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ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

トロピック・サンダー 史上最低の作戦

2008-12-20 04:56:18 | 映画(た)
評価点:73点/2008年/アメリカ

監督・脚本・主演:ベン・スティラー

痛快、メタ・ハリウッド映画。

映画「トロピック・サンダー」にかける三人の役者たちは、それぞれ、
落ち目のヒーロー映画を主演するタグ・スピードマン(ベン・スティラー)、
おならでコメディ映画のスターとなったジェフ・ポートノイ(ジャック・ブラック)、
白人なのに、役のために黒人へと整形手術までしてしまったカーク・ラザラス(ロバート・ダウニー・Jr)だった。
彼らはともに落ち目にある俳優たちで、観客に飽きられつつある崖っぷちの役者だった。
彼らは戦争映画という新機軸を打ち立てようと意気込んでいたが、制作費の大半をかけたはずの爆破装置を誤って作動させ、カメラも回っていないのに爆発させてしまった。
怒ったプロデューサー(ヒミツ)は、監督をありったけ脅し映画の完成を約束させる。
「トロピック・サンダー」の原作者である、戦場で両腕を失ったフォーリーフ(ニック・ノルティ)は、彼ら三人を本物の地獄、戦場へ送り込むことを提案する。
何も聞かされていない三人は、出演者とともに、戦場に放り込まれる。
どこまで演じるのか、どこまでがフィクションなのか、全くわからない中で彼らは売れる戦争映画を撮ろうと躍起になるが……。

ベン・スティラーが脚本も、監督も、主演もつとめているコメディ映画だ。
こんなん観に行くやつはどうかしている、と思いつつ、他に観に行くものも見あたらないので、これを選んだ。
戦争映画をふざけた人間で撮る、というシチュエーションじたいが日本ではタブーだろう。
おそらくアメリカでもかなりの反発があったのではないかと想像する。
まあ、こんなくそ映画、何の主張にもなっていない、と黙殺されたのかもしれないが。

ともかく、この映画を本気で観に行くのはお門違いだ。
戦争映画が好きな人には、きっと酷評と不快感しか買わないだろう。
逆に、それさえも笑いに変えられる斜めに構えた人間なら、おもしろすぎると褒め称えるだろう。
それくらい人を選ぶ映画である。
しかも、そのストライクゾーンはタイガースの今岡の悪球打ちよりもなお狭い。

かりかりしない、とことん突っ込む、というスタンスをお持ちの器のでかい人こそ、観に行ってほしい。

▼以下はネタバレあり▼

この映画は、映画を撮ることを撮る、といういわゆるメタフィクションの映画となっている。
「アダプテーション」などと同じといえる。
それはパンフレットにも反映されていて、パンフレットのなかに、さらにパンフレットがあるという二重構造になっている。
このあたりは配給会社の心意気、というか悪のりが垣間見える。
その意味でも、戦争映画自体をほとんど観ない人はきっとおもしろくないだろう。

戦争映画のお約束がやはりパロディとして登場する。
痛烈な批判も加えている。
戦争映画に対するそもそもの免疫がなければ、きっとしらけてしまうかもしれない。
戦争映画好きでもだめだし、戦争映画嫌いでもだめ。
なんという映画だろうか。

それはさておき、シナリオじたいはかなりしっかりと作られている。
冒頭の配給映画を見失いそうになるニセ予告編の嵐から始まり、三人のキャラクターを設定しながらも、物語をスピーディーに進めている。
何度もコメディ映画に出演し続けているスティラーならではの安定したシナリオだ。

もちろん、のっけから悪のりが炸裂する。
感動のシーンとなるはずの、戦場でのやりとりをよだれを垂らしながら語り合うシーンなどは、下ネタ炸裂で大笑いだ。
その前後にある兵士が内蔵を攻撃され、その内蔵がやたらとリアルに出続ける。
それなのに、本人は死なないという、「プライベート・ライアン」なんかのオマージュを感じさせる場面などは、気持ち悪いけれども笑える。
パンフレットでは白黒写真で「配慮」されているのは、ただ単に予算の関係上の問題ではないだろう。

無駄にグロテスクなのは、それだけではない。
監督がいきなり爆死したあと、転がっている監督の首を、ベン・スティラーは何も知らずにほじくり回す。
そのときの無邪気さと、その監督のゆがんだ顔は、どこまで本気なのか、どこまで笑いをとろうとしているのか、疑いたくなる。
メタ映画なので、フィクションに違いないし、どこまでも皮肉であるのだが、「だまされて戦場に行く」という設定と、「それを知りながらも戦争映画を観ている」観客の本気の度合いを探り合うような入れ子型構造になっている。
このあたりの観客さえも巻き込んで、揺さぶる展開は、実に興味深い。
人間が普通に持っている常識の一線を軽々越える映画を撮るベンも、その映画を他の映画と同じようにシネコンで放映する配給会社も、そしてそこに観に行く僕たちも、ほんとにお馬鹿なのだと思わされる。
もちろん、その元ネタが戦争映画であることも、皮肉なのだ。
戦争映画を観ると、戦争を体験したように感じるが、実はそれは幻想であり、作られた戦争なのだという強烈なメッセージだ。

たとえば「ランボー」を観て、リアルだと感じ、感動する僕たちは、自分たちに都合のよい戦争劇、戦争像を作り上げているにすぎない。
それは戦争反対であっても戦争肯定であっても同じ事なのだ。
そのあたりのメタ構造が、この映画のどこまでも悪のり、どこまでも皮肉というスタンスの深さにある。
そのどこまでも、という本気さが、この映画の笑いの根底にある。

ストーリー、つまりこの話の往来のパターンがそれを支えているのだ。
慈善事業の一環なのか、子供を養子にもらおうとしていたベンが、敵の村の子供を養子に迎えようと決心する。
だが、その子供に肩を刺されて投げ捨てるという衝撃のシーンがある。
この辺りのプロットのうまさ、皮肉のうまさは、一級だ。
ハリウッドスターの養子を迎える報道は、温かい美談として語られるが、実態は単なる自慰行為なのかもしれない。
ハリウッドまっただ中にいるスターたちがそれを演じるから笑える。

このあたりの土台の安定が、あるいは実は高尚なアイロニーがこの映画を真におもしろいものにしたてているのだ。

このとんでもない企画に、多くのスターが賛同している、カメオ出演していることもこの映画の見所だ。
大物が出るという触れ込みだったという話を映画を観た後に知った。
だから、プロデューサー役の役者が誰だかすぐに気づかなかった。
いや、実は初登場のシーンで、すでにトムっぽいと思っていたが、まさかこんな映画にでないだろうと思っていた。
何度か登場するに従って、「そっくりさんだろうか」
「いやいや本人だろうか」
「めちゃ似ているだけで全然違う人物かもしれない」
「もしそっくりさんなら、本人はこんなキャラクター黙っていないだろうしなあ」
などと感じていた。
すると、なんとやはり本人だったのだ。
声と、鼻に特徴があったので、気づけたけれど、一緒にいった友人は気づかなかったようだ。
英語になるとやっぱ声だけでは判断しにくいよね。

ともかく、やたらと大物俳優がこぞって参加しているところが、この映画のコンセプトが単なる低俗なコメディではないところなのだろう。
(いや、低俗なんだけど)

ゲイのアルパ・チーノといい、腕を失ったことを偽っていた物々しい原作者といい、思い出すだけでも笑えてくる。

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