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ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

エイリアン(V)

2008-03-31 17:04:27 | 映画(あ)
評価点:87点/1979年/アメリカ

監督:リドリー・スコット

冒頭からすでに怖い。

宇宙貨物船ノストモロ号は、地球に向かう途中に謎の発信音を受信する。
船員はスリープ状態から目覚め、会社の規定に従って、知的生命体の有無を確かめるために惑星に降り立つ。
探索チームの一人が卵から出てきた謎の生物にとりつかれる。
リプリー(シガニー・ウィーバー)が主張する規定を無視して、船内に運び込んだところ、強い賛成を帯びた血液をもつ、エイリアンだった。

「エイリアン」といえば、僕が映画を見始めたとき、はじめて怖いと思って虜になった作品だ。
以降何度も観ている作品で、映画好きの僕を育てた作品とも言える。

ちなみにリドリー・スコットはこの映画で、絶賛されるとともに、へそ曲がりな映画人たちに、「あの映画は人物描写がなっていない!」と批判されたらしい。
その批判に対して、「ホラー映画に人物描写もなにもないでしょ」と反論している。
問題は映画自体の完成度であり、その映画に必要なだけの人物描写さえあればよいのだ、ということを証明した映画でもあるのかもしれない。
 
▼以下はネタバレあり▼

改めて、真剣にみると、この映画の偉大さに気づく。
「エイリアン2」の印象が強いために、この映画が「SF」や「アクション」映画だと勘違いされているのではないかという危惧がある。
確かに「エイリアン2」は、「アクション」として成功した映画だが、この「エイリアン」は典型的なホラー作品である。
ちょうど「ザ・フライ」と「ザ・フライ2」との隔たりくらい、ジャンルが「2」で変更されている。

この「エイリアン」は、これ以降の作品に大きな影響を与えたという意味でも、価値ある存在だし、それくらい当時としても画期的な作品だったわけだ。
今みても、映像的に見劣りする点は見受けられない。
マザーコンピューターのデザインが唯一古くさい印象を与えるが、あのノストモロ号の造形は、今でも十分リアリティある宇宙船だといえる。
当然、そういった映像技術やデザイン性がこの映画を価値ある存在にしたのではない。
ホラーとしてのセオリーをしっかりと守り、その上で計算された展開や映像的文体が、人々を引きつけたからこそ、今でも人気ある作品なのだ。

当時映画界ではほとんど無名だったシガニー・ウィーバーを主演に起用したあたりも、この映画の完成度に相当の自信があったからだろう。

この映画を支えている要素は、「不可視」だ。
見えない敵を、得体の知れない敵を、相手に逃げ回るしかできないという、非常に明快でわかりやすく展開されることが、怖くてたまらないのだ。
探索するシークエンスでも、その後顔に張り付いたエイリアンを取り除こうとするシークエンスでも、エイリアンから身を守る船員の戦いも、すべてその恐怖の元凶を見せないのだ。
だから、船員視点で物語を味わうことができる。
また、得体が知れない、という恐怖感は、何よりもまして大きい。
わからないので対策がとれないし、わからないので恐怖の想像が増大する。

下手なCGで見せるよりも、見せない演出の方がはるかに効果的な演出だと言える。

見せない、わからない、というのは、SFとしての世界観にもいえることだ。
彼らの取り巻く世界観は、非常にしっかりしているように見えて、実は謎だらけだ。
この「エイリアン」という映画を制作するにあたっての設定しか与えられない。
そのため余計なことに気を配らなくてもすむ。
また、無限の宇宙にあって、何度も描写される宇宙船がいかに孤独であるか、ということも訴えかける。
彼らに与えられている設定は、「逃げ場がなく孤独」という一点に集約される。
SFとしても、非常にスリムで、無駄がなく、なおかつ不備もない、絶妙な見せ方だ。
今のSFなら、無駄に細かい説明しようとするだろう。
それがかえって矛盾を生み、恐怖感をそぐのだ。

二つめ。
ホラーとして成功した大きな要因は、「間」にあるだろう。
後半のアップテンポの、恐怖が音を立てて迫ってくるような緊迫感を出すために前半はすごくスローテンポだ。
というか、「エイリアン」らしきものが出てくるまでの時間がそもそも長い。
それでも張りつめた空気を演出するあたりはさすがの映像手腕だろう。
不気味な雰囲気と孤独感、どこか居心地の悪い宇宙船ノストモロ。
CGごり押しでしか描けない今の映画とは違った巧みさがある。
また、いきなり見せ場を作りたがるのが今の手法だが、じっくりと、真綿で首を絞めるような緊張感は本当にすばらしい。

もっとも、わかりやすく派手に、という映画しか撮れなくなって来たのは、それだけ観客に「鑑賞スキル」がなくなってきたからなのかもしれない。
その件についてはまた別の機会に書こう。

エイリアンが現れた以降の展開も無駄がない。
スローテンポから徐々に盛り上がるアップテンポは次第に心拍数が上がるように、鼓動のように恐怖がにじみだす。
船員が少ない映画なので逆に死の数が限定されているとはいえ、その逆境を跳ね返すように、船員の死が的確に、正確に配置されている。
ほとんどスプラッター映画のような巧みさである。
ホラー映画といえるゆえんである。

もうひとつ。
この映画はセオリーに基づいて撮られた作品である。
そのひとつがラストのリプリーとエイリアンの「一騎打ち」のシークエンスだ。
これは安心したらもう一回恐怖がくる、という本当に古典的な手法だが、それに加えて、エロスとタナトスの人間の心理をうまくついたシークエンスになっている。

それまで暑苦しい船内を軽装とはいえ、服を着ていたリプリーは突然安心して脱ぎだす。
下着姿のリプリーはもはや「ああ、こんな時代もあったんだな~」と感慨さえ覚える。
彼女がここで脱ぎだすのは彼女のエロスを示すためだ。
そして、何も守るものがなくなったときに、エイリアンが現れる。
これはエロス(性への欲求)とタナトス(死への欲求)との混合が、人間にとって一番の力強い欲求となるということをよく理解しているのだ。

キング・コング」などの美女と野獣(死)が同居するとき、人は大きな興奮を感じるものだ。
このラストの名シーンも、エロスとタナトスというセオリーをよく踏まえているのだ。

映画作りに行き詰るなら、もっと古典に、もっと良作に戻るべきだと僕は思う。
派手さを追求していたとしても、それはパワーゲームのような、不毛な争いに過ぎないのだから。

(2007/9/30執筆)

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