = 自分が父親となり子どもを育てる側になる ということでもある。
このあたりの合致は、なお、お約束通り、である。
だが、この王道は、この映画を成立させる上で不可欠な要素ではなかった。
この映画を支えているのは、もちろん、納棺師という職業そのものにある。

遺体を棺に納める職業が存在しているということを知っている人そのものが少ないだろう。
僕も何度か葬儀に立ち会ったことがあるが、布団で遺体をみたことはなく、すでに棺に納められた状態でしか遺体と対面したことはない。
宗派にもよるのだろうが、納棺の際に見送るというよりは、荼毘に付すときに見送る、という場合が多い。
それ故、この映画を観て、こういう職業が存在していること自体に驚いた。

それを意識してだろう。
納棺の儀式を行う際には、明らかに大悟の視点ではなくなっている。
納棺の儀式は、ことごとく、遺族からの目線からの描写になっている。
遺族の涙につられて、僕たちは納棺の儀式を体験するのだ。
だからこそ、故人との別れの場面が、観客それぞれの過去の体験と重なって、涙を誘うようになっているのだ。
納棺師についての説明が事細かくされているようで、実は技術的な説明ではなく、別れの儀式としての「場面」的な説明でしかない。
あまりに細かく描いても、観客の心に迫るというわけではないからだ。
このあたりのさじ加減は、非常にうまい。
そして、緊張と緩和のメリハリがすばらしい。
笑いを誘った瞬間、次の場面では、もう涙を誘う緊張感にあふれている。
この映像による迫力は、シャマランに通じるところがあるように思った。

この映画のすばらしいところは、死を普遍的に、普通に描いたところだ。
僕たちは死というものを普段、肯定的には考えていない。
死ぬと言うこと自体が、遠い世界の、真の意味で「非日常」になってしまった。
だから、死ぬ、あるいは葬式の場面などは、必然的に悲しみを連想しがちだ。
ワイドショーで報道される葬儀のシーンは、子どもが不慮の事故で死んだり、あるいは殺されたりした「悲しみ」という与えられた役割の中でしか見ない。
それが良いか悪いかは別の問題だ。
だが、本当の、あるいは伝統的な葬儀の場は、それほど強い悲しみを生み出す場ではなかったはずだ。
死は誰にでも訪れたし、生まれた数だけ死はあったのだ。
今のように「死ににくい」時代でなかった頃は、飢餓もあっただろうし、幼くして死ぬことは当たり前だった。
死は、本当にすぐそこにあったのだ。

「おくりびと」に登場する「死」は、悲しみだけをまとったものではない。
長寿を全うした、ごく普通の死が描かれている。
普通でも、家族にとってはそれは特別であり、生きた証そのものなのだ。
その普遍的な、当たり前の死の有様を正面から描いたことが、この映画のセンスの良さだ。
だから、僕たちは観客でありながら、そして、全然知らないはずの老人の納棺の儀を見て、泣けるのだ。
そこには、僕たちが体験してきた数々の死別と重なる「普遍性」があるからだ。

そんなことを考えながら、こういった職業までも描けるようなったのか、としみじみ思ったりもした。
納棺師についてあまり知識はないが、おそらく映画の中でもあったように差別される職業だったはずだ。
それは、メディアとしても、表現者としても、タブーだった、そういう種類の職業だった。
だが、このように禁忌を破ることが可能になったのは、やはり時代の流れなのだろう。

話をストーリーに戻そう。
僕は最後の父親との邂逅のシーンが蛇足だったと感じてしまった。

先ほども書いたように、大悟としては、「納棺師」になるためには、父親の納棺は不可欠だった。
だが、上映時間と、その前の同級生の母の死が、丁寧に描かれることとを考えると、どうしてももっさり感が出てしまっている。
銭湯の主人である山下ツヤ子の死は、妻・美香への理解を得るために必要だった。
秋から春という季節は、大悟の納棺師への成長にはうってつけの設定だし、美香が実家から帰ってくるきっかけとなる妊娠が発覚する期間とも整合性がとれる。
その意味ではツヤ子があのタイミングで死ぬのは必然的だ。

さらにこの脚本は、計算されている。
父親の死が知らされて、向かった大悟と美香は、父親の納棺を申し出る。
そのときの美香の台詞は、すごく重要だった。
葬儀屋の乱暴な扱いに、振り払った大悟に対して、「何をするんだ!」と葬儀屋が戸惑う。
それに対して美香は、
「夫は納棺師なんです」と説明する。

この台詞は絶対に入れたかった台詞だろう。
この一言は、「大悟に対して誇りを持って納棺師であることを肯定する」という重要な意味があった。
ここで初めて大悟は妻から認められた納棺師となったのだ。
そしてなにより、子どもが生まれると言うことで、子どもであった大悟が独り立ちして、納棺師になり、父親になるという象徴的な場面でもあった。
その意味では、銭湯のツヤ子と父親の死は、物語上不可欠なシークエンスであったことは疑いない。

だが、そのために二度立て続けにクライマックスが来ることで、冗長気味になってしまった。
このあたりは、詰め込みたかった要素が多すぎて、処理しきれなかったのか、と同情する。

マイナス点をもう二つ。
一つは、この映画の企画が、ロケ地と納棺師という二つのワードが決まってから立ち上がったということ。
結果的に功を奏したのかもしれないが、商業的な魂胆が丸見えで、ちょっとげんなりしてしまった。
それなのに、これだけの脚本を書いたのはすごいのだが、なんか公共事業ありきで道路を造る、どっかの話のようだ。

もう一つ。
この映画に出てくる役者は誰もがすばらしいが、一人だけ浮いている人がいた。
それは広末涼子だ。
エンドロールにもあったように、彼女には何と専属のメイクさんがついたようだ。
そんなことに金をかけるなら、もう少し演技に磨きをかけてほしい。
10代のアイドル時代から抜けない「私かわいいでしょ」的な演技が鼻につく。
和製サンドラ・ブロックである。
ちなみに、彼女は阪神の藤川球児と同じ出身校。いや、どうでもいいけど。

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