secret boots

ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

大したことではないけれど。

2010-05-03 11:00:30 | 日記
こんにちは。
ゴールデンウィークだというのに、家でごろごろしているmenfithです。
観たい映画が微妙にない…。
「ウルフマン」「タイタンの戦い」…。どちらも微妙そうだしなぁ。
大阪では「17歳の肖像」がまだ未公開。
「プレシャス」は観たいけれど、ちょっと怖そうだし…。
といいながら、だらだら過ごしているわけですが。

大したことがなく、どうでもよいことを三点ほど。

一つ目は、「バットマン」の続編が制作決定というニュースがヤフーにありました。
監督、主演は変わらないとのこと。
「ダークナイト」の後になるのか、前になるのか、トゥーフェイスも登場すると言うことなので、期待はふくらむばかりです。

二つ目は、もっとどうでも良いこと。
アマゾンなどで、買い物をしたり、商品を選んだりすることが増えてきました。
時間がないのと、レビューを読めるということが僕としてはメリットなので、利用しています。
実際にはアマゾンで買うことは少ないので、申し訳ないのですが。

レビューを読んでいて気になることがあります。
ずっと気になっていたのですが、それは僕だけなのでしょうか。
レビューを書く人の一人称が「自分」とする人が異常に多いということです。

「自分は楽しめました」
「自分は前作をプレイしていないので、わからないのですが…」

などなど、僕が利用しているコーナー(主に本かゲームですが)だけなのかもしれませんが、かなり違和感を覚えます。

大阪では「自分」というのは、「あなた」と同義なので、余計に気になるのかもしれません。

(例)「自分、何食べるの?」など

「自分」と言った方が謙譲的なニュアンスが残るのでしょうか。
それとも、みんな軍人くずれなのでしょうか。(冗談です)
はじめは一部の人間が自身のアイデンティティのように、ユニークな表現として使っているのだと思っていましたが、そうではないようです。
間違っているとか、ただすべきだとか言う気はありません。
ただ、一つの表現としての効果や機能を考えると、どういう意識でその一人称を多くの人が表現しているのだろうと悩んでしまうわけです。

「自分」と書くよりも、「私」と書いた方がよほど謙譲的なニュアンスをもつだろうし、レビューを書いている人がみな日常で一人称を使いたいときに「自分」と言っているとは思えないし。
不思議ですね。

最後に、気になっていること。
それは、社会人として働いている自分に対する違和感です。
僕は都合、三つの職場を経験しています。
みな同じ職種ですが、やはりやり方や狙おうとしている客層などが違います。
どこがよかったという気はありません。
みな、どこかしらの問題を抱えていて、どこかしらの強みを持っています。
それは違う職種であっても同じ事でしょう。

環境の変化にもだいぶ慣れて、落ち着いてきました。
年のせいもあるだろうし、やはり経験してきた年数を重ねていけばいくほど、仕事じたいも楽にはなっています。

ですが、ずっと違和感があります。
このままこの調子で働いていていいのだろうか、とか。
お客さんやクライアントに喜ばれることはうれしいけれど、大丈夫なのだろうか、とか。
レボリューショナリー・ロード」のエイプリルではないけれど、日常に違和感を持ってしまいます。
「むなしさ」に近いのかもしれません。

本当はもっとできる仕事があるのではないか、とか、本当の自分の夢は違っていたのだ、とか言う気はないのです。
僕にはそんな大それた才能はないでしょうし、そんな高校生みたいな自分を特別視するような楽天家ではないですから。

それでもすごく違和感を覚えます。
こんな違和感を覚えながら、本当に顧客やクライアントの前に立っていて良いのだろうかと、疑問に思ってしまうわけです。

みんなそんな違和感に立たされ続けているのかもしれない、とも思います。
その中で自分を見いだしていくのかもしれません。
けれど、ふと、すべてを投げ出してしまう自分が現れそうで、とても怖いと思います。

こうして、こんな抽象的な話をブログという公共に向けて書こうとしているのも、結局は現実の自分をつなぎ止めておきたいからかもしれません。

生きるって、本当に難しいですね。とほほ。
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