secret boots

ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

2012

2009-12-13 20:40:33 | 映画(な)
評価点:75点/2009年/アメリカ映画

監督:ローランド・エメリッヒ

そこまでしないとリセットできないのか。

売れない作家を続けているジャクソン(ジョン・キューザック)は、二人の子どもを連れて離婚した妻の元を訪れる。
子どもをキャンプに連れて行く約束していたのだ。
いつも通り、寝坊した挙げ句、肝心の車にエンジンがかからない。
仕方なく仕事(副業)で使用しているリムジンで子どもの元へ駆けつけたのだった。
しかし、二人の子どもと妻との思い出の湖を訪れた彼は、その湖が干上がっていることに呆然とする。
立ち尽くす彼らの元に訪れたのは、アメリカ軍だった。
地球は異変に襲われようとしていたのだ。

ローランド・エメリッヒ監督といえば、そう、あの「ID4」の監督である。
映画館で鑑賞することが当時少なかった僕は、エイリアンが堕とす巨大爆弾によって崩壊していく街を唖然として眺めていたのを思い出す。
また、「GODZILLA」では、明らかに「ジュラシック・パーク」のティラノサウルスやん、と全然ゴジラじゃなくなったゴジラにがっくりしたものだ。
その彼が「デイ・アフター・トゥモロー」という駄作に懲りずに、再びディザスタームービーを撮った。
もはや、その作品を知っている人は、この映画に対する期待値は相当低いことだろう。
どうせただのごり押しCG映画だろう、と考えているはずだ。

ところが、どっこい。
この映画はまれに見る、楽しめるディザスター・ムービーだ。
特に映画館で見ることをおすすめする。
映画館で見ないなら、DVDでは見ない方が良い。
自宅に映画館並みのオーディオシステムがあるなら別だが。
この映画は映画館で見て評価されるべき映画だ。

▼以下はネタバレあり▼

絶対に楽しめる映画になっているが、映画としての完成度は高いとは言い難い。
あおっておいていきなり堕とすようなまねをして申し訳ないが、そのあたりの原因を探っていこうと思う。

たぶんこれ以上の映画は、ローランド・エメリッヒには撮れないのではないかと思わせるほどの圧倒的な迫力だ。
そして、かなり巧い話の作りになっている。
先にそのあたりを見てみよう。

まずディザスター映画におけるポイントは三つある。
デイ・アフター・トゥモロー」ではその三つともに失敗してしまったわけだ。
今回はその三つの要素ともにそろっている。
一つは、個を描いているという点だ。
この映画では迫力あるCGが話題になってしまうのだが、それよりもきちんと人物の背景まで描いている。
それによってこの映画の重さが決定的なものとなっている。
たとえば、本が全く売れないジャクソンの娘は、夜尿症になっている。
これは母親しかいないという娘からのサインだ。
ゴードンという新しい夫になじめずに、ストレスを感じている子どもなのである。
このあたりに娘を取り巻く環境がいかに苦しいものかということを暗に示している。
また、そのジャクソンの書いた小説を学者のエイドリアン(キウェテル・イジョフォー)が持っていた。
これによって赤の他人をつなぐ絆ができるわけだ。
その学者が恋する相手は大統領の娘で、ジャクソンのリムジンには元ボクサーが顧客だった。
狭い世界を描きながらも、いたるところにつながりを描いているわけだ。
しかも、子供がほしかった孤独なゴードンのように彼らの内面もしっかりと描き分けている。

このように、一人一人がつながっているところに群像劇を見いだしている。
それはすぐそこで「ゴミのように(by ムスカ)」死んでいく、背景としての人間たちにも人間としての尊厳や人生を思わせる。
人の死が重くなるわけだ。
もちろん、ただ名前のないキャラが死んでいくだけではない。

次に、生と死をしっかりと描くということ。
死を見せずに生の重さを感じることはできない。
名前のあるキャラクターを印象的に「殺す」ことで、生きていることの大切さとありがたさを観るものに示すのだ。
デイ・アフター~」ではそれがないことによって、映画としての迫力どころか、テーマさえ揺るがしてしまっていた。
ゴードンのキャラクターがしっかりと描かれているからこそ、彼が死ぬことの重さを、生き残ったキャラクターとともに、観客も感じることができる。
元ボクサーが命を賭して息子を助けるシーンだって、感動を呼び起こす。
そして彼らの死を受け止め、それでも前に進む主人公たちが、テーマを浮き彫りにするわけだ。

最後に、ディザスター映画の根幹である、ディザスターを引き起こすべき理論である。
太陽のフレアが活発になることによって地球を内側から暖め、地殻変動を起こし、至る所で地震が起こる。
そしてその後に巨大な津波が世界を覆い尽くす。
この設定は非常にわかりやすく、納得もできる。
実際にどのくらいの猶予があるのだとか、そんな大きな地震が起こるのかとか、怪しい点もなくはない。
しかし、そういわれればそうかもしれないという直観的には「あり得る」と思える理論であればそれでいいのだ。

たびたび比較にあげる「デイ・アフター~」ではその理論がわかりにくく、かつ変化が急激すぎて不自然な印象を覚えた。
今回は一気に地殻変動が起こってもおかしくないと思わせる設定だったので、説得力がある。
よってドラマはますますヒートアップしていくわけだ。

それだけではない。
物語の作りもしっかりとしている。
たとえば思い出の湖が干上がっているという衝撃は、いかにも妻との関係性を暗示するものとなっている。
それはとりもなおさず、ジャクソン自身の世界が崩壊しつつあることをも示す。
このあたりにある物語的な記号性が「普通の映画」とは違う趣をたたえている。

フィクションである以上、そのフィクションをいかにリアリティあるように描くかがポイントになる。
そのポイントはざっと言って大きな「アリエンティ」を、小さな「リアリティ」によって補強するということだ。
そうすることで大きな嘘が説得力あるように感じられる。

たとえば、舟の設定だ。
宇宙船建造を目指している、という触れ込みで売られるチケットは高額で容易には買えない。
10億ユーロという大金である理由は、資本主義だからというだけではなく、舟の建造に大きな出資が必要だったからだ。
売らないと作れなかったわけだ。
また、それが宇宙船ではなく、舟だという点もおもしろい。
確かに、あれだけの衝撃だと壊れるとしても、宇宙船よりは遙かにリアルだ。
しかも、宇宙船だと思わせていたところも味噌で、「そりゃ嘘やわ」と思っていたら、後に舟だと聞いて「それならあり得るかも」と思わせる。
いきなり舟だと聞いていたら、果たしてリアリティがあっただろうか。

その舟に守られる優先順位がまず文化的遺産であることもリアルだ。
人の命よりも、文明なのである。
しかもその文明は完全に近代ヨーロッパ的な旧態依然とした価値観による選別で決められている。
僕ならデータで数多くの書物や建造物をデジタルで記録しておくと思うが。

その舟を造っているのが中国人だというのもおもしろい。
地理的な条件も明確な設定はないものの、おそらくそのあたりが一番地震が起こりにくいという閑雅からだったのだろう。
当然、秘密裏にことが進むという点においても、中国以外に頼れるところなどない。
妙に外向的な観点を意識した設定だが、リアルだと思う人は多いだろう。
チケットの単位がユーロだと言うことも、アメリカ映画にしては思い切っている。
円高が続いている今だからこそ、余計に国際社会の情勢に敏感だと思ってしまう。

これらにより上質のドラマを感情移入しやすい状況で体験することができる。
なかなか近年にみない良作である。
だが、それでも僕は物足りなさを感じた。
厳密に言うと、それは欠乏という意味においての物足りなさというよりは、むしろ逆で過食症になった気分に陥るのだ。
この映画を観ていて、様々な「過剰」を感じてしまうのは僕だけではないはずだ。
たとえば、一見してわかることは、映像の「過剰」だ。
本人はこれ以上のディザスター映画は撮れない、と言っているらしいが、その言葉は嘘ではあるまい。
詳細に描き込まれたCG技術による大破壊は、「マトリックス・レボリューション」を遥かに凌駕する。
先に書いたように、一人一人が死んでいく様子をとらえることができるほどに鮮明だ。
だが、明らかに過剰だ。
何より、「何が起こっているかを理解する」どころか、「何が起こっているかを認識する」ことさえ困難なほど、この破壊の洪水は観る者に混乱をもたらす。
最近読んだ新書の下條信輔「サブリミナル・インパクト」を思い出す。

また、単純に上映時間が長い。
上映時間が短ければいいというものではないが、ここまで長く、しかも大量の情報を浴びせられると、観る者は疲れてしまう。
それは物語のテーマ性を受け取らせるにはあまりにも冗長であることを意味している。
よって、「どこが一番描きたかったのか」という点がぼやけてしまう。
多くの感動的なエピソードがありながら、「ディープ・インパクト」などに比べると物語としての感動が薄いと言うことは、そのまま「過剰」を意味している。

そもそも、この「過剰」さは、僕たちを麻痺させている。
麻痺されているものは、この映画が地球規模の大破壊を描きながら、それを楽しませるために、ジャクソン一人の内面に迫るという「個」に徹しているという点だ。
ありていに言うならば、それは「世界破壊」と「個の再生」とが等価値に配置されているということだ。
それは「世界」と「個人」との対比であり、そのことによってもちろん感動を生むわけだが、ここには大きなメッセージがある。
世界と個人を対比的に、あるいは同列的に扱うと言うことは、とりもなおさず個人を救うためには世界を破壊する必要があるというメッセージ性が隠されている。
これは、男が大破壊によって家族との絆を取り戻す物語である。
それは、一人の男が元妻とよりを戻すためには、あるいは家族との関係を修復するためには、大破壊が必要だったという逆説を示している。
これは明らかな「過剰」である。

この映画は確かにすばらしい。
しかし、この「過剰さ」に感動し、またこれほどの過剰な物語でなければ感動できなくなっている僕たちは、「変わりたい、変わりたい」、「チェンジ、チェンジ」と叫びながら、徹底的に「変わる気のない」個人を形成しているのかもしれない。
こんなにもしないと人は感動できないのだろうか。
人間の愛や結束を描きながら、逆にそれを否定しているような絶望感を覚えるのは僕の考え過ぎなのだろうか。

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