言語学の祖と言われるソシュールの考えに、言葉に意味が張り付いているのではなく、ことばによって、人間は世界を分節しているのだ、というものがある。
虹は7色だと考えているが、アフリカのある言語では、2色にしか分節できない。
だから、2色にしか見えない。
言葉は現実を把握する道具なのだ、というのがソシュールの考え方だという。
ふと考えた。
これは、言葉だけではない、ということだ。
人間は何かによって、現実を把握しなければ理解できない。
認識できない。
だから、何かによって、現実を分節したり、整理したり、意味付けたりしている。
私たちは目の前の人が、デートの相手だと特に、スマホをいじっているのをみると不信感を抱く。
だが、もしかしたら、それは失礼なことではなく、自然なことなのかもしれない。
ネットはすでに現実を凌駕している。
ネットであがった噂を私たちは無視できない。
それは、現実を写し取ったものがネットではなく、ネットそのものが現実となり始めていることを示唆している。
ことばで眼前のものを把握して整理しようとしているのと同時に、私たちは技術やネット、情報機器によって現実を理解しようとしているのかもしれない。
だから、このスマホによる眼前の把握というのは、失礼とかそういうレベルではなく、ごくごく自然な流れなかもしれない。
言葉によって認識することという態度の最先端が、電子機器による世界の把握なのだと、打ち込む横で、妻が私に睨みをきかせている。
そろそろ文章を閉じる時のようだ。
虹は7色だと考えているが、アフリカのある言語では、2色にしか分節できない。
だから、2色にしか見えない。
言葉は現実を把握する道具なのだ、というのがソシュールの考え方だという。
ふと考えた。
これは、言葉だけではない、ということだ。
人間は何かによって、現実を把握しなければ理解できない。
認識できない。
だから、何かによって、現実を分節したり、整理したり、意味付けたりしている。
私たちは目の前の人が、デートの相手だと特に、スマホをいじっているのをみると不信感を抱く。
だが、もしかしたら、それは失礼なことではなく、自然なことなのかもしれない。
ネットはすでに現実を凌駕している。
ネットであがった噂を私たちは無視できない。
それは、現実を写し取ったものがネットではなく、ネットそのものが現実となり始めていることを示唆している。
ことばで眼前のものを把握して整理しようとしているのと同時に、私たちは技術やネット、情報機器によって現実を理解しようとしているのかもしれない。
だから、このスマホによる眼前の把握というのは、失礼とかそういうレベルではなく、ごくごく自然な流れなかもしれない。
言葉によって認識することという態度の最先端が、電子機器による世界の把握なのだと、打ち込む横で、妻が私に睨みをきかせている。
そろそろ文章を閉じる時のようだ。
といった言葉から
ブログ主が言葉が世界を作っている・・のような考えを持っているのかと想像しておりましたが、 記事になりましたね!
こうした点から
常識というものは存在しないのではないかと疑う事ができます。
またカールワイク氏の著書でも
私たちは正確性よりももっともらしさがあれば納得するとあります。
私個人的には、
どのようにすれば、凝り固まっている言語(常識)を疑わせることができるのか?に興味があります。
同じ階層の言語ではこういう考えもあるよね?と反論されてしまいますよね・・
また面白い記事待ってます!
>フランスさん
書き込みありがとうございます。
挙げられている著者の本は読んでいませんが、言語によって世界が作られているというよりは、言語によって世界を捉えている、ということですね。
言語を疑うことは、おそらく多くの人が日常的に行なっているはずです。
それを気付けるかどうかは別にして。
またどこかで記事にできればと思いますが。