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ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

言葉の麻薬

2008-12-16 22:21:34 | 不定期コラム
最近、激務のせいか、自分の言動が軽率だと感じることがある。
しょうもないミスをしたり、言わなければ良かったと思うことを言ってしまったり。
ことばに関しては、気をつけるべきだと常々思っているのに、相手を傷つけてしまう恐れのある言葉を、結構安易に言おうとしたり、言ってしまったりする。
本当に疲れているのかもしれない。

僕の「profile」には「特技」の欄に毒舌がある。
僕は自分でいうのも何だが、そして、このサイトの批評を見てもらえばわかるのだが、僕の毒舌はなかなかのものだと思う。
日常生活で、それが奏功することはないので、あまり自慢できることではない。
たいていいってしまった言葉によって、相手を不快にしたり、僕の評価を著しく下げることになる。
言葉によって傷つけないように、と心がけているのは、きっとそのためでもある。

ところで、僕が毒舌が得意で、まあ、そこそこ好き(だからこういうサイトを立てているのだけれど)だからといって、毎日四六時中、毒舌を言っているわけではない。
僕の知人ならわかると思うが、僕は高校時代くらいから、いわゆる毒舌を言ったことがない。

……おっと、これは誤解のある言い方だ。
少なくとも、面と向かっていう悪口(良い言い方をすれば「指摘」)以外に、陰で周りの毒舌をしたことがない。
本人に直接は、手厳しい、自分のことを棚に上げた言い方をするが、間接的に、毒舌を言うことはない。
芸能人や映画などの自分のコミュニティの外については、ばんばん口にする。
だが、自分のコミュニティの中にいると思っている人には、毒舌をその人がいないところでは言わないようにしている。

なぜだろう。
僕は「言っても解決しない文句を言っても無駄」という考えがあるからだ。
たとえば、僕の周りにいる人で、いやな人がいたとする。
それを、「あいつむかつくよね」と他の人にこっそり言っても、「むかつく」ことが解決されるはずはない。
その本人が、僕がむかついている原因を知らないのなら、どれだけ言っても無駄である。
言っても無駄なことを言っても、コミュニティの関係性が崩れるだけで、何も得することはない。

逆に考えれば、僕が明らかな毒舌を言っている対象というのは、僕のコミュニティの外だと考えているからだ。
聞いていて、明らかにそれは言い過ぎだろう、ということが多々あるので、僕はよく誤解される(誤解なのか、僕が悪いのかは知らんが)。
本人に辛辣なことを言ったとしても、その本人がいないところでは言わないことの裏返しなのだ。

僕の哲学としては、それは他の人にも広がればいいのになぁ、と思っている。
少なくとも、陰口をたたいて、その集団の団結力が上がるとはとても思えない。
その人以外の団結力はあがるのかもしれないが、それは単なる幻想であり、それは毒舌している人のエゴだ。

ところで、なぜ毒舌してはいけないのだろう。
人は不満の現実を生きている。
個人を嫌う場合もあれば、もっと全体を嫌う場合もある。
会社の体質とか、学校のルールとか、教師とか、政治家とか。
根拠のない苛立ちや不快感も中にはあるだろうが、声を大にして言いたいことは、たいてい根拠があるものだ。

それでも、僕は毒舌を言うべきでないと思っている。
なぜだろうと、自問自答してみる。

たとえば、毒舌の効果には、確かに集団を強固にするというメリットがある。
つまり、スケープゴートを何か(誰か)設定しておくことで、集団がそこに怒りを向け、「共通意識」を作り出す。
団結力としては良いあり方ではないが、そのメリットは認めざるを得ない。
そこには、「下がいるから安心する」というような、生物学的な優位性があるからだろう。
誰しも自分の位置を確認したいものだ。
少なくとも、誰より下か、という確認基準ではなく、誰よりも上だ、という基準が欲しいのはうなずける。

ヒューマニズムとしては、それがいけないということもまたもっともだ。
他人を下に見ることで、自分を保つということは、非常に卑俗な感じがする。
倫理的な観点から考えるに、それをよしとして、肯定する人は少ないはずだ。
それでも毒舌という甘い蜜は人をとらえるのだが。

と、僕もこのあたりまでは考えていた。
一度、高校の頃、部活でひどい毒舌合戦が繰り広げられていて、それがたまらなく嫌だったので、それ以降毒舌はしないようにしているのだから、
当然、その低俗さが厭になったからだと思っていた。

だが、それだけでもなさそうだ。
毒舌をしていて、集団が固まることはない。
ほかにも原因があるのではないか、と僕は考える。

毒舌の本質は、多様性の除去にあるのではないか、と思うのだ。
人間にしても、何にしても、どんなものでも、物事には裏表があり、いわば球体のような多面的なものであるはずだ。
よく物語で出てくるような絶対悪や非の打ち所のない悪というのは、現実ではあり得ない。
どれだけ悪く見えても、その裏には善を持つものだ。
(性善説のような甘いことをいいたいのではない。)
どっからどうみても、気にくわない人、というのが、世の中には多すぎるとぼやきたくなるのはもっともだが、「完全悪」なるものが存在するとしても、それはごくごくまれなケースで、やはり人間の存在とは多面的で光と陰があるものだと思う。
毒舌されるべき人はいないという一方で、毒舌されない人もいないということだ。

光だけの人もいない。当たり前のことだが。
だが、毒舌して、それに賛同するものが増えればどうなるだろうか。
その人(あるいはもの)が毒舌されるに値する部分もあれば、賞賛されるべき部分もあるはずだ。
だが、言葉は必要以上に形にしてしまう。
目に見えなかった部分まで、あるいは曖昧だった部分まで確固たるもののように、固定化、客体化、表面化してしまう。
それがよいことであれば、問題なかろうが、毒舌であれば、言葉に表現されることで、陰の部分が動かしがたいものになってしまう。

そうなると、究極、思考停止に陥ってしまうことになる。
悪い面が取り上げられ、それを毒舌することによって固定化し、その人や集団の良いところが見えなくなる。
また、なにかミスや悪い面が露見すると、それをダシにあげつらう。
これでは言っているほうはどんどん思考停止に陥ることになる。
それが、自分とは全く関わりのない人間ならともかく、同じ会社や集団の中にいる人であれば、プラスにはとうてい働かない。

いやいや、私がしているのは、単なる毒舌ではない、相手のために必要な「批判」なのだ、と弁明する人がいるかもしれない。
確かに必要な指摘はあるかもしれない。
だが、「批判」という言葉は、「criticize」の訳語だ。
このブログの「映画批評」という言葉の「批評」も同じ語源の言葉である。
日本では、「批判」と「批評」はかなり意味を異にしている。
批判は、どちらかといえば悪い評価を下すときにつかい、批評は良くも悪くも評価するというニュアンスになる。

それはさておき、批評・批判の「criticize」は「critical」などと同じ語源の言葉だ。
カタカナで書いた方がわかりやすいなら、「クリティカル」である。
クリティカルヒット、のクリティカルである。
つまり、決定的な、とか致命的な、といったニュアンスを持つ言葉なのだ。
相手を批判すると言うことは、決定的な打撃を与える、ということに他ならない。

また、批判的に物事を見る、という言い回しには、客観視して物事を捉えるというニュアンスになる。
相手を批判するということは、それは相手を客観視して決定的な打撃ととなる言葉を発するということである。
「それじゃあ、別にかまわないだろう」と思われるかもしれない。
だが、この「客観的に」という点が、実はこの毒舌や批判の恐ろしいところなのだ。

相手を客観視するということは、要するに自分と切り離してしまうということなのだ。
相手を攻撃する際に、自分と完全に切り離して、自分とは無関係であるように捉えて語ることが、批判することなのだ。
自己批判という言い方が、自分を客観視するために用いられることを考えれば、異論はないはずだ。

自分と切り離してしまうとどうなるか。
時には自分に引き寄せると言う中和作用がなければ、他者を排除するしかできなくなる。
そもそも批判も批評も自己に迫る試みであるはずだ。
毒舌はそれをかき消し、批判はそれを曇らせる。
している本人は気持ちいいが、自らに省みられることはない。
自己嫌悪とは自己批判でありメタ認知である。
その視点を失わせる毒舌は、やはり相当意識しないと、つまりブレーキを踏まないと、何も生み出さないことになる。
自己への視点を失った者は、やはり思考停止してしまうことになり、他者批判以外の視点を失ってしまう。

排除して確定化・規定化する毒舌と、相手のみ客観視し自己を盲目化する批判は禁忌とまでは言えないが、非常に取り扱いがデリケートでありながら、本人は気持ち良いという麻薬のような危険性がある。

わかってもらえると思うが、僕がこう書くのも自分を取り出す手順・作業なのだ。
どこかの首相に対する党内部からの痛烈な批判もしかり、どこかの横綱への一元的なゴシップもしかり、ただの毒舌や批判は、知的な悦びがあるだけに、質が悪いことは自覚しておきたい。
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