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ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

イングロリアス・バスターズ

2009-12-31 09:53:20 | 映画(あ)
評価点:76点/2009年/アメリカ

監督:クエンティン・タランティーノ

一本の映画の力=パワーとは。

1941年フランスのある地域で、一台の車が一軒の農家に着いた。
その車に乗っていたのはユダヤ・ハンターという異名を持つナチスドイツのハンス・ランダ大佐(クリストフ・ヴァルツ)だった。
彼は主と二人きりになり、英語で話し始めた。
「ユダヤ人の一家をかくまっているだろう。
素直に居場所を教えれば一家の命は保証しよう」
残酷な決断を迫るランダ大佐に屈した主は、床下に隠れていたユダヤ人一家を指さす。
命からがら逃げ出した一人の女を見て大佐は見逃してやる。
それから三年後のフランス、パリ。
ユダヤ人を駆るナチスドイツに対する世界の反発が激化していた時期、ヒトラーを脅かす存在がいた。
彼らはイングロリアス・バスターズと名乗るアメリカ軍の部隊で、アルド・レイン中尉(ブラッド・ピット)を隊長とするイカレ部隊だった。
ヒトラーは彼らの存在にいらだちを隠せないでいた……。

クエンティン・タランティーノと言えば、オタク・アメリカ人を代表するかのような映画監督である。
一躍日本でも(日本の一般人にも)有名になったのはあの「キル・ビル」である。
そんな彼が自信満々で世に送り出したのがこの作品である。
彼には珍しく史実に基づく作品を、しかも歴史的な出来事を扱った作品を発表した。
キャンペーンとして四日間の間でおもしろくなくて途中退出した場合は全額返金するという試みも話題になった。
それは単なる自己陶酔なのか、正真正銘の秀作なのか、それは自分の目で確かめるしかない。
(もう公開終了してしまったけれども。)

しかもその主人公が、あのセックス・シンボルと周りに言われながらもそれでも変な作品に出続けて世の映画素人女性を裏切り続けている俳優、ブラッド・ピットである。
彼には何度も裏切られている、という女性は多いはずだ。
記憶に新しいところでは「バーン・アフター・リーディング」であろう。
多くの人は、「なんじゃこれ?何であそこにいる外国人はこんな映画で爆笑しているのだ?」といぶかしげに同じ映画館で鑑賞している異国の人に疑問を投げかけたことだろう。
何度もこのブログにも書いているが、ブラッド・ピットはそういう映画に出るのがアイデンティティなのである。
だから今回も、ブラッド・ピットだと思って飛びついた人は、大きなしっぺ返しか、もしくは気持ちの良いほどの睡眠時間を手に入れたことだろう。

この映画の完成度は、非常に高い。
だが、それが理解できるかは、これまでどんな映画を見てきたか、という自分の歴史によって決まる。
また、日本人にとってはわかりにくい、世界(欧米)におけるナチスドイツの意味/記号を理解できるかどうかによる。
これは欧米人と一緒に見て、説明してもらうのが一番良いかもしれない。

▼以下はネタバレあり▼

まず、この映画がおもしろくないと感じた日本人(日本在住が長い人間)は、おそらく正常な人間だからだろう。
タランティーノの世界観は、どこまでも欧米人の感覚によってできあがっている。
しかも、それに様々なブラックで濃厚なサブカルチャーが混ざっているので、余計にたちが悪い。
よって、先に書いたように、文化圏の違いがもろにこの映画を楽しむための障害となってしまうわけだ。
映画の完成度を本当に吟味するためには、ある程度の知識や文化的コードを身につけている必要があるのだ。
特にタランティーノにはそれが決定的であるということなのだ。

この映画は「キル・ビル」と同様に、復讐がテーマである。
だが、単なる一本道の復讐劇とは一線を画している。
一つは、イングロリアス・バスターズのアルド・レイン中尉、ユダヤ人のショシャナ、ナチのユダヤ・ハンターことハンス・ランダ大佐という三つどもえの様相を呈しているからである。
それぞれに思惑があり、ショシャナ一人の物語とは言えない。
逆に言えば、単純な戦争映画とも言い難い側面がある。

これまでの戦争映画、特にナチスドイツとの戦争を描いた映画では、勧善懲悪の対立構造が示されることが多かった。
これはホロコーストという絶対悪を行ったナチスに対する断罪という意味合いが強いだろう。
その意味では、日本の大東亜戦争とは全く位相が異なる。
そのあたりの説明を今しても仕方がないので、すっ飛ばそう。
とにかく、この映画はそうした過去の映画史にあるような単純な対立構造を持っていない。

その一番象徴的な人物が、アルド・レイン中尉の残虐性である。
ナチスがいかに残虐であろうとも、その「ナチ公」の頭の皮をはぐのはやり過ぎだ。
痛快といえばその通りかもしれないが、その残虐性にナチスドイツと同じ種類の嫌悪感を抱かせる。
これはもちろん、タランティーノの計算のうちである。
レイン中尉のおかげで、これまでの戦争映画のくくりでは捉えきれない構造が示される。
しかし、この映画では史実とは違い、映画館のテロ攻撃でヒトラーは殺されてしまう。
その事から言えば、やはりこれまでの勧善懲悪の対立構造と同じではないかという疑問も生まれよう。

だが、この映画の対立は、米・独というものではない。
この映画の本当の対立は、映画への愛の有無である。
ショシャナの、映画館に於いて、映画のフィルムによる復讐というのは、きわめて象徴的である。
しかも、標的となるヒトラーをはじめとする政府高官たちは、みな一つの映画を楽しもうとしていた。
戦争で塔に取り残された戦士が、敵をバンバン撃ち殺すという英雄譚の映画である。
この映画は、ナチスドイツを肯定するための映画に他ならない。
その映画を鑑賞している人間たちを、個人的な復讐のために自分の財産の映画フィルムによって焼き殺すのだ。
ここにはタランティーノによる明確なメッセージが込められている。

それは、映画に対する愛であり、また映画によるプロパガンダを憎む態度である。
一本の映画にどれほどの力(パワー)が在るだろうか。
その問いを突き詰めたのが、この映画の復讐方法だったと言えるだろう。
もっとも自分が愛する映画のフィルムすべてを用いても、成し遂げたかったことは、家族を殺されたナチスドイツへの復讐だけではない。
むしろ、一本の映画を政治的な意図によって発信することで、芸術性を穢すことへの「復讐」なのである。
ドイツやそれに対する他国という対立構造は、いわば箱にすぎずに、中身は従来の戦争映画とは全く異なっている。

一本の復讐のドラマと観るなら、三つどもえの三者の命運はどこで決まったのだろう。
道半ばにして殺されてしまうショシャナ、ナチスを裏切って生き残ろうとした大佐、その額に無残に十文字を刻んだレイン中尉、そして何も知らずに殺されてしまったヒトラー。
生き残ったり、復讐を遂げたりするものたちと、殺されてしまったり、裏切られてしまったりする人々との命運はどのような差異があるのだろう。
それを考えることが、この映画のテーマ、もっと言えば「正義」が見えてくるだろう。

もちろん、ここでも戦勝国と戦敗国という対立軸ではない。
もしその対立なら、この映画は戦勝国の「おぞましさ」を伝える映画となってしまうはずだ。
裏切りに次ぐ裏切りを描いたこの作品は、戦勝国がいかに戦敗国をだましてきたかを示す映画になってしまう。
この映画に流れている「正義」は、タランティーノに流れる「正義」に他ならない。

それは、いかにもタランティーノらしい、意志の貫徹である。
ヒトラーは、得体の知れないアメリカ軍の特殊部隊たちを恐れる。
自分の正義を貫くことができずに弱気になる姿が印象的に描写される。
また、ハンス・ランダ大佐は、さんざんユダヤ人を殺しておきながら、自分の国をあっさり売ってしまう日和見主義者である。
だが、イングロリアス・バスターズのレイン中尉たちは、全く一歩も引かない。
どれだけ旨い話があったとしても、彼らは意志を貫徹する。
もちろん、命を賭してまでもだ。
その差が、命運を分けたのである。

ここにはウエスタンや、日本の侍や“やくざ”の世界を伺わせる。
タランティーノは、やはり意志を貫いたのである。

一見すると戦争映画のような格好をしている映画に、全く別次元の物語を与えている。
笑いもさることながら、監督の真摯な態度を見いだすことができるだろう。
それにしても、冒頭の何気ないシークエンスにあれだけの緊張感を描き出すことができる映画監督はそうはいない。
また、言語に対するこだわりも、ほかの戦争映画の安易さに比べるとずば抜けた感性を感じさせる。
やはりこの映画監督は、単なるヲタクではないようだ。

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