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ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

2001年宇宙の旅(V)

2023-05-25 17:16:55 | 映画(な)
評価点:87点/1968年/アメリカ/142分

監督:スタンリー・キューブリック

言わずと知れたSF映画の金字塔。

人類は猿人から分岐し、道具を扱う知性を身につけた。
そのおよそ400万年後、2001年、人類は宇宙進出を目指していた。
月の基地に、400万年前から埋まっていると思われる石碑が見つかる。
それは明らかに人工物であり、その謎は深まるばかりだった。
そして木星へと人類初めて有人の探査を送ることになった。
5人の宇宙飛行士とHAL9000と呼ばれる人工知能による木星探査は当初は順調に進んでいたが……。

言わずと知れた、巨匠キューブリックのSF映画。
ずっと見ようと思っていたが、上映時間が長いのがネックで敬遠していた。
ちょっと時間的余裕がうまれたので、アマゾンプライムで「ウォッチリスト」に入っていたところを掘り起こして再生した。

全く見たことがなかったはずだし、予備知識もなかったはずだが、ラストは既視感があった。
もしかしたら私はずいぶん前に何かで見ていたのかもしれない。
あるいは、あらゆるメディアに引用やオマージュされているので、既視感があったのかもしれない。
(「インターステラー」、「月に囚われた男」、「オデッセイ」など)

とにかく今更ながら、レビューしてみよう。
もちろん、他の人の分析やこれまでの考察はわからない。
そんなことを調べる時間的余裕も、精神的余裕も、あるいは映画の専門家でもないので。

2023年批評の旅、とでもしておきましょうか。

▼以下はネタバレあり▼

ウィキペディアによれば(2023年5月時点)、ラストのシークエンスについて議論が起こったようだ。
抽象的で、象徴的で、説明があまりされていないので、わかりづらい、というところだろう。
だが、そんなことは度外視しても、SF映画としての面白さは揺るがない。
すでに半世紀以上も経っているのに、まったく古さを感じずに見られるくらい、「SF映画」である。
内容だけではなく、SF映画とはこうあるべきだ、ということを教えてくれる映画でもある。

映像としての見せ方、宇宙の構造の描き方は、もちろん科学的な根拠に乏しいところもありそうだ。
けれども、宇宙旅行に連れて行ってくれているようなわくわく感が今でも失われていない。
批判されうる、説明不足なのもそのハイセンスさを補強する。
うだうだ説明されなくても、ただ映像としての世界を見せるという手法は、この映画をいつまでも「未来」を描き続けるという普遍性もある。
ストーリーが全く理解できなくてもよい。
そういう映画だ。

という評価はしたいものの、「全く理解できなくても良い」と開き直りたくもない。
それはつまり、「私には理解できなかった」という言い訳の裏返しでもあるから。
だからそこはしっかりと考えておきたいわけだ。

さて、この物語の構成はシンプルで、宇宙に飛び出したクルー達が木星にたどり着き、そして再び地球に帰還する物語だ。
いわゆる、日常-非日常-日常を往来する物語であり、地球に帰ってきたボーマンがそれまでになかった視座を獲得する物語である。
オーソドックスなロードムービーであり、冒険譚である。
ただ、木星探査の理由が明らかにされたあたりから、急に抽象的な描写や宇宙を離れた描写に変わってしまうので、メンを食らってしまう。
そしてラストは、地球を赤ん坊になったボーマン(だと思われる)が、見つめる、という場面で終わる。

いったいどういうことか。
また、それまで「謎」とされてきたモノリス(黒い立体物)はいったい何だったのか。
ほとんど説明されずに終わって、インターネットの考察サイトをあさる羽目になるのだろう。

さて、先にモノリスから考えよう。
この物体は、明らかに比喩である。
そしてそれは、猿人だった人間のころからあり、月に埋まっているのが発見され、そして木星に強い電波を送っている。
これを形而下学的なものだと読めば、袋小路に陥るが、SF映画としての比喩として読めばかなりわかりやすい。
400万年前に突如現れた物体は、人間を人間たらしめているもの、すなわち知性である。
得体の知れないこの物体は、誰が用意したのかだから人類にはわからない。
それは突如として現れて、我々はそれを飼い慣らしてきた。
それがなにものであるかを、我々の理解を超えている。
気づけばそこにあり、利用してきたが、なにゆえ手に入れて、他の種族を凌駕できたのかはわからない。

月に埋まっていたのは、我々自身の知性であり、好奇心だった。
それは木星(より遠くの天体)に向けて強い電波を発しているが、それは人類が宇宙へと駆り立てられる何かである。
400万年前にすでに運命づけられており、けれどそれが何かを説明することはできない。
知的生命体の所在を示すものだ、と劇中では示されているが、それが必ずしも【人類の外】にあるとは限らない。

ボーマンは木星にいたって、あるいはさらに遠くの宇宙の彼方を旅することで、ヨーロッパの室内のようなところにたどり着く。
それは明らかに人間の作った文明であり、地球のどこかのようである。
それを宇宙服を着ながら、観察するのだ。
このシークエンスは、主客の転倒であり、人間を宇宙人としてみる視点の獲得を比喩している。
宇宙に旅立ったボーマンは、宇宙人になって地球に帰ってくる。
まっさらな赤ん坊のような知性で、地球を見渡すのだ。

こう考えれば、黒いモノリスが人間の内面にある知性であるという読みと整合性がとれる。
人類が、宇宙に旅立つことで(その後帰ってくることで)自分自身の知性に気づく物語なのだ。

冒頭の「人類の夜明け」も、HAL9000型とのやりとりも、すべて人類の知性である。
骨を持った猿人も、人間が作ったコンピューターを完璧だと信じてやりとりする人間も、同じ知性なのだ。
人間は何も変わっていない。
人間は自分のことを完璧だと思っていないと信じているにもかかわらず、「完璧」を自称するHAL9000を作ってしまう。
ボーマンも、プールも、自分が愚かではないと思ってコンピューターを出し抜こうとする。
けれども、安全な地球にいる観客は、ハルも、二人の宇宙飛行士もともに完璧ではないことを知っている。
だが、当事者達はそれに気づかない。
ちょうどずっと知性とともに、得体の知れないモノリスとともに生きてきたことに人類が気づかないように。

猿人と私たちは何が違うのか。
知性とはなんなのか。
その答えを、宇宙に旅立てるようになっても、私たちは持て余している。

だからこの作品は、ずっとSF映画であり、そして近未来であり続ける。
未来を描きながら、人類の歴史を描いているからである。

音楽、見せ方、カメラワーク、ガジェット、すべてがハイセンスだ。
なるほど、絶対見るべき映画の一つであるのは間違いない。


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