secret boots

ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

絵と音楽で哲学思考に挑む、二人の冒険者たち。

2018-12-01 09:55:06 | 日記

平日。
年次有給休暇をとって、二人の世界(ザ・ワールド)に飛び込んだ。
一人は荒木飛呂彦。
もう一人は宇多田ヒカルである。
奇しくも、私は漫画家という職業で最も尊敬する人物である荒木飛呂彦のジョジョ展と、ミュージシャンとして最も愛する人物である宇多田ヒカルのコンサートと同じ日に体験することになったわけである。

平日の午後、殆ど予備知識なしで(何が展示されているのかも知らずに)ジョジョ展に向かった。
かなりの数の原画と、ジョジョの世界を体現したコラボレーション作品、そして12枚の実物大のキャラクターが描かれた作品が展示されていた。
もちろん、自作についての本人による解説も申し込んで味わった。

どこかのインタビューか何かで、荒木飛呂彦は、漫画を書き続けていると物事の本質を絵で理解することができるようになってくる、というようなことを言っていた。
彼は漫画を30年も書き続けることによって、絵で物理や抽象概念を理解するようになった、というのだ。
だが、それは嘘ではあるまい。
あらゆるプレテクスト(展示の中にも「織物」という表現があった)を集合させ、映画、音楽、絵画、彫刻、それらを漫画に落とし込んで一つの世界観を構築していくという彼の冒険は、まさに絵によって世界を捉えていくということに他ならないのだろう。
作品の中には、あからさまな「お手本」を感じさせる部分も多々あるが、そういう融合が彼を創り、彼の作品を育てていった。

私たちは物語を体験しながら、別の何かを手に入れるような世界に引き込まれていく。
コマ割り、台詞、立ち姿、リズム、展開、人物たち。
そこには漫画を、単なる「子どもの慰みもの」というような従来の評価を一変させる、何かがある。

最後の12枚の絵を見ながら、私はイギーを持って帰りたいと思ったし、何時間でもそこにいられるような居心地のよさを感じた。
彼は自分の道を歩もうとあがき続けた結果、こんなにもたくさんの人を感動させることができるようになったのだ。
平日にも関わらず、多くの人がこの展示に見入っていた。

そして、早めの夕食をとり、大阪城ホールに向かった。
生宇多田ヒカルは二度目なのだが、子どもが生まれたり、愛する人を亡くしたりする共通の経験(どこが一緒やねんと言われてもここは譲れない、ヒカルと共通なのだ!!!)をもつ私は、「2006 UNITED」のころよりもより深く彼女の音楽とともに生きてきた。
何度も他のミュージシャンのコンサートに参加してきたが、宇多田ヒカルは別格の期待があった。

「初恋」のアルバムを買ってチケットを申込み、子どもに「にほんごであそぼ」のCDがいいと言われても「初恋」をヘビーローテションし続けてきた。
もちろん、NHKのプロフェッショナルも見た。
ただならぬ意気込みで、大阪城ホールに向かったのである。

アリーナ席を逃したものの、スタンドのかなり前の方で鑑賞することができた。
一曲目が始まったとき、周りの観客が座り込んだままで、「え? 立たないの?」と度肝を抜かれたが、二曲目以降後ろの席の観客に目もくれず立ち上がって手を振った。

音楽を言葉で再現したり、評価することは愚かしいことなので、そしてまだこれからのコンサートもあるので、詳しくは書かないでおこう。
いや、私は彼女の音楽を、どのように言葉で表現すれば良いのかわからない。
ただ、少なくともその日にその場にいた人間たちは、等しく彼女が考える「真実」に近づいたことだろう。
彼女がもがき苦しんで、それでも見いだそうとした「真実」は、歌によって、曲によって、私たちは体験することができた。
それは、音楽によってしか自分を表現できなかった彼女の孤独と、しかし表現できた幸福とが合わさった何者かであった。

宇多田ヒカルは音楽によって「真実」を描き出そうとし、荒木飛呂彦は漫画によって世界を解き明かそうとしている。
一意専心ということばがあるが、まさに何かを続けていくと、身体感覚や表現感覚が漫然と生きる私たちとは違ってくるのかもしれない。

魂を揺さぶられる、そんな一日になった。


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 交渉人 | トップ | 早瀬耕「未必のマクベス」 »

コメントを投稿

日記」カテゴリの最新記事