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secret boots

ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

ダンケルク

2017-09-12 19:56:43 | 映画(た)
評価点:76点/2017年/イギリス・アメリカ・フランス・オランダ/106分

監督・脚本:クリストファー・ノーラン

IMAXに隠された真実。

太平洋戦争のフランス。
ダンケルクと呼ばれる港町に、フランス軍を包囲したドイツ軍は、投降を呼びかけるビラを配っていた。
友軍であるイギリスは、目と鼻の先の母国に帰還させるための方策を練っていた。
だが、ドイツ軍の攻勢はすさまじく、英仏両軍とも疲弊しきっていた。
命からがらダンケルクに逃げ込んだトミー(フィン・ホワイトヘッド)は、なんとかダンケルクからイギリスに渡る方法を探すが。

いわずとしれた、クリストファー・ノーランの最新作。
何度もトレーラーが流れているので、知らない人のほうが少ないかもしれない。
ノーランが撮った作品で、実話は初めて。
また、ピーター・ジャクソンが打ち立てたギャラ最高額と同額の、興行収入20%を報酬として得るらしい。
アカデミー賞最有力と言われた作品を、私ははじめてIMAXで観ることにした。

公開初日、座席はほぼ満席、レイトショー。
なんと、すでにパンフレットは売り切れ。
嫌でも高まる期待を胸に、映画館に足を運んだ。
実に3ヶ月ぶり(おいおい、このブログは何のブログだった?)

▼以下はネタバレあり▼

ダンケルクの戦いがどのようなものなのか、私は知らない。
ただ、状況は世界史で習った程度には理解できる。
史実かどうかよりも、その史実をどのように切り取るかが、重要だろう。
私はその観点から映画を観た。(というか、そういう観点からしか観られなかった)

【交錯する時間】
冒頭の段階で、「防波堤 1週間」「海 1日」「飛行機 1時間」というテロップが出される。
中盤まで観れば分かることだが、これは出来事の時間的長さを表している。
防波堤からスタートするトミーは、脱出するまで1週間をかかった。
イギリスからダンケルクへ向かったミスター・ドーソン(マーク・ライランス)らは、イギリスへ帰国するまでに丸一日を要した。
また、戦闘機で次々とドイツ兵を堕としたファリア(トム・ハーディー)は、1時間でダンケルクの外れでドイツ兵に拘束される。

それぞれ全く別のところからスタートし、少しずつすれ違って、お互いが関与しながら物語が進行していく。
これまでストーリーテーラーとして様々な映画そのシナリオの複雑さ(あるいは可能性)を提示してきたノーランとしては、わかりやすいほうだったと思う。

なぜこんなふうに時間を交錯させたのだろう。
それは、紛れもなくこの映画に込められた「テーマ」のためだろう。
この構成でなければこの映画のテーマは浮き彫りにできない。
そういう自負があったに違いない。

【寡黙な登場人物】
ストーリーが多少ややこしいのは、なぜか。
それは、登場人物たちが寡黙だからだ。
状況や設定をセリフによって見せるのは一般的だが、この映画ではかなりセリフが少ない。
だから、状況をつかむのに少し苦労する。
だが、もちろんのこと、これは計算された寡黙さだ。
寡黙であるとどういうことになるのか。
それは、一つのセリフが非常に重い意味(記号性)を持つということだ。

象徴的なのは、防波堤(桟橋)のところで話すボルトン海軍中佐らのシークエンスだ。
40万人いると言われるダンケルクに残された兵士たちは、イギリスの首相の考えで、その1割程度しか救出できないことが明かされる。
国に裏切られた彼らは、その現実を突きつけられるのだ。

そしてラスト。
「撤退は勝利ではない」から始まる首相の演説だ。
33万人あまりを救出させた、世紀の軍事作戦の成功を伝える演説は、猛々しく帰還した兵たちに響く。
声を掛ける民衆に「俺は生き延びただけだ」と自嘲気味につぶやくと、「それで十分だ」と民衆たちは応える。
ここでこの映画のテーマが暗示される。
明らかにここは意図的な終幕であり、意図的な饒舌さだ。
いや、ここまで寡黙であったがゆえに、この言語化された明確なメッセージが響く作りになっている。

時間が交錯されているのも、登場人物が様々なのも、ここで氷解するだろう。
この映画は、国全体が一団となることで、ドイツという悪鬼に勝ったという、物語になっている。

国への不信、軍への不信、死へのすさまじい恐怖。
それらを打ち勝ったのは、民衆も、軍人も、政治家も、すべての英知や死をつなぎ合わせることで、勝ち取ったということなのだ。

フランス軍も助け出すべきだ、とボルトン海軍中佐がダンケルクに残る。
それは、絶対悪に対する団結こそが勝利となるということを示すためだ。

【物語が勝利へと好転するきっかけ】
では、どこからこの映画は絶望から希望へと変わっていくのだろうか。
それまではどこまでも絶望で、トミーが乗り込んだ船、乗り込んだ船がどんどん撃墜されていく。
全く光は見えない。
水にせめられ、上からは爆弾が落ち、どこまでも絶望に満ちている。
(余談だが、次の日息子と海辺に出かけたが、船に乗ろうとは全く思えなかった。
大きいのも小さいのも。)

だが、物語後半、物語は急転していく。
それはどこからなのか。

いくつかあるが、一つはオランダ船に乗り込んだトミーらが、ハイランダーたちとともに銃撃に遭うシークエンスだ。
そのとき、ギブソンがギブソンでないことを知り、フランス人だと言うことが明らかになる。
友軍なのか、他軍なのか、そしてハイランダーでないトミーまでも出て行くように罵られる。
この議論で、フランス人は友軍であり、みなで一緒に同じ船にとどまるべきだという主張が交わされる。
これは寡黙の中にあって、非常に印象的な饒舌な議論だった。
この議論によって船が傾き、沖に流される。
事態は好転するのだ。
(ギブソンは死ぬことになるが)

もう一つ。
重油から助けられたトミーの船では、少年のジョージ(バリー・コーガン)が死ぬ。
そのとき、ジョージを突き飛ばしたイギリス・パイロット(キリアン・マーフィー)に対して、「(彼は)大丈夫だ」とウソをつく。
なぜだろう。
それは息子のピーターが、ダンケルクに行こうとした船を必死で止めた、その意味を理解したからだ。
だから、「死んだ」と批判せずに、大丈夫だと安心させたのだ。
なぜ理解したのか。
ピーターも、ドーソンも、兵士と共に闘う「国民」になったからだ。

このシークエンスのあたりから、事態は好転していく。
無駄だと思われた車両による桟橋も機能し、結果33万人以上の兵士を救い出すことに成功する。
前述したが、注目すべきは、その脱出劇が「勝利」だと国民が理解している点だ。
フランスを奪われたのだから、明らかに「敗戦」だが、ここでは脱出に成功したことを国民全体で祝う。
それは、兵士だけが闘ったのではない、国民全体で戦争に勝利したという自負があるからに他ならない。

物語終盤、国のために生きよう、死のうという前向きな兵士しか登場しなくなる。
そのドラスティックな変化が、印象的なことばによって示されるのだ。

この映画のテーマは、まさにそこにある。
国全体が、当事者として戦争に参加し、それぞれがそれぞれの立場で闘うことで、勝ち取った戦争への勝利を祝う。
ノーランの問題意識がここに見え隠れするだろう。
兵士だけが闘うのではない、誰かがその事態に無関心を装うのではない。
一つの意志を持って、闘うべきだということだろう。


【敵がいない映画】

この映画に、セリフ以外にもう一つないものがある。
それが、ドイツ人だ。
敵対する国であるドイツを、これほど描かない映画も珍しい。
戦闘機に乗っている敵はいても、名前と顔が登場する人物としては1人も出てこない。
なんなら、ヒトラーのヒの字も出てこない。

ホロコーストは、しばしば絶対悪として取り上げられるほど、欧米諸国はナチスの行いを断罪している。
にもかかわらず、相手への憎しみを駆り立てるような描写はない。
恐怖と憎悪とはちがうものだ。

これも意図されてのものだと考えるべきだ。
この映画に敵はいない。
敵を憎むことによって、国が団結(勝利)したからではないからだ。
テロへの報復、憎しみの連鎖によって解決しない、現在のイスラムとの闘いを透かしてみることができるだろう。
他の映画、他の実話を元にした戦争映画とは違うのはそうした点にも表れている。

だが、結局駆り立てているのは、ナショナリズムだ。
私はこの映画は大変素晴らしい作品だと思うが、日本人の私が、このようなスタンスで映画を撮られても、そこに共感はできない。
○川クリスタルさんは、号泣したらしいが、私にはその強度を持ってこの映画を称賛することはできない。

この映画はIMAXで撮られている。
だが、その実体は、I国心MAXだったのだ。
(これが言いたかっただけ)


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