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ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

確認としての〈物語〉

2010-05-05 20:55:12 | 不定期コラム
この連休の大安の日に、友人が結婚するというので関東まで旅行がてらに出かけた。
それまで全く結婚らしい話を聞いていなかったので、年末に聞いてびっくりした。
シンジ君なら「僕の気持ちを裏切ったな!」とののしるところだが、めでたい日なのでやめておいた。

さて、式が終わって披露宴。
新郎である友人が前日に完成させたというビデオを観ながら考えていた。
あるいは、その友人の高校時代の同級生で、今たまたま同じ会社で働いているという人と話していて考えていた。
そして、二次会でも今後の会社のあり方を熱心に語ってくれているのを聞いていて、考えていた。

その結婚する友人やその同級生、そして僕も含めて、この場にいる人間は、今まさに「自分自身の確認を行っているのだなぁ」と感じた。

僕のここ何年かの課題、というか命題、というかテーマは、人はなぜ〈物語〉を語るのか、あるいは聴くのか、ということだった。
それこそ太古の昔から、物語は生み出され、享受され続けてきた。
その〈物語〉が事実かどうか、真実かどうかは別にして、やはり人は語り続けてきた。
語り部という職業はすでに無いに等しいにしても、人はそれでも〈物語〉を手放してはいない。
マンガという形で、小説という形で、映画という形で、スポーツという形で、〈物語〉を求め続けている。
それはなぜだろうという気がしていた。

その答えというほどのものではないが、僕たちは友人の結婚式という場に参加することによって、自分の歩いてきた道を確認しようとしているのだろうという気がした。
それはやはり〈物語〉だった。
僕は今回、その友人のために、大学時代のメンバーを集めて、思い出話にふけるという場を用意した。
ちょっとしたメッセージノートを作れればと思ったからだ。
企画段階では全く前に進まなかったが、周りに呼びかけて、また自分でも探してみると、その頃の写真なんかがたくさん出てきた。
結果的にアルバムのようなものになってしまったが、それはまさにその結婚する友人と、僕たちの間で交わされた〈物語〉のようなものだった。

前に紹介した内田樹の「日本辺境論」にもあったが、やはり僕たちは確認作業を必要としている。
日常生活で生きている僕たちはしばしば自分の原点を見失う。
もちろん、見失うことがよいのか悪いのか、それは変化や成長なのかもしれない。
だが、日常の忙しさに見えなくなったものを、こうした非日常的な時間、空間において、再確認するのかもしれない。

「ダークナイト」を無性に見直したくなる時がある。
長く重たい映画で、気分が明るくなるどころか、沈んでしまう映画だが、見直したくなる。
それも同じなのかもしれない。

よく知ったマンガや映画、小説、ゲーム、音楽、絵画、彫刻。
それらは僕たちに〈物語〉を再確認させてくれる。
それは単純に「あの頃僕たちはこんなだったのだなぁ」というような思い出にふけったり、思い出に逃げたりしているのとは違うだろう。

それは、まるで体にいつの間にかついた汚れを洗い落とすようだ。

その友人の同級生は、熱心に僕に語ってくれた。
僕はそれを聴いて単純に興味深かったし、自分の仕事への関連性も考えさせられた。
最前線にいる人ほど、熱い情熱と揺るぎない信念と、そして夢を持っている。
10年後の彼に会ってみたいと思ったし、10年後の自分を見せたいとも思った。

一緒に遠出をした友人と話していた。
「あいつは全然変わらんけど、周りの人がどんどんすごくなっていくなぁ」と。

自分とは違う業種、職種の人たちと会話し、自分の〈物語〉を再確認しながら、自分の道を語っていくのだろうと、改めて思い知らされた。

そろそろ結婚しないとなぁ。(そんな再確認がオチかい!)
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